温泉旅行編
第二十一話
ウェイダ領領主アヴィロ夫妻の一行は、奥方であるマイラが夜の女神レイシャの名を戴いた黒い獣を友にした翌々日に都を発った。本当はもう一日滞在する予定であったが、長時間
一応皇帝とその身内と近侍数名には説明してスニヤと共に
そんなわけなので、日程を一日だけ早く繰り上げてレイシャは領主夫婦が乗る特製の大型馬車に乗せられてウェイダまで搬送された。道中なかなか外に出られないレイシャが不満そうであったので、ときどき人目につかないところでスニヤと一緒に外に放してやるなど、一行苦心の帰路であった。
ウェイダに戻ってからは更に大変で、忙殺された。先の大雨で壊れてしまい仮補修のままの橋の補修工事を急がねばならなかったし、来年度の税の通知書を領民に送る準備もしなければならない。まず領主であるトウキは当然として、トウキの妻であるマイラと国境警備隊副隊長チュフィン・ロウが補佐として動いた。事務の補佐担当を務めることとなった才女ルコ・ナンヒの着任がひと月ほど先になり、税関係の処理に間に合わなくなったのである。
当然といえば当然なのだが、チュフィンは手伝いをやらされるのには少々不満があるらしい。
「給料出ないのに俺何やってんのって感じ」
しかしそんなことを言いながらも、
空になっている茶器におかわりを注ぎながら、マイラは笑う。
「ごめんなさい、でも本当に助かります。私がお手伝いできればいいんですけど、橋の工事のことはともかくウェイダの税のことはまだちょっとわからなくて」
「奥様が謝ることじゃないですよ、っていうか奥様の仕事でもないでしょ。この人がごちゃごちゃ考えすぎて人事ちゃんとしないで自分一人だけでやろうとするのが悪いんだから。それで結局俺が手伝う羽目になるんだし、十年以上経ってやっと雇うのかよーって思ったらたった一人だししかも間に合わないとかほんともう勘弁して下さいよ、橋のことなくても毎年この時期こうなるのわかってんじゃないですか」
通知書を書く手を止めたトウキは、冷めた茶を一口啜った。疲れ切った目の下にはうっすらとではあるが
「手足として使えと言った」
「確かにね、あんたについてくって言いましたけどね、毎年こんなのやらされるなんて誰が想像できると思います? 俺術剣士なんですよ? 国境警備隊なんですよ? 何でここ何日もこんなところで算盤弾いてるんです? 意味わかんないですよね?」
「来年は一人増えるから少し楽になる、堪えろ」
「何で来年も引き続き手伝わされることになってるんですかねぇ!? もっと人増やして下さいよ! 俺は! 武官! 武をもって領地領民を守るのが仕事! ねぇ奥様も何とか言ってやって下さいよ!」
「わかった、給金なら出す」
「そーゆーことじゃないでしょおぉ!? はい、東区の農家これで終わり! 次最後南区、絶対夕飯までに終わらせてやる!」
「そうか、今日中に終わるか。ご苦労だった、明日から三日間休んでいいぞ」
「だからそーゆーことじゃないっつってるでしょ!」
呆れた顔で、動かすのを止めたペンの先を領主に向ける。
「あんた、今年も通知書配布一人でやるつもりだろ!? 何で人使わないのっつってんですよ! 明日休みの隊員使えばいいでしょ!?」
領主様は、きょとんとした。
「あぁ、いや、通知書は……地区の代表にまとめて渡して配布してもらっているから、そんなに手間では……わざわざ休日に動いてもらうわけにも」
「いやあんたが休め!? ろくに寝てないでしょ!?」
上司のここしばらくの就労形態に我慢がならなくなったチュフィンは思わず立ち上がったが、マイラが
「落ち着いて下さい、ごめんなさいチュフィンさん。私もせめてもう少し寝て下さいって言ったんですけど」
「いやほんと、謝らないで下さい奥様貴女が謝ることじゃないんで……トウキ様、これ終わったらあんたにはしばらく休んでもらいますからね」
今度はトウキが席を立つ。
「なっ……にを言っているチュフィン、再来月オーギ隊長が視察に来るんだぞ!?」
