奥様の弟と夜の乙女編

第二十八話



 朝食のパンをカゴから取ったトウキが、思い出したように言った。

「あぁ、そうだ……マイラ、そういえばドウジェどのが好きなものは、何かあるだろうか」

「はい?」

 このひとは突然何を言うのだろう――不思議そうな顔のマイラに、更にトウキが怪訝けげんな表情を重ねる。

「……え、と。ん?」

「旦那様、どうしてドウジェが」

「…………明日から三日ほど、こちらに来る、と……」

「えっ? いつの間にそんな?」

「いや、……えっ、あれ……話し、て」

「聞いてないですよ⁉」


 清流ウーリュン川を挟んだお隣・ファンロン王政国ツァスマ領の公子ドウジェ・チェーネ・シェウ、九歳。マイラの異母弟。


 明日から数日間、クォンシュ帝国ウェイダ領アヴィロ邸に「一人でお泊まり訪問」である。



     ◎     ◎     ◎



「もう、もう! 旦那様ったら!」

 憤りながら力強く揚水機ようすいきぐマイラに、しゃがんで洗濯をするシウルと女中衆の一人モユが笑った。

「ごめん、ごめんねマイラちゃん。あいつああいうところあるから」

「旦那様って結構抜けてますよねぇ、流石箱入り坊ちゃん」

「でも、ここしばらくいつものお仕事だけじゃなくて現場にも通っていたので……お忙しいからしょうがないといえばしょうがないんですけど……」


 そう、領民への税の通知を終えたばかりの領主様は変わらず多忙だった。

 才女ルコが補佐役に来てくれたとはいっても事務仕事が全くなくなったわけではないし、数日ごとに国境警備の任、しかも日によっては夜勤もある。更に今は、マイラの故郷であるファンロン王政国ツァスマ領と結ぶ街道の、ウーリュン川にかかる橋の補修工事が行われている。ウェイダ領に住む職人だけでは数が足りないので隣のチェグル領から呼び寄せているし、ファンロン側からも金銭や人員が出ているので、領主たるトウキが顔を出さないわけにもいかないのだ。


 そんな中で、父アデンにくっついて工事現場見学にやってきたドウジェが、「遊びに行きたい」と言ってきたらしい。


「いや、その……ドウジェどのも、きっとお前に会いたいのだと、思って……俺は今忙しいからあまり相手はできないと一応伝えてはあるんだが……」


 ――マイラの身内ということもあってか、どうも断れなかったようである。


「それはそれとして! もう、明日だなんて時間がなさすぎる! 何も! 準備! できない!」

 感情に任せて漕ぎまくる。とはいっても、夫に対する怒りではない。トウキはちゃんと謝罪してくれたので、マイラはそれでよしとした。しかし身内とはいえ客人の来訪を突然告げられたという事実は別問題である。ドバドバ出る水に、シウルとモユが慌てた。

「ちょっ、マイラちゃんっ、水っ」

「止めて止めて多い多い!」

「わわわわごっ、ごめんなさいっ!!」

 何とか止めた水になみなみと満たされた広い洗い場には、避難したシウルとモユの手から離れた洗濯物が泳いでいる。それを見た三人は、

「…………」

「……ぶっ、ふ」

「んっふふふふ」

 何故かおかしくなって笑い転げた後、カゴに残っていた洗濯物、そして洗濯用の灰汁あくも全部水の中にぶちまけ、裾を上げて履き物を脱ぎ洗い場に飛び込んだ。


 手を叩き、繋ぎ、回り、踊るように踏み洗うと、飛び散る雫が日の光に照らされて、上げた裾を飾るようにきらきら輝く。


 口ずさむのは古くからある風の神を讃える歌。明るく弾む旋律は、酒宴の席でも好んで演じられる曲だ。特にこの時分は春を呼ぶ風の節が祈りの意味を込めてよく歌われる。


 そんなふうに奥様と侍女と女中がキャッキャとはしゃぎながら洗濯しているところへ、外出用に軽く身支度を整えたエシュがやってきた。

「奥様、買い物行くんじゃないんですか何して……ってびしょびしょじゃないですかさっさと着替えてきて下さい! 早くしないとお肉の仕込みする時間なくなっちゃいますよ!」

「あっ! ……あ、あのっ、シウルさんモユさんっ」

 二人はマイラに向かって手を振る。

「うんうん、こっちは大丈夫だよ行ってらっしゃい」

「あ、エシュー、奥様と一緒に行くんだよねー? 花蜜頼んであるやつ取ってきてー!」

 モユのおつかい依頼に、

「それモユさんの担当じゃないですか!」

 エシュは抗議するが、しかし本気で怒ってはいない。一応割り振りはあるものの、アヴィロ家の女中衆は持ちつ持たれつで協力し合いながら仕事をするのを苦としないほどに仲がいい。

