第三十話



 トウキ・アヴィロの朝は早い。


 動きやすい簡素な衣に着替えてから屋敷の裏口から井戸に向かい、さっと口をすすぎ、そのままうまやへ行き雪獅子ルイツスニヤと愛馬シャンドをはじめとする数頭の馬に挨拶しがてら餌と水をやり、全く使えないわけではないが別段得意というほどでもない剣を準備運動程度に少し振るった後、厩の馬たちを一頭ずつ屋敷の裏にある小さな放牧場に連れて行き、構ってほしいスニヤを撫で回してから、屋敷に戻って朝食をとる。国境警備の夜勤時と雨や雪がひどい日以外は毎日欠かさずやっている。


 昨夜は妻に頼まれて、泊まりに来た幼い義弟とちょっぴり夜更かしをして甘い蜜茶を飲みながら話し込んだ後、そのまま客室の大きな寝台で一緒に寝た。いつも通りの夜ではなかったが、酒は夕食時に少し飲んだだけなので記憶が飛ぶということはなかったし、目が覚めたのはいつも通りの時間のはずだ。


 それなのに、


「…………ドウジェどの……?」


 客室にいたはずの少年の姿がなかった。



     ◎     ◎     ◎



 屋敷中を、敷地中を、町中を探しても、ドウジェ・シェウは見当たらない。トウキが起きたとき――早朝にはもういなかったこともあってか、目撃者も皆無であった。農業を営む者たちが活動を開始する時間ももう少し遅い。

「ドウジェ……ドウジェ、なんで……どこ……?」

 朝食もとらずに走り回ったマイラは青い顔をしている。同じく息を切らせているトウキが頭を深く下げた。

「申し訳、ない……隣で寝ていたのに、全く気付かなかった……」

「いえっ、旦那様は悪くなんかっ……あの子、誰にも知られないように抜け出すなんて……!」

 エシュが屋敷の裏から駆けてくる。

「旦那様、奥様! 大変です!」

 その表情は深刻だ。

「どうしたエシュ」

「さっ、さっきまで、いたのにっ…………レイシャがいなくなってます!」


 こんなときに限って、黒き猛獣がいない。その場にいたアヴィロ家の面々から血の気が引いた――黒牙獣ワラウスレイシャは確かにマイラの友ではあるが、マイラ以外にはほとんど懐いていない。


「なっ……⁉ スニヤは何をしている⁉」


 そうだ、レイシャのお目付役がいる。レイシャがマイラ以外に従うのは、自分よりも格段に上だと強さを認めたスニヤのみ。


「それがっ……」

「何だ⁉」

「ね、」

「ね⁉」


 エシュは、言っていいのか珍しく逡巡しゅんじゅんしたが、思い切って口にした。


「……寝てます……」



 連れ立って厩に行ってみると、のんきに腹を見せて寝ていた雪獅子は皆の気配を察して目を覚ましたが、腹を見せたまま喉を鳴らしてごろんごろんと転がった。トウキが近付いてしゃがみ込む。

「スニヤ。ドウジェどのとレイシャがいない。何か知っているか?」

 ヒトの言葉を話せるわけではない、が、スニヤは言葉を解しているらしいので問い掛けてみる。しかしスニヤは身を起こし、ご機嫌な様子で豊かなみどりたてがみを主の頬に擦り付けるばかりだ。

「すっ、こらっ、スニっ、ぅぶっ」

 一歩進み出たマイラが、自信がなさそうに小さく言う。

「旦那様。その……確かに、レイシャは黒牙獣です、そうなんですけど……スニヤがいつも通りということは、心配ない、って……ことじゃ、ないでしょうか」

「その可能性は高いね。スニヤは何かあれば一番最初に気が付くもの」

 シウルも頷く。

「ただ、ドウジェ様とレイシャがいなくなっている、っていうのは、別で考えた方がいいんじゃないかな。レイシャはさっきまでいたんだし」

「ねぇ、旦那様、奥様! レイシャ、もしかして、ドウジェ様さがしに行ったんじゃないかな⁉」

 モユが訴えるが、シウルが眉をひそめる。

「あんたねぇ……動物好きなのはわかるけどさぁ」

「違う、違うんだよシウルさん、そうだけど、私確かにレイシャに触りたいとかいつも言ってるけど! …………あのね、私この前ね、……レイシャに、助けてもらったの」


 あのレイシャが、マイラ以外を?


