前章譚
雪獅子公の嫁取り 前編
元々、多少の噂は聞いていた。
「司法官である父の補佐をしている」
「剣を学び、自ら弓を持ち狩りに出る」
「何度か縁談が破談になったらしい」
何せ異国とはいえ、川を挟んだすぐ隣の領地だ。谷間の街道を馬を駆って二刻、
かの姫君のことも、領地を訪れていた隣の異国の商人が世間話として楽しそうに話していたのをたまたま聞いたものだ。
しかし、その姫君らしくない姫君を語る商人の様子は、話す内容の割に何故か少々誇らしく見えた。いつになったら嫁ぐのかと愚痴のように言いながらも笑顔であるし、最後にはいいところに嫁げたらと幸せを願うような言葉で締めていた。美しいとは聞かないが、きっと領民ともいい関係なのだろう。
トウキ自身も、領地の民と関係が悪いわけではない。あんなことがあったというのに、急に領主になった自分を、領民たちは意外とすんなり受け入れてくれた。
若年で大変な目に遭った自分に対しての
嬉しい反面、申し訳ない。
自分と親しくしているだなんて知られたら、類が及ぶのではないだろうか。
と、考えて、トウキは最初こそはありがたく好意を受け取っていたのだが、そのことに気付いてからは領民たちと少し距離を取ってしまっていた――だがそれは、せっかく良くしてくれているのに激しく礼を欠いている行為なのではないか。皆何となく察しているのか、腹を立てたりはしていないようには見えるが。
聡明と聞くかの姫君は、どう考えるだろう?
会って話がしてみたい。
そうしたら、ちゃんと領主として、領民に恩を返せる糸口が掴めるのではないだろうか。
とはいえ、そう簡単に会えるものではない。いくら隣の領地で関所がないといっても異国は異国、行くにしても呼ぶにしても手形が必要であるし、たかが雑談のために約束を取り付けるというのも変な話だ。
何かの折に言葉を交わすことができれば。
ほんの、少しでいいから。
しかし考えてみれば、自分は顔の左半分が焼けている。いくらいつも隠しているとはいえ、いくら相手が武に長けるという勇ましい姫とはいえ、流石に怖がられはしないだろうか?
――無理だ。諦めよう。
などと、何となく、ぼんやりと思案してから、二年程が過ぎた。
特にそんな話は聞こえてはこないものの、かの姫君も王族としては適齢期を過ぎ、どこぞへ嫁いだだろう、と思っていたのだが。
ある日大雨に見舞われ、国境にある橋が落ちたという報告を受けた。
検分に行く途中、供の者を伴った身分の高そうな男が助けを求めてきた。橋を渡る寸前に賊に襲撃されたとのことで軽傷者もいたため、自らが指揮する国境警備隊にこの件に関する調査と賊の捜索、そして警備体制の一時厳重化を指示した。
その助けた男こそ、国境を越えたすぐ隣の領地を預かり司法官をも兼任しているファンロンの王族アデン・シェウ・ロガナ・ファンロン。
かの姫君の父親であった。
それを知った瞬間、心が浮いたような気分になった。
まさか縁者に会えるとは。
壊れた橋を無理に渡るには危ないので、橋の仮補修が済むまで逗留するよう一行を屋敷に招いた。本当に簡素な炊事場と寝床があるだけの国境警備隊の詰所に隣国の貴人を泊めるわけにもいかないし、宿屋は町に二軒あるもののそれぞれが小さく、鉱山の麓には温泉宿がそこそこの数あるが少し遠い――という理由が一応あるにはある。しかしそれよりも、例の姫について何か聞けるのではないかという期待が大きかった。
そんなことを急に決めたものだから、家人や部下たちが驚いた