 帯代わりに巻いている布を解き足を拭きながらマイラが言った。

「んー、となるとちょっと荷物重たくなるなぁ……荷車使うほどじゃないからスニヤにお願いしちゃおうかな……エシュ、着替えついでにスニヤの荷袋持ってくるのでちょっと待ってて下さい」

「スニヤ連れてったらレイシャもついてきたがるんじゃないですか?」

「そうなったら……レイシャにも荷物持ってもらいましょうか」

 屋敷の裏口に駆けていく奥様を見守りながら、エシュは溜め息をついた。

「大丈夫かな……」

 レイシャは領主様の奥様の愛玩している黒牙獣ワラウス、という話はウェイダ領内に広がりつつあるが、それでも黒牙獣は獰猛な獣として名が知れている。マイラが背に乗っていても駆ける姿を見て恐れる者が多いようだ。

「大丈夫でしょ、レイシャ頭いいもん」

 洗濯物の汚れが落ちたか確認しながらモユが言う。

「たま~にごはんおねだりするようになってきたんだよね、まぁそれ以外は相変わらず無視だけど。……いいなぁ奥様、あたしもレイシャなでなでしたいよぉ~、絶対気持ちいいじゃんあの子の毛~」

「レイシャは赤ちゃんの頃からトウキに育てられたスニヤと違うからね。トウキも最近やっとちょっとだけ触らせてもらえるようになったくらいだし」

 シウルは苦笑しながら洗い場の栓を抜いた。

「まぁ、遠くから連れてこられて、不安なのかもしれないね。私らのことは敵じゃないって理解してもらえてはいるみたいだけどさ」

「元々野生の獣ですし、警戒心強いのはしょうがないですよ。レイシャに触らせてもらいかたったらモユさんも奥様みたいに勝負して勝つしかないですね」

 エシュが頷くと、モユは、

「そんなの無理だよぉ」

 不満そうにぷぅ、と頬を膨らませた。


 と――小さな足音が聞こえた。


 ふと見ると、そこには例の黒牙獣。


 つややかで真っ黒な被毛。紺青こんじょうと銀の紐で組まれた首輪に、氷晶石の珠がきらめく。

 月と星で着飾る夜の乙女の名を与えられた獣。


 美しく、しかし畏怖いふすべき存在。


 三人は息をのみ、固まった。今この場にはマイラもスニヤもいない。今襲い掛かられたらひとたまりもない。


 しかしレイシャはというと、ゆっくりと近付いてきて、器用に前足を使い揚水機の柄をカチャカチャ鳴らした。シウルがはっとする。

「あっ……お水? 飲みたいの?」

 応じるかのごとくレイシャはその場に座る。鞭のようにしならせ地面を叩く尾に「早く」という意をくみ取ったエシュが駆け出す。

「待ってて、器持ってくる!」

 不遜なる黒き獣の様子に、

「夜の乙女っていうより……女王様だなぁ……」

 モユが呟くと、レイシャは目線だけ向けて、ふすんと息を吐いた。



     ◎     ◎     ◎



「へぇ、じゃあ、エシュの下の弟さんはドウジェと同い年なんですねぇ」

 買い物の帰り道。マイラとエシュはお互いのきょうだいについての話題に花を咲かせていた。エシュにも弟が二人と、まだ赤子の妹が一人いる。

「弟……弟、と、いっていいんでしょうか……」

「いいに決まってるじゃないですか。エシュは立派なツェイリー家の一番上のお姉さんです」

「そうです、かね」

 婚約が決まってから、エシュはやわらかく笑うようになった、とマイラは感じている。出生に複雑な事情を抱えていたエシュであるが、家族と腹を割って話したことにより以前より打ち解けたらしい。

「そういえば、その……奥様は、嫌じゃないですか? 私が旦那様の元婚約者とか。……まぁ、そうはいっても私が赤ちゃんの頃に決まってすぐなくなったお話ですけど」

 少し気まずそうな顔でエシュに問われ、マイラは二回、瞬きした。

「何故です?」

「何故、って」

 少し考えて、問い返す。

「エシュは、旦那様をお慕いしていたんですか?」

「失礼ながら全然好みじゃないですね」

 ばっさり切り捨てるように言うものだから、思わず笑ってしまう。確かにトウキはチュフィンとは性質が違う。

「奥様は、旦那様のことどうお思いなんですか」

「えっ」

「旦那様と仲良くしていらっしゃいますけど」


 正直エシュは気になっていた。いや、エシュ以外の、アヴィロ家に仕える面々も全員気にしていた。


 『旦那様と奥様は仲睦まじく見えるけど実際どうなのか』


 アヴィロ家の家人たちはほぼ全員、トウキがマイラを迎える際、一生懸命準備していたのを知っている。それまで何事も“最低限の義務”のようにこなし、領外に関係することであれば全てシウルかチュフィンに任せきりだった彼が自分から動くようなことは初めてだったので、当初どうしたものかと皆が驚いていたのだが――それはマイラが嫁いできたことにより謎が解けた。


