第三十一話



 【黒牙獣(ワラウス)】

 大陸全土に棲息している、黒い毛並みと大きな牙を持った獣。基本的には単独で行動するが、子育て期には小さな群れを作る様子もみられる。オス・メス共に高い知能を持つ反面、非常に気性が荒いため、飼い慣らすことはほぼ不可能といわれている。人里に現れ、家畜や人間を襲うこともある。



     ◎     ◎     ◎



 体格差はあれど、レイシャは素早く立ち回り野生の黒牙獣ワラウスを翻弄した。ドウジェの方に向かわせないようにしながら、徐々に距離を取る。隙を見て逃げられればいいのだが、しかしドウジェはまだ幼いためかレイシャの思惑にまで考えが至らず、立ち上がれないまま、ただ二匹の戦いを見ている。レイシャがヒトであったなら舌打ちのひとつでもしただろう。

 食らい付こうと野生の黒牙獣が飛び掛かる。その、飛び上がった下をすり抜けて背後に回ったレイシャは、相手のやや短く折れている尾をくわえて力一杯引いた。思わぬ方向に引っ張られ、ずるりと足を滑らせた黒牙獣は、体勢を崩し転倒する。そこへすかさずのし掛かったレイシャの牙が、暴れる黒牙獣の喉元のどもとに突き立てられる。悲鳴の響きに、ドウジェは我に返った。また、胸から腹にかけてが、きゅう、と締め付けられるような感覚をおぼえる。

「だっ、ダメっ! レイシャ、やめて!」

 思わず叫ぶ。しかしレイシャはとどろく雷のような唸り声を上げるだけでやめようとはしない。

 当然だ。喉を食い破ろうとしている相手は、己やドウジェの命を脅かす存在。今ここで仕留めなければ殺される。元々野に生きていた彼女は、本能としてそれを理解している。情けを掛ける必要はない。

「やめてよ、ダメだよ! お願いやめて! レイシャがそんなことするの姉上絶対嫌がるよ! 殺しちゃダメ!」

 レイシャのあごに力が入る。ひうひうと悲痛な声が耳を貫く。折れ曲がった尾が地面を掃くように動く。鬱陶うっとうしい、とでもいうように、レイシャの後ろ足がそれを踏み付ける。容赦がない。


 荒ぶる夜の女神の姿に対する恐怖心。

 恐ろしいことをしようとする姉の友に対する悲しみとほんの少しの怒り。


 ドウジェは絶叫した。


「レイシャ‼」



 突如。



 ざっ、と大きな音を立て、大きなものが茂みから飛び出した。

 滞空している状態のそこから、何かが飛び降りてドウジェとレイシャの間に立つ。


「レイシャ、やめてあげて。その子降参してるでしょ」


 帯代わりに巻いた布に雑に差した剣をいつでも抜けるように構えながらも、掛ける声は優しい。唯一美しいとたたえられることがある長い髪をゆるく結った、よく知っている後ろ姿。


 呆然としているドウジェの肩を、あたたかいものがぽんと叩く。

「怪我はないか」

 振り向いたそこには、半面を仮面で隠した赤い髪の義兄と、人懐こくて大きな白い獣。ドウジェは――姉と義兄を交互に見た。

「あっ、あにょ、うえっ」

「落ち着きなさい」

「ほぅうぇっ?」

 転がったままの飴の缶を拾い破損し口が開いたままの荷袋に入れると、トウキはへたったままのドウジェを抱き上げる。見た目よりも力があるので軽々だ。

「無事でよかった」

「っ、ごっ、めんなさっ、勝手に出てきちゃっ……」

 今にもこぼれそうに涙をたたえた少年の目とかすれ震える声に、それまで抱えていた恐怖と緊張を感じ取る。抱き締めて、背をさする。

「まぁ話は後だ」

 二人でそろって、黒い獣たちとマイラを見やる。


 マイラは、恐れる様子を一切見せずに、黒牙獣を押さえ付けその喉を噛むレイシャのすぐそばまで近付いた。

「レイシャ、いいよ離して。スニヤと旦那様もいてくれるから、大丈夫」

 うぅ、と不満げな声を出しながらレイシャはマイラをにらむ。


 わずかに逆立っている毛並みを、彼女の気持ちを、落ち着けるように、そぅっと撫でる。


「ドウジェを助けてくれてありがとう。貴女あなたがいてくれて、本当によかった。でもね、レイシャ。私はできれば貴女に汚れてほしくないし、この子は貴女には適わないってわかってるはず。もう充分だよ。見逃してあげてほしいな」


