第二十七話



 チュフィンが目を覚ましたのは、日が沈んで間もない頃だった。


「どこか痛みますか?」

 見慣れた天井に、上官の妻の顔。借りている小屋に運ばれて寝かされていたらしい。ゆっくり上半身を起こすと、上官の奥方は湯呑みわんに水を入れたものを差し出してくれた。どうも、と礼を言い、受け取り一気に飲み干す。

「……なんでエシュじゃないのぉ……こういうときは奥様じゃなくてエシュが付いてるべきでしょ……エシュー……」

「ついさっきまでいたんですよ。でもナルテアさんと話したいことがあるからって。ウェイダは治安はいいですけど、一応もう日も沈むし一人で帰すわけにはいかないって、旦那様が送っていって下さいました」

「そー、ですか。……あ、奥様、すみません、ちょっと、失礼」

 頭がくらりとしたので、チュフィンは碗をマイラに手渡すと再度、横になった。昼間少し無茶をしたせいか、まだ回復しきっていないらしい。体の中の“何か”が足りない感覚がある。

 マイラは、小さな卓の水差しの横に、受け取った碗を置いた。

「明日は休んでいいって旦那様が仰ってましたから、今日と明日はゆっくり体を休めて下さい」

「はぁい…………ナルテアさんと、話すって……あのことですかね。ですよね」

「あの様子だと、私たちよりももっと早くに知っていたんでしょうね」

「ですよねぇ。エシュ、頭いいもんなぁ」

 知識的にというよりも、頭の回転が速い。受け答えもかなりしっかりしているし、アヴィロ家の家事をてきぱきとこなすのは、情報の整理がちゃんとできるからだ。


 相応の教育機関に通うか教えを請える者が近くにいれば、彼女はきっと――


 チュフィンは、仰向けのまま、両手で顔をおおった。


「あー。勝っちゃった。どうしよ。ほんとに俺なんかでいいのかなぁ」


 抱えていた小さな不安を漏らすと、マイラが笑った。


「そうじゃなかったら、ずっと育てて見守ってきてくれた人と戦って勝ってほしいだなんて思いませんよ」

「うぉふっ」

 そう思っていてくれたのだろうか。あの辛口で冷静なエシュが。考えると照れ臭く、嬉しくなる。

「エシュ……滅茶苦茶可愛いな……今すぐ抱っこしてぐるぐるしたい……嫌がられそうだけど……」

「ふふふ」

「……奥様。多分エシュ、ずっとお屋敷で働きたいって言うと思うんですよ」

 アヴィロ家で働く若い女性は、結婚すれば嫁ぎ先の家業を手伝うことが多い。「嫁入り前の修業先」といわれる所以ゆえんである。しかしチュフィンは都からやってきた武官であるので、エシュは仕事を辞めてしまうとすれば家に入ることになる。そんなことを好むとは思えない。

「大歓迎です。こちらからお願いしたいくらい」

 マイラはエシュのことを考えるチュフィンを好ましく思った。

「よかった。……よろしく、お願いします」

 チュフィンが言い切ったところに、腹の虫が小さく主張した。時間も時間、空腹になるはずだ。

「あ……」

「そういえばお昼、食べてなかったですよね。いっぱい力使ったからお腹空いてるでしょう? チュフィンさんの分も準備してもらってるのでお食事持ってきます。明日はエシュに届けてもらいましょうね」

「お、お世話掛けます……」


 窓の外を見ると、まだくらくなりきれていない空に、大きな星がひとつ、輝いていた。


 明日もいい天気になりそうだ。



     ◎     ◎     ◎



 試合前日、夕食後。


「父のこと、調べたんですか?」

 アヴィロ夫妻とルコ・ナンヒ、そしてチュフィン・ロウは、慌てて卓上に広げられていた調査資料を隠した。丁度話題に上がっていた彼女が、茶器が乗った盆を持って入室してきたのである。