 『トウキ・ウィイ・アヴィロは、お隣から嫁いできた十以上も歳下の妻に好意を抱いている』


 「自身から申し出て迎えた」「隣国の貴人の娘だから」、というのも勿論あるだろう。しかしそれを抜きにしても、彼はとても、とても、とても、奥方を大事に扱っているのが見て取れる。


「あれは恋だな、俺にはわかる」


 エシュは思い出す。ある日チュフィン・ロウは完全に理解した気になっている顔で言っていた。


「俺もエシュがめちゃめちゃ可愛いから笑ってる顔見ると酒が進むしエシュには可愛いの着せたいし何かきれいなのあげたいしうまいもん食わせたいし行きたいとこ連れてってやりたいしあといっぱい抱っこしたいし、…………何だろう、こう、何かいろいろ、何か、してやりたい」

「…………フィーは私のこと孫か何かだと思ってない?」

「何でぇ!? 違うよ未来の嫁さんだよ!?」


 お爺ちゃんと言ってること一緒なんだよなぁと思考を巡らせ、そこで我に返る。違う。今は自分のことではなくて。


 自分を頼ってくれると同時に妹のように可愛がってもくれている旦那様には報われてほしい。普段後ろ向きになりがちで積極性もあまりない彼が、彼女という存在を迎え少しずつ変わりつつあるのはいいことだ、とエシュは常々、ふんわりと思っているのである――が、肝心の奥様はどうなのか。そこが問題である。


 マイラは答えた。


「旦那様は、お優しい方ですよね。私、大事にしていただいてるなぁって。すごく嬉しいし、安心してます」


 ふにゃりとした笑顔。エシュもまた、安心した。少なくとも好ましく思ってくれてはいるようだ。


「でも、最近は……お話する時間が減っちゃって、ちょっと、寂しい、かな。お忙しいからしょうがないんですけどね」


 話せなくて寂しい――そんなふうにも思ってくれているのか。自分のことではないがエシュは少し嬉しくなった。


 きっと、彼女が旦那様に向ける感情は自分がチュフィンに向けるものと同じではないのだろう。が、得体の知れない男に突然嫁がされた彼女が、嫁いで半年ほどなのにこう言ってくれているというのは、いい関係性を築いている証拠ではないだろうか。


「……工事なんてすぐ終わりますよ。職人さんたちもいっぱい来てるし、順調に進んでるっていうし」

「そうですね」

「私たちだって明日から忙しくなりますよ、奥様。奥様の弟君とはいってもお客様なんですから、元皇子が主人たるアヴィロ家の名に恥じないようにおもてなししないと!」

「はい!」

 荷物持ちを手伝ってもらうのに連れ出し並んで歩いていたスニヤが、つられて返事をするようにエシュに頭を擦り付けた。突然手元に来たふわふわした大きなものを撫でると、嬉しそうに目を細めながら大きな耳を動かす。

「そうだね、スニヤにもドウジェ様のお相手してもらおうね。…………」


 やや後方に目を向ける。

 マイラの斜め後ろ、少しだけ距離を取りながら、背に荷袋を乗せた黒い獣が静かに歩いている。


「レイシャ」


 小さく名を呼んでみる。

 鮮やかな青色の目がエシュをうかがい、そしてすぐ逸らされた。予想通りだが、苦笑いが浮かぶ。

 同じようにマイラが呼ぶと、レイシャは歩みを早めて友の横に並んだ。やはりマイラ以外の人間に従う気はないらしい。

「奥様。スニヤはドウジェ様と遊べると思うんですけど、その間レイシャはどうされますか? スニヤ取られていたりしませんか?」

 マイラは、笑った。

「レイシャなら、そんな心配しなくても大丈夫ですよ。ね」

 艶をなぞるようにそっと後頭部に手を添えると、レイシャは先程スニヤがエシュにそうしたように、ぽす、と頭をマイラの体に寄せる。

 初めて見る気高き夜の女神の甘えるようなさまに、エシュは驚いた。




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