 静かに声を掛けてから、離れる。

 マイラとの間にある程度の距離ができてから、レイシャも身軽に跳躍ちょうやくして黒牙獣から離れつつ、攻撃されたら迎え撃てるように身構え警戒した。黒牙獣はよろよろと立ち上がり、荒い息のままレイシャを見つめた。尻尾はだらりと下がり、戦意を失っているのがうかがえる。

 一歩、前に出て、レイシャは小さく一声えた。黒牙獣はゆっくりきびすを返し、走り去っていく。もうこちらへは戻ってこないだろう。

 黒牙獣の姿がすっかり見えなくなってから、マイラはレイシャに駆け寄り、レイシャの頭を抱いた。

「ありがとう。ごめんね無理言っちゃって」

 返事をするように長い尻尾がマイラの腕をぺしりと打つ。

「いったっ! ごめんってばぁ……あっ」

 友の腕の中を抜けた女神の名を冠する黒き獣は、ドウジェを抱っこしたトウキの前まで行くと座った。ついさっきまで同族を痛めつけていたとは思えない行儀のよさだ。

 目が自分とは合っていないと察したトウキが、

「貴殿に言いたいことがあるようだ」

 下ろすとドウジェはびくりとした。怖い、が、怖がるそれ以前に、自分を助けてくれた彼女に「まず言うべきこと」はわかっている。


「あ、え、っと……その、あ、ありがと……」


 恐る恐る、礼を述べる。と、レイシャは身を屈めたかと思うと後ろ足だけで立ち上がり――



  ドッ



 両前足で、ドウジェの肩のあたりを叩くように突き飛ばした。

 倍ほどもある大きさの獣の力一杯の攻撃に、


「あぎゃッ!?」


 少年の体は勢いよく後方へすっ飛ぶ。夫婦は唖然あぜんとした。レイシャはふん、と大きく息をして、スニヤのかたわらに移動する。スニヤがぺろり、レイシャの顔を舐め、レイシャも舐め返す。

「……ふ、ふふ、っくくっ……あっはははっ」

 マイラが笑い出す。姉の友の仕打ちに、姉の反応に、ドウジェはふくれる。女の子のような顔が、解せない気持ちでいっぱいだ。

「なに⁉ なんで⁉」

「お仕置き、だな。レイシャも心配していたんだ」

 笑いをこらえながらトウキが手を差し出す。引き上げられ立った小さな義弟の肩についたレイシャの足跡を払い、その手でそのまま、優しく掴む。

「ドウジェどの。今レイシャが代わりにしかってくれたから、俺もマイラもとがめるつもりはない。…………ただ、よく考えてほしい」


 目線を、合わせる。


「ここは、貴殿にとっては姉の嫁ぎ先であると同時に、異国だ。確かにウーリュン川を渡るだけで簡単に行き来できるし、言葉も文化もさほど違わない。でも、治めている国主が違う、異国だ。しかも貴殿はファンロン王の甥にあたるアデンどのの子、俺はこのウェイダ領の領主でクォンシュ皇帝の従弟。俺が責任を持って預かるこの地で、貴殿の身に何かあれば、これまで仲良くしていたファンロンとクォンシュの関係が壊れてしまうかもしれない。言っていることが、わかるか?」


 怖い思いをした直後、しかも妻の身内の幼い子どもということで、トウキはできるだけ、きつくならないように語り口に気を配った。


 甘いだろうかとほんの少し思ったが、ゲンカ――自分の父は、記憶の限りでは自分に、一緒に育った従兄に、こうしてくれていた。


 理解してくれると信じて。


 ドウジェは、一瞬口を引き結び、


「はいっ。ごめんなさいっ!」


 頭を下げた。大変なことをしてしまったのだと自覚したのかまた目が潤んでいるものの、宿る光は強い。ああ、大丈夫だ、伝わっている。流石はマイラの弟。トウキは安心と嬉しさに笑む。