薪棚まきだなのところに、蛇が出たの。すっごくおっきいやつ。どうしよう薪取れないって思ってたら……レイシャが来て……」

 モユはにやつきながら身悶えした。

「尻尾くわえて引きずり下ろして、そのままブンッて放り投げ……すっっっごいかっこよかったぁ……」

「モユちゃん、それ、たまたまレイシャがその蛇気に入らなかったからっていうことはない?」

「うっ、そ、それはっ……そうかもっ、でもっ……」

「あの」

 そ、と、エシュが手を上げる。

「実は、私も。身の危険とかそういうのじゃないですけど、一昨日乾いた洗濯物入れたときに、カゴから落としたの気付かなくて。レイシャが拾って持ってきてくれました」

「え!?」

「まぁ、渡されないで、目の前に落としていかれたんですけど」

「あ、あたしもある……」

 今度はフィーメイ。

「小屋から麦鳥むぎどり何羽か逃げちゃって捕まえられないで困ってたら、レイシャが……追い掛け回して、小屋の中に入れてくれて……」


 想像だにしていなかった、気高き夜の女王様の善行の数々の暴露。一同は言葉を失う。


 たまたま、気まぐれが起きたのだろうと思われた彼女の行動は、自分だけを助けていたわけではなかったのだ。


 ひっくり返るスニヤの腹を仕方なく撫でながらしばらく思案していたトウキが、ひとつ、息をつく。

「……だとしても、だ。シウルが言った通り、ドウジェどのが姿を消したことは別で考えるべきだろう。ウェイダは国境に接する山間やまあい、安全な場所とは言い切れない」

「旦那様」

 マイラは切迫した顔で詰め寄った。

「ドウジェは、昨夜、何か言っていませんでしたか?」


 思い出してみる。


 ドウジェは、始終楽しそうに喋っていた。


 頭が良くて丁寧に勉強を教えてくれる父のこと。教わった作法をちゃんとできるとたくさん褒めてくれる母のこと。少し遠いところに嫁いでしまった美人で優しい上の姉のこと。女らしくはないが一緒にいると楽しくて頼もしい下の姉のこと。同じ年頃の友人たちとのこと。そして、婚約するだろう仲がよくてちょっと好きかもしれない女の子のこと。

 皆のことが、大好きで、大切なのだと伝わった。本当にマイラとそっくりだ。


 同時に、話を聞きながら、幼いが周囲のことをよく見ているのだとトウキは感心したものだ。そういえば、以前シウルが言っていた――「末っ子は想像以上に『見てる』もんだよ、見習うものがいっぱいあるからね」、と。

 そんな中で、彼にとっての今の旬な話題はやはり「最近持ち出された近々確定するであろう婚約」だったのだろう。ユイナという女の子の名をよく口にしていた。こういった話は、あの年頃の友人たちとの間では話題にすれば冷やかされてしまうし、親と話すのも気まずさがあるのかもしれない。だから“ある程度の「距離」のある”・“でも親しくないわけではない”・“少し歳上の”トウキに相談したかったに違いない。