「え、エシュ、これは、その、」

 トウキが何と誤魔化ごまかせばいいのか焦っていると、小柄な少女はふっ、と軽く息をついた。

「そんなに細々こまごま調べられちゃうなら、もっと早いうちに言っておけばよかったですね」

「……もしかして、知って、いたのか」

「はい」


 エシュ・ツェイリーといわれているその少女は、卓の上に盆を置き、トウキの前まで進み出て姿勢を正した。


「トウキ様。私は、ナルテア・ツェイリーの娘ではありません」



     ◎     ◎     ◎



 夕食後、倉庫でしゃがみ込み苗の植え付けの準備をしているナルテアの背を、


「えい」


 エシュが力一杯押すと、流石の大柄でたくましい男も簡単にころげた。しかし突然の事態にも慌てず見事な受け身をとったナルテアは、わざとらしく身構えながら、


「何すんのよ」


 娘をにらむ。エシュは、ナルテアがしていた明日の準備の続きをしようと、ナルテアがしていたのと同じように小分けにされた苗を浅いカゴに丁寧に並べ始めた。葉物野菜のイスクーは、育てやすく温室があればいつでも栽培できるためほぼ通年で食卓に上がるが、本来の旬は初夏。この時期に植え付けをして収穫されたものが一番葉に張りがあり甘みもあるといわれている。ツェイリー家はウェイダで一番大きな農家だけあって、所有している畑が広く多い。麦だけでなく、何種類もの作物を育てている。

 ナルテアはエシュの手からそっと苗を取り、カゴも自分の方へ引き寄せた。

「こんなこと、しなくていいの」


 エシュは止まることなく動き続ける彼の手を見る。

 武術と農作業、荷運びで肉刺まめができ潰れるのを幾度となく繰り返した、荒れた大きな手だ。


「……いつもそうやって、私だけ家の手伝いさせてくれないね」

「あんたは出来のいい子だから。玉の輿に乗ってもらいたかったのよ」

「そういう意味なら、フィーの家だって悪くないよ。フィーのお父さん、財務大臣補佐官だって」

「知ってるわよ、私実家都だったんだから。ロウって結構古い家よ、お屋敷だってすっごい立派でさ」

「フィーは三男だし家族と仲悪いみたいだし財務官にはならないって言ってるけどね」

「ほんと、勿体ないわね。跡継がないんだとしても、本来は今よりずっといい待遇受けられる身分じゃない」

「フィーのこと、嫌い?」

 問われて、溜め息をつく。

「嫌いじゃないわよ。いい酒飲めると思ってる、ぶっちゃけね。あんたが成長するまでちゃんと待っててくれたじゃない。ほんと、いい子だわ」

「それでも貴方は、エシュターナ・ツコラをトウキ・ウィイ・クォンシュの妻にしたかったんでしょ」


 ナルテアの手が止まった。


 しかしそれは一瞬のこと。

 すぐにまた、動き出す。


「…………お父上の、願いでしたから。お母上はコヤール家の出、謀反むほんくみしてはおりませんでしたが、流刑となられました。せめて貴女には、危険なイノギアではなく安全な場所で生きてほしいと」

「律儀なのも結構だけど、いくら託されたからって死んだことになった隣国の宰相の娘を元の婚約者に嫁がせようなんて、無謀にも程があると思わなかったの?」

「う」

 冷静な突っ込みを受けて、ナルテアは詰まった。しかしエシュは構わず続ける。

「真相を明かしたところで証拠なんてない、信じてもらえるかどうかもわからない。伏せてこっそり添わせるにしたって幾つ離れてると思ってるの、そういう趣味のおじさんならともかく、フィー以上に真面目なお坊ちゃまのあの方が子どもに手ぇ出すわけないじゃない」

 容赦なくずけずけ言う。大切に育ててきたつもりだが、少し生意気になってしまったのは彼女本来の気性か、はたまた弁が立つのは父譲りか。


 それでも。



「……幸せになってほしかった」



 ぽつり、漏れる本音。


 初めて出会ったときのことを思い出す。

 実家の取引先から内密にと託された、腕の中にすっぽり収まってしまうような、小さな、小さな、赤ん坊。


 厄介の種など捨ててしまえと父は吐き捨てた。

 商売のできなくなった家などいる価値はないと母は故郷へと帰っていった。



 確かに、血縁ではない。祖国すら違う。

 捨ててしまえば自分はもっと楽に生きられたのだろう、が。



「ただの、私のわがままです。あの方なら、きっと、貴女を大事にしてくれると。ついでに領主という後ろ盾ができれば、私と貴女を受け入れてくれたこの家に恩返しもできますから」

「まぁ、確かに、旦那様は優しい方だし嫁げば大事にしてくれるんだろうけど。でも残念ながらね、私が好きになったのは、チュフィン・ワバール・ロウって男なの。……ねぇ、」