「うん。わかってくれればいい。……それから、どうしても、したいことがあるのなら、相談してほしい」

「……でも」

「俺も、姉上も、決してバカにしたりはしない。力を貸すから」

「…………」

 黙り込み、うつむいてしまったその頭に、

「ドウジェ」

 姉の手が添えられ、がしゃがしゃき回す。

「いいから早く行こ、消えちゃうよ。……旦那様、弟を、お願いできますか」

「ああ、じゃあ、急ごうか」

 トウキは再度ドウジェを抱え上げると、早く駆けたくてうずうずしているスニヤの背に乗せて、自分もその後ろに跨がった。ドウジェは不思議そうに義兄の顔を窺う――話していないはずなのに。

「あにうえ、なんで、」

「さぁ、何でかな」

 合図をするとスニヤが駆け出す。マイラもご機嫌斜めそうにしているレイシャに、お願い、と小さくささやき、取り出した手綱たづなを着けながら額に口づけると、レイシャが仕方なさそうに少し屈んだのでそこにひょいと乗り、その後を追った。



     ◎     ◎     ◎



 冷涼な高地に生育し、上品でさわやかな芳香とさらっとした軽めの蜜を持つ白蜜花ブラーレは、花を乾燥させて茶に混ぜたり、杯の口縁こうえんに蜜を塗り酒を注ぐなど、さりげない香り付けに用いられることが多い。


 クォンシュ帝国ウェイダ領内にある白蜜花の群生地は、温泉観光地としてそこそこ栄えているロナル鉱山の麓の町からは離れているので、「ついで」に立ち寄るには難しい場所にある。そのため、


「わぁ……」

「すっ…………げぇー‼」


 ほぼ手つかずの、それは見事な花畑が広がっているのだ。姉弟は同じようにあんぐり口を開け、同じように感動の溜め息をつく。真っ白な花と鮮やかな葉の緑に、日の光を受けた朝露がきらきらと輝くさまは、実に美しい。

「この時間帯が一番きれいなんだが、入ると露で濡れるのが難だな」

 頭を擦り付けてくるスニヤの耳の後ろを掻いてやりながら、トウキが苦笑する。

「これに用があるんだろう?」

 はっとして、ドウジェは姉を見る。そうか、話したのか。

「姉上っ」

「ドウジェ、入れ物持ってきてないでしょ」

「んっ…………あっ⁉」

「そうだと思った。はい」

 マイラが肩から提げた小さな荷袋から蓋付きの小さな瓶を出し、一つ弟に渡す。そして手には更にもう一つ。

「姉上」

「私も作ろうと思って」

 にこ、と笑ってしゃがむと、露のついた白蜜花を摘み取り、花弁を一枚一枚ばらして瓶の中に詰めていく。ドウジェも慌てて同じようにする。そうだ、これをしたかったのだ。

「お屋敷に戻ったら、すぐ花蜜詰めてもらおうね。ツァスマに帰るまでそのままにしてたらお花の色変わっちゃう」

「……ねぇ、姉上」

「なぁに?」

「こんなの、女の子がすることだって、思わない?」

「ユイナ絶対喜ぶよ。だって、こんな朝早くに起きて、自分を想って作ってくれたんだもの。……よし、このくらいでいいかな?」

 立ち上がって蓋を閉め、満足そうに目の前に掲げるマイラの隣に、トウキが並ぶ。

「これを、どうするんだ?」

「それは秘密です。……ドウジェ、そろそろ戻らないと。お屋敷の皆さんが心配してるし、お腹空いたでしょ」

「待って!」

 最後の一輪を摘み、一番上に花弁を重ねると、蓋を閉めて荷袋に突っ込んだ。

「できました! 義兄上あにうえ、姉上、ありがとうございます!」


 ぺこりとお辞儀をして上げたその顔は、昇りくる朝日のようにまぶしかった。



     ◎     ◎     ◎



 ファンロン王政国ツァスマ領公子ドウジェ・シェウは、騒動を起こした日の日中に予定通りにロナル鉱山周辺を見て回り、その翌日は朝からエシュの実家で作物の収穫と植え付けを手伝い、国境警備隊の詰所を経由してウーリュン川の橋の工事を見学して、ツァスマへと帰っていった。