すると――苛立っていたと思われたチュフィンは、にやりと笑った。
「どうせ恒例の術剣
「修練」
「怠る奴いると思います? あんたが育てた警備隊ですよ。あんたが都に行ってる間もみ~んな真面目にやってましたって」
酒は飲んでたけど、と小さく付け足すチュフィンに、トウキは嘆息しながら腰を下ろした。
「だろうな」
「だからね、トウキ様」
足元に置いてあった小さな肩掛けの荷袋からたたんである紙を取り出して、トウキが今まさに書こうとしていた通知書の上に広げて置く。何かの領収書のようだ。よく見ると国境警備隊の隊員全員の名が書かれている。
「な、んだ、これは」
「だいぶ遅くなっちゃったけど、ウェイダ領国境警備隊からの結婚祝いです。『つらら亭』の一番いい部屋取っときました。後のことは俺らがやっとくんで、明日から二泊三日、奥様と楽しんできて下さい」
『つらら亭』。
ウェイダ領内にある氷晶石の産出する山・ロナル鉱山の麓の、氷晶石を多用した館内装飾が美しく、山や川の幸をふんだんに使った食事も評判という高級温泉宿である。
突然の贈り物に、夫婦は戸惑った。
「な、なっ……えっ?」
「その……『つらら亭』って、その、すごく、洗練された方々の行く……いえ、私はともかく旦那様は普通に行けるところなのかもしれないですけど……」
チュフィンは少し呆れた顔をした。
「奥様もお姫様でしょ」
「いやぁ、何というか、私は……そういう華やかなのには、あまり慣れがなくて……」
そう、身分はそれなりに高いはずなのだが、マイラはあまりにもお姫様然としていない。そのせいでどうも変に親しみを感じてしまい、失礼がないようにはしたいがつい馴れ馴れしくしてしまうチュフィンである。
「華やかっていやそうですけど、貴族がわんさかいる公式な場っていうんじゃないですから。たまには夫婦水入らずできらきらしたとこ行って、うまい飯食ってゆっくりしてきたらいいですよ。あそこのお湯お肌にいいっていうし、鉱山も近いから見学しに行けるし」
「鉱山!」
マイラに期待に満ちた眼差しを向けられたトウキは、苦笑した。
「……行きたいと、言っていたな、そういえば」
「はい!」
妻の輝かんばかりの笑顔、そして部下のにやにやとした笑み――溜め息が出た。同時に、指を弾く。小さな水の珠が、チュフィンの顔面に当たって弾けた。
「ぶゎっ!?」
「貸しにしておく、チュフィン・ワバール・ロウ」
「言ってることとやってることが違いませんかねぇ?」
◎ ◎ ◎
山自体は小さいが、ロナル鉱山はクォンシュ国内では五本の指に入る氷晶石の産地である。冷涼な気候の山の地下深くに
氷晶石は美しいがよく採れる石なので価値はさほどでもないものの、その中でもロナル産のものは質が高いため――あくまで氷晶石の中では、の話だが――比較的高値で取引されており、ウェイダ領の収入源のひとつとなっている。
そして、地下に染み込んだ雪解け水の冷たさが高温の岩漿を冷やして氷晶石を作り出し、熱い岩漿にあたためられた水が鉱山周辺から豊かに湧き出ているのが、
「それがここの温泉なのですね」
夫から簡単な説明を聞いたマイラは、黒牙獣レイシャの手綱を引きながら道沿いにときどき見つける小さな噴出口を覗き込む。熱々の湯気が一定の律動を刻みながら噴き出ている穴の周りは、氷晶石が結晶を成してきらきらと輝き美しい。一人と一匹で興味深そうにしている姿に、雪獅子スニヤに
「あまり近付くと危ない、火傷をする」
「だって。気を付けようね」
投げ掛けると、レイシャが鼻先を、ちょん、とマイラの頬に付ける。マイラはびくっとした。
「つめたっ! ……もう、レイシャそれわざとやってるでしょ」
まだ昼でも気温が上がりにくい今時分、風を切り駆けてきた濡れた鼻先は冷え切っている。どうやらレイシャはそれを理解していてやっているらしい。マイラの方も、その返事を兼ねた悪戯に親愛の念がこもっていることはわかっていた。都から連れ帰った日から毎日のように声を掛け、自ら食事の世話をしたり被毛の手入れをして、少しずつ、確実に絆を深めていっている。
