第二十二話
ロナル鉱山には、現在二つの坑道がある。
一つは初めに掘られた穴でさほど深くはなく、まだまだ石は採れるが観光客の見学・体験用にと公開しているもの。
もう一つは採掘用の大きく深いものだ。
問題の化け物が出るというのは、
「何とも言えないな」
戻ってきたトウキは、見学受付をしている事務所兼小さな土産物屋の目の前にある足湯に浸かって待っていたマイラの横に腰を下ろし、靴を脱いだ。湯に足を入れ、指を数回広げたり閉じたりすると、じんわりと足の疲労がほぐれていくようで心地よい。少し離れたところにある湯だまりが丁度いい温度なのか、スニヤとレイシャが水遊びならぬ湯遊びをしている。
難しい顔の夫に、マイラは首を
「何もなかったのですか?」
「まず、ちゃんとした目撃者がいない。声を聞いたとか気配を感じたとか影を見ただとか、そんな曖昧な情報しかない上、特に誰が襲われたり、どこかを崩されたわけでもないようだ」
「では何故、『化け物がいる』と言われているのでしょうか?」
「坑内は空気も通るし、場所によっては温かく感じたり湯気が出ているところもある。音も響く」
気のせいだと考えることもできる、ということか。
「とはいえ、今日のところはすぐ戻れる範囲で少し見てきただけだからな……明日改めて調べてみよう、と……」
言い掛けて、トウキははっとした。視線を感じる。
ちらり、窺うと、妻が真剣な顔でじっと見てくる。
「旦那様」
「……ダメだ」
首を横に振る。ああ、やっぱり首を突っ込みたがった。
「人手が必要では?」
「警備隊から何人か呼ぶ」
「調べるだけなら私にも」
「観光用に整備された坑道とは違う、危ない。悪いが明日は別行動だ、頼んでおいたから採掘体験でも楽しんでいてくれ」
「ぬぅ」
顔いっぱいに表された不満。僅かに心が痛むと同時に、
「一人でそんなことしても、つまらないじゃないですか」
心底残念そうな、小さな呟き。トウキは胸の奥がぎゅっと締め付けられたような気分になる。
更に悪いことに、
「せっかく二人で来たのに」
マイラは俯いてしまう。落ち込ませてしまった。しかも何やら可愛いことを言っている。顔が熱くなる。これは足湯で体が温まったせいでは、ない。
「ん、うぅ」
「だったらお手伝いできたらなって、思ったんですけど」
トウキ・アヴィロは知っている。妻はとても頼りになる。
知識量は自分よりも遙かに多い上、好奇心が強いためかいろいろなことによく気が付く。身体能力も同じ年頃の娘と比べれば格段に優れているし、今は鼻の利く強い相棒もいる。
何より、仕事の手伝いを頼むと嬉しそうで、楽しそうなのだ。
「…………必ずレイシャと一緒に行動、離れないこと、無茶はしないこと」
溜め息は出る、が、それはマイラに向けてのものではない。本来ならここは「領主の妻の仕事ではない」と言って聞かせなければならないところなのは、重々承知している。が、
「はい!」
この笑顔が見られるのならいいかな、と、つい考えてしまうのだ。
(あぁ、)
自分は妻に甘い――親友と交わす書簡に、簡単につけている日記に、そんなことを度々書き残して後世知られることになるのを、雪獅子公は知る由もない。
◎ ◎ ◎
領民から困ったことがあったと相談を受ければ、領主はそれに対処しなければならない。それは領主の仕事であるから当然のことだ。
しかし、それはそれ、元々トウキとマイラは観光と温泉を楽しむためにやってきているのである。宿泊は勿論、国境警備隊が結婚祝いにと代金を出し合って予約を取ってくれた人気の温泉宿『つらら亭』の特別貴賓室だ。
「わぁ。きれいですねぇ」
マイラが感激した声を上げた。
居間と寝室、小さな台所まで付いている広い部屋には、そこかしこに氷晶石を使った装飾があるが、決してギラギラといやらしいものではない。卓や椅子、寝具、壁や天井などの色使いも落ち着いていて質も品もいい。香炉で炊かれているのは、酒を造る際に出た紫スモモの種子を砕いて蜜花と合わせ乾燥させて作る花香。ほのかな甘い香りが気分をゆったりとさせる。