 似たような気候で似たような治め方なので、特に学ぶものはなかったのではないか、と別れ際にトウキは言ったのだが、


「でも、やっぱり、ウェイダはツァスマと何かちょっと違います。国が違うからかも」


 自然な笑顔でそんなふうに返すものだから、思わず笑ってしまった。やはりマイラによく似ている。

 そして最後の最後に、ドウジェはレイシャに対し改めて礼と挨拶を――しかも、それまでの九歳児らしい少しくだけたものではなく、丁寧な言葉で、膝をついた最上の敬礼をだ――した。付近にいたウェイダ側の職人たちは驚いた。奔放ほんぽうな領主の奥方様もごくまれに姫様らしい姿を見せるが、奥方様そっくりなその少年もまた教育の行き届いた貴人の子であるのだと思い知ったのであった。


 黒く美しく荒々しい夜の乙女はというと、ひざまずく公子の額に、鼻先をちょいと付けてそれにこたえた。




「で」

 小さなあかりがひとつだけいた、就寝寸前の寝室。寝台で仰向けになっていたトウキは、隣で横になる妻の方を向いた。

「結局あれは、何の意味があるんだ?」

 問い掛けると、マイラも夫の方を向く。

「昔から伝わるおまじないです。朝露で輝く白蜜花はコファンの加護があるといわれていて、それを摘んで花の色が変わらないうちに蜜漬けにしたものを贈ると、贈られた人には幸運が訪れる、って。術具じゃなくてあくまでおまじないなので、実際の効能のほどは定かではないんですけど、見た目がきれいで香りもいいしおいしいし、お茶やお酒に入れたりケイツェにかけたりするとちょっとした贅沢ぜいたく~って、ファンロンの女性の間ではあこがれの一品、みたいなところがありまして。でも市販品は高価なんですよね、ツァスマじゃ売ってないし」

 コファンは女神レイシャの弟とされる、夜明けの神だ。その性質から、悩みを晴らし希望をもたらすといわれている。

「ドウジェは多分……自分で作ったあれを贈って、ユイナに『一緒に幸せになろうね』って伝えたかったんじゃないかなって、思います」

「……そうか」


 あれは、相手の幸せを願う小さな祈りなのだ。

 入手が難しいとか、小遣いが足りないとか、そういった要因もあったのだろうが、真っ直ぐだが少し照れ屋な彼なりの、ありったけの気持ちを何とか形にしたもの。


「きっと、いい関係を築けるだろうな」

「はい。ユイナもすっごくいい子なので大丈夫です。安心してドウジェを任せられます」

「そうか」

 自信満々な妻に、トウキは少し、笑った。一日目の晩にドウジェと語らった内緒話の中に「ユイナ姉上にちょっと似てる」という言葉があったのを思い出したのだ。もしそうなら、そうだろう。きっと上手くいく。


 そこまで考えて、ふとまた別の記憶が蘇った。


 そういえば。


「マイラ」

「はい」

「お前も、作っていたな……」


 先程の話の内容的に、朝露と白蜜花の蜜漬けとは、まるで愛する者への贈り物のようではないか。


「はい」

「その、贈るあてが、あったり……」


 もらえれば嬉しい、が、まさかそんなことは。もらえれば嬉しいが。


 そんな淡い期待は、


「あぁ、いえ、そういうんじゃなくて。以前父が都に行ったときに、みんなで使おうって大きな瓶で買ってきてくれて、すごくおいしかったのでもう一度味わいたいなー、って思いまして」


 案の定はずれてしまった。わかっていたはずだ。彼女は確かに自分を大切に思ってくれてはいるが、自分が彼女に向ける気持ちと同じものを自分に向けてはいない。

 内心激しく落胆しながら、しかし顔には出さないように努めながら、トウキは上を向いた。


「そうか」


 と。


「旦那様、口にされたことないでしょう?」


 手が繋がれる。


「本当に、すごく、すごく、香りがよくておいしいので、お酒でもお茶でも、試していただきたいなって。しっかり香りがつくまでちょっと時間かかっちゃいますけどね」


 出来上がりを楽しみにしている、うきうきした声。あぁ、そうだ。彼女はこういう娘だった。落ち込んだ気持ちが、ゆっくり、少しずつ、浮いてくる。


 握られた手を握り返す――少なくとも今のところは嫌われてはいないようだし、まぁこんなでもいいか。


「そうか。楽しみにしている」

「はい」




 翌日、国境警備隊の詰所に到着するなり、トウキ・アヴィロは気付いた。


「俺が作って贈ればいいんじゃないか⁉」


 突拍子もなく大きな独り言を放った隊長に、


「はぁ?」


 共に出勤した副官チュフィン・ロウは疑問を呈した。



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