「旦那様」
レイシャの両頬を掻くように撫でながら振り返る。
「この子にも、氷晶石をあしらったものを買って付けてあげたいのですけど、どんなのがいいでしょうね?」
レイシャは
「私の輿入れのときに、スニヤが面甲を着けていましたよね」
「あれは装飾品というより鎧だ、いつも着けているわけじゃない」
「いえ、ああいったもの、ではなくて。とてもきれいだったので、レイシャにも氷晶石がよく似合うだろうなって思ったんです。スニヤは旦那様のお友達だってみんな知ってますけど、レイシャと同じものを着けてもらえればレイシャもうちの子だってわかりやすいかなって」
「あぁ、成程……しかし、揃いのものか。スニヤとレイシャが夫婦のようになってしまうな」
「家族の証、でもありますよ。私たちの揃いのものも氷晶石ですからね」
そう言って笑いながら、自身の左耳にきらめく大地から生まれた星のような結晶に触れる。マイラもスニヤのことは家族だと思ってくれているのかと、トウキは少し、嬉しくなった。
「そうだな。町に着いたら工房に行ってみよう。この揃いのものを作ってくれた腕のいい職人がいる」
「はい! レイシャ、もう少しお願いできる?」
求めに応じてレイシャは少し腰を落としたが――マイラが背に乗った途端、急発進する。
「やっ、ちょっ、レイシャあぁっ!?」
どんどん小さくなっていくお転婆たちの姿に苦笑いしながら、トウキもスニヤの首元を軽く叩いて前進の合図をした。
◎ ◎ ◎
辺境のウェイダ領、そのまた北端にあるロナル鉱山の麓の町は大きくはないが、鉱山の作業員の居住区は勿論、温泉宿や氷晶石を販売・加工する店舗兼工房や土産物を売る店があるため、それなりの賑わいがある。
小腹が空いたので、まずは名物である『ヨズ』を買って食べることにした。パンに似た麦の生地でさまざまな具を包み沸き立つ温泉の湯気で蒸したもので、店によって大きめの生地に肉や魚を具にして軽食のように仕立てたり、果物や豆類を甘く炊いて小さめに包み菓子感覚で気軽につまめるようにしたりと、工夫がみられる。
「包み焼きやパンとはまたちょっと違うのですね」
乳と卵と花蜜で作ったとろっとした
「似たような料理はあるがこの風味は温泉を使わないと出せない。他の温泉のある領地では温泉蒸しを食べるために足繁く通う貴族がいるそうだ」
「お屋敷の付近では、温泉は出ないのですか?」
出たらすごく便利なのに――言葉には出ないが顔にはそう書いてある。相変わらずの妻の様子に思わず笑う。
「あの辺りは相当深く掘らないと出ないだろうな」
穏やかな笑顔を見て、マイラは安心した。都に行っている間はできるだけ平静を保つように心掛けていたのか、毎日やや緊張しているように見えていた。ここは彼の治める領内なので敵対している者はほぼいないも同然だし、何より容姿を隠す必要がない。
今回の小旅行はきっと楽しいものになるだろう、そう思っていたのだが――
「領主様、領主様!」
一人の若い男が慌てた様子で駆け寄ってくる。程良く鍛えられた体、衣の袖口を厚めの革手袋の中に、脚衣の裾を長靴の内側に収めて上から布で巻いているのは、鉱山で働く者である証だ。動きやすくするためでもあり、隙間から石の破片や熱い蒸気が入って怪我をしないようにという対策でもある。
領内の町中で民から何かを訴えられたり助けを求められることもよくある。トウキは応じた。
「どうした」
「ああ、よかった、明日にでもそちらに相談に行こうかと思ってたんす! 大変、大変なんすよ!」
「わかった、落ち着いて、ゆっくり話せ」
「はいぃ」
男はひとつ、深呼吸してから、一歩詰め寄った。
「鉱山の中に、化け物がいるんす!」
「化け物」
反芻して、トウキとマイラは顔を見合わせた。
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