 エシュの小さな体が、しゃがむナルテアの大きな背に覆い被さる。

 しがみつく手は、大きさの割に力強い。


「お父さん、フィーと結婚していいよね? エシュターナ・ツコラはもういない、私はエシュ・ツェイリー、ナルテア・ツェイリーの娘。私は、私と生きていきたいって言ってくれる人のところにお嫁に行きたい」


 作業を終えたナルテアは、カゴの両端を持ち、


「行けばいいじゃない、私ダメだなんて最初から言ってないわよ。私を倒して奪ってけばって言ったの、よっ」


 エシュを背負ったままで立ち上がった。のっしのっしと、同じように小分けにした苗を詰めてあったカゴの前まで歩き、並べて置く。エシュは懐かしさを感じた。アヴィロ家に働きに出てからは、父の背に飛びつくことなどしなくなっていた。


「お父さん」

「なーに」


 自分だけ弟二人と扱いが少し違うと気付いたのは三年程前。

 それまで、自分はこの家の子だと思っていた。


 黒い髪は母に似たのだと思っていたし、紫色の目も今は亡き祖母譲りのものだと聞かされて納得していた。顔立ちが似ていない親子やきょうだいなども世の中には掃いて捨てる程いるから、気にしたことなど全くなかった。

 父が自分を連れ子として婿入りしただなんて話題に上がったこともなかったし、幼いエシュを気遣ってか近所の人たちも何も言ってこなかった。


「……巧妙に、隠してたね」

「たまたまよ、運が良かっただけだわ。あんたいつ知ったの」

「何か変だなって思ったのは二、三年前だけど。お父さん奥様が嫁いでくるって聞いた日ここで暴れてたでしょ。エシュターナ様が何とかってブツブツ言いながら」

「やっ…………やだ、うそ、聞いてたの!?」

「聞いてたよ。全部聞いてた。……ねぇ、ときどき、帰ってきてもいい?」

「何で私に訊くのよ私も婿だからこの家じゃ肩身狭いのよ」

「お父さん」


 腕に、ぎゅっと、力を入れる。


「ありがとう」

「そーゆーの婚儀前日の夜にしてくれる?」


 必死に堪えているようだが、僅かに声が震えているのがわかった。



     ◎     ◎     ◎



「はいこれ、今日のお弁当」

「はーい。いつもありがとうございまぁす」

「今日のはちょっとすごいよ。お肉がいっぱい入ってる」

「えっなに、何かいいことあった? あっ、もしかして俺らのご成婚がめでたい」

「それは来年でしょ昨日奥様が立派な茶角ちゃづのを狩ってきたの」

「……すげぇな奥様、ほんとに狩りできるんだ……」

「干し肉もいっぱい作ってるから、できたら警備隊のみんなにお裾分けするって言ってたよ」

「わーいやったー。……あ、ども」

 裏口から出てきた赤髪の上司の姿に気付いたチュフィンは、腕章に手を添え軽く頭を下げた。その礼は、良家の子息らしく実に洗練された動きである。トウキは何やら申し訳なさそうな様子で手を上げ応える。

「すまないなチュフィン、石工総出でないと橋が……」


 結局、めでたく結婚を決めたチュフィンとエシュであったが、新居を構えるのは職人たちの作業日程の関係で来年までおあずけということになってしまった。それに伴い婚儀も先延ばしとなり、恋人から婚約者へと関係性は一応変わったものの、実質今まで通りである。


「しょーがないですよ、まずはみんなが使うもん直さないと。ツァスマ側からも人と金出てるしチェグルからも石工や大工呼んでるんでしょ、補修なんてすぐ終わりますって」

「実はチェグルの領主に相談して、橋が直った後少し残ってもらえないかと何人かの職人に頼んだんだ。お前の新居作りを手伝ってもらえることになった」

 隣の領地の職人をしばらく滞在させるとなると、給金の他に滞在中の宿や諸費用も保障しなければならない。それが幾月も続くわけで――チュフィンとエシュは顔を見合わせた。

「えっ、いやっ、それ……金……」

「ちょっと、旦那様、そこまでしてもらわなくてもっ」

 流石に揃って困惑すると、

「そのくらい出させてくれ。祝いと、婚儀が延びた詫びだ」

 トウキの表情からは、心からの祝福が見て取れる。

「うわ~あっりがてぇ~、あっりがてぇけど額でっけぇ~」

「こういうときに気前よく出すために慎ましく暮らしている」

 領主の冗談に、夫婦未満のふたりは笑った。

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