そう。出来過ぎなまでに「いい雰囲気」だ。
「旦那様、旦那様! 外にお風呂が付いてますよ!」
鉱山の問題はあれども、はしゃぎながら部屋を見て回る妻の姿を見て来てよかったとトウキは思う。国境警備隊の面々には礼をしておかなくては。
「食事まで少し時間がある、入って温まってくるといい」
「えっ?」
「ん?」
「……一緒に、入るんじゃ、ないんですか?」
思いにもよらぬ大胆発言に、
「ん、なっ!?」
トウキは固まった。ここでやっとこの贈られた小旅行の意図に気付く――そうか、そういうことだったのか。
そして流石のマイラもそれについては察しはついていたらしく、困惑の色を見せながらも続ける。
「あ、その、昨日チュフィンさんが、ですね、そういう、あの、こういうところは、そんな感じになるものだと」
「あいつら殺す」
「ダメです旦那様、殺生はいけません! 警備隊の皆さんもその、私たちのためを思って」
「やり方に問題があると言っているんだ」
深々と嘆息すると、一気に疲労感に襲われる。トウキは広い寝台に突っ伏した。
「見ないようにするから先に楽しんでくれ」
「旦那様」
真横に重さのあるものが乗った感覚。寝具に埋めていた顔を気配のある方に向けると、マイラが同じようにうつ伏せになって見つめてきている。
「前にも言いましたけど。私は、大丈夫ですよ」
「……うん。わかってはいる、んだが」
「何か差し障りが?」
マイラの手が、トウキの後頭部に触れて手櫛で
「本当は、お前の方が、その、……嫌なんじゃないのか。手を出そうとしてきた縁談相手を、捻ったんだろう?」
マイラは手を引っ込め、いたずらがバレたときの子どものような、気まずそうな顔をした。
「……あの、旦那様。その話、父から詳しく聞いたんですか?」
「あ、いやその、聞いたには聞いたが、」
話す必要はないと続けようとすると、
「私ばかりが旦那様の昔の話を知っているのは、
今度は笑った。いつも通りの笑顔なので、トウキも何となく心配するような内容ではないだろうと最初は安心したのだが、
「最後の縁談の相手は……ファンロンの学術院の、院長のお孫さんでした。ご自身もとても優秀な方で、でもちょっと……その、自信に満ち溢れているといいますか……初対面からすごく、その、妙に、そうですね、友好的に? 接してこようとしてきたといいますか……」
当てはまりそうな言葉を必死に探してできるだけ肯定的に表現しようと努力し、それに反して表情がどんどん
「マイラ、わかった、いい、無理に話さなくていい」
「違うんです、『吐き出さないとやってられない』ってやつなんです、だからいいんです」
そう言って転がり、トウキの体にぶつかるとそのまま腕を伸ばしてしがみついた。
「最初は仲良くしようとしてくれているのだと思っていました。でも、その方は…………いえ、身分ある家の者同士の婚姻なんて、そういうものなんだって、私も父に甘やかされて育ったんだって、わかってはいたんです。縁談はこれで最後かもしれないって、父を困らせることはしたくなくて。そう、思っていたんです…………けど!」
ぎゅう、と腕に力が入る。
「話聞いてるようで聞いてないし! 何かと触ってくるし! 挙句の果てには、くちっ……嫌だったんです限界だったんです仕方ないじゃないですかぁっ!」
語気が熱量を増していくと共に徐々に腕に込められた力が強くなっていき、胴を目一杯締め付けられたトウキが、
「んぎゥ」
堪らず
「ごめんなさいっ!!」
「い、や、だいじょうぶ……意外と、力があるんだな」
思わず笑ってしまう。マイラの口元が、きゅっと締まる。
「あの、やっぱり、もう少し、私、」
「何も、悪いことじゃない」
話している内容を思い、一瞬迷う――が、思い切って、悩む頭に手を添える。