「すごく、気にしていた。ユイナという子のことを。上手くやっていけるか、とか、心配していた」

 夫の言葉に、マイラも考える。


 何故ドウジェは婚約が確定する前にウェイダにやって来たのか。

 何故朝早くに屋敷を抜け出したのか。


「…………旦那様。白蜜花ブラーレの群生地は、ここから遠いですか?」

 心当たりを見つけたらしい妻に、トウキはスニヤの腹をぽんぽんと叩いて起きるように促し、自身も立ち上がる。

「歩きなら片道二刻はかかる」

「連れて行って下さい。シウルさん、ふたが閉まる小さめの瓶、二つありませんか? エシュ、モユさん、朝ごはんの準備お願いします」

 何かを感じ取ったか、スニヤがマイラにぴったりとくっついて、そのままぐるりと一周、体を擦り付ける。尻尾はずっと、上向きだ。

「スニヤ。次からは、何かあったら教えてくれると嬉しいな」

 微苦笑しながら頭を撫でると、うぅん、と小さく鳴きながら、尻尾の先をマイラの腕に巻き付けた。



     ◎     ◎     ◎



 その頃のドウジェ・シェウはというと、


「…………こっち! の、はず?」


 山道にて見事に迷子になっていた。立ち止まり、地図をぐるぐる回転させる。

「あれ? でも脇道ないぞ? ……おっかしいなぁ、さっきのとこ左だったのかなぁ? でもあっちが東だしぃ……」

 元々山に囲まれたツァスマで生まれ育っているせいか、ドウジェは山の中で一人きりになっていても臆することはなかった。知らない土地ではあるが、地図と紐で吊した方指石ほうしせき、茶角鹿の干し肉と花蜜を固めた飴、先程木筒に汲んだ湧き水を持っているし、身の丈に合わせて作ってもらった剣も腰に提げている。

「早くしないとなくなっちゃうな……どうしよ、ちょっと戻って……う~ん」


 悩んでいるところに、近くの茂みが大きく動いた。


「ひゎっ⁉」

 驚きながらも思わず剣の柄に手をかけて構えるが、そこから突き出ているのは真っ黒な鼻先。少し後方には、同じ色をした毛足の長いはたきのような尻尾がゆらゆら揺れている。

 もしかして。ドウジェはその名を呼んでみた。

「……レイシャ?」

 ずぼっ、と顔だけを出す。そんな滑稽こっけいな動きをしているが、眼光だけは鋭い――ように、見える。怖い獣だと言い聞かされてきたせいかもしれないが。

「どう、したの? 姉上は?」

 少し怯えつつも呼び掛けると、茂みから出てきたレイシャは不機嫌そうに唸りながらドウジェの前に立ちはだかった。鞭のように音を上げながらしなる尾は、打ち付けられたら骨が折れそうだ。

 昨日は全く見せなかった姿に、ドウジェは臓腑ぞうふ全てが締め付けられたような恐怖を感じた。

「あ……え……? なんで……? あ、あねうえ……?」


 寒気。足がすくむ。手が固まり震える。じわじわと口中に湧いた唾液を飲み込む。怖い、だが視線を外してはいけない、外せない。


 レイシャの強さは姉から聞いている。姉でさえ勝てると思えなかったと言うほどだ、自分では絶対に、簡単に殺されてしまう。


 黒牙獣は跳躍した。やられる。目を閉じ身構えた、が。


「んっ?」


 想像していた痛みの代わりに、ドウジェは体がふわっと浮いたのを感じた。


「ん⁉」


 状況を理解する前に、べちゃりと地面に落下。背負っていた荷袋は肩紐が切れ、緩まった口から蜜飴を入れた缶が転がり落ちてカラカラと鳴る。

「いっ……てぇ~……」

 本当に一瞬のことで何が起きたのかわからなかったが、ドウジェの肉はどこも切り裂かれていない。そしてその代わりとでもいうように荷袋が破損している。レイシャはドウジェを傷付けないように荷袋をくわえて、投げ飛ばしたのだ。

 どうして――そう考え始めたところに、後ろから獣の声と、地を蹴る音がする。はっとしたドウジェは振り返った。

「レイシャ⁉」

 姉の友たる夜の女神の名を持つ獣は、そっくりな影のような獣を相手に激しく威嚇していた。レイシャよりも一回り大きく、尾の先が曲がっている。見覚えがある。あれは、数年前にツァスマに現れた個体だ。

「レイシャ!」


 ドウジェの叫びを合図に、二匹の勝負は始まった。




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