「力はないよりあった方がいい。できることが増える。そうだろう?」
「……はい。はい!」
表情に、目に、光が満ちる。
彼女はこうあった方がいい、トウキは思う。
嬉しくなったのか、改めてマイラは夫に抱き付く。今度は、首に腕を絡め、いかにもご機嫌そうだ。
「旦那様、私、貴方の妻になれて、本当によかったと思います。マクト山でのことも、破談になった方たちが同じ立場になったとしても、きっとあんなに早く来てくれなかった、もしかしたら来てすらくれなかったかもしれません。私、あのとき、すごく、すごく、嬉しかったし安心したんです。だってレイシャとっても怖かったんですよ、旦那様とスニヤが来て下さらなかったら、私絶対死んでました」
「ああ、無事でよかった」
「だから私も、貴方に何かあったら、真っ先に駆けつけます。絶対に、貴方を助けます。貴方がしてくれたように」
そう言って、マイラはそっと、トウキの頬、素肌の方に、唇で触れた。
「今日は予定外のこともありましたし、疲れたでしょう。少しお休みになってて下さい。私、先にお風呂行ってきますね」
軽やかに寝台から下りて、庭先に出て行く。
トウキ・ウィイ・アヴィロはというと、寝台で横向きに寝た姿勢のままで、硬直していた。
たった今起こったことに、思考が追いつかない。
顔に、触れたのは――手ではない。
抱き締めたときにちょうど頬の位置にくる、艶やかで美しい髪でもない。
「…………え? え?」
緩んでいたらしい紐が解け、仮面がはたり、寝台に倒れるように落ちる。
「え?」
◎ ◎ ◎
翌朝、朝食が終わって少し経った頃に、ウェイダ領国境警備隊から選び出された隊員五名が『つらら亭』の前に集合した。全員それらしい武装はしておらず、各々普段着と
そのうちの一人――チュフィン・ロウは、上司の顔を見るなり大袈裟に嘆息した。その手には隊長用の腕章と、トウキのものとマイラのもの、三振りの剣。
「何で休暇取らせたのに仕事してんですあんたは」
小旅行中であるので普段着ではなく外出着のトウキであるが、部下から腕章と愛用の細身の剣を受け取ると、その場で身支度を調えた。
「お互い様だろう、お前も昨日から休みを取らせたはずだぞ」
「つーか何で奥様がついてこようとしてるんです俺らの仕事に」
「…………」
「目ェ逸らさんで下さいこっちちゃんと見て下さいトウキ様。……全く、」
チュフィンは遠慮なく平等に上司の妻にも呆れた顔を向けつつ、屋敷から持ってきた剣を手渡す。
「奥様の仕事じゃないっつってるでしょ奥様」
「でも、早く解決できれば、旅の続きが楽しめるじゃないですか。警備隊の方も人員ギリギリだから、派遣されたのこの人数なんでしょうし」
「そりゃそうですけどさぁ」
まぁまぁ副長、とチュフィンの肩に手を掛ける男が笑う。
「奥様をそんじょそこらのお嬢様と一緒にしちゃあ失礼ってもんですよ。何せ
「メイちゃんの新作お披露目したい気持ちはよくわかったけど今惚気るところじゃねーぞオリウ」
やりとりに笑いながら、マイラはその場でくるんと身を
「でもチュフィンさん、これ、フィーメイさんが外出着でも動きやすいようにって作ってくれたんですよ。これなら存分に剣も振るえるし、弓も引きやすいです!」
「もー、みんな奥様甘やかすー。……で、今日はどんな感じで調査すんです、隊長」
振られたトウキは、おとなしく座って待っていたスニヤの首元をとんとん、と叩いて出発を知らせた。立ち上がるスニヤの後をレイシャも追う。
「とりあえず現地に向かいながら話す。昨日は本当に入り口付近しか見てこられなかった、今日はできるだけ深いところまで入りたいが戻りの時間も考えると」
「あぁ、早く行った方がいいですね」
アヴィロ夫妻と国境警備隊から選抜された五人は、じゃれ合いながら先を歩く獣たちに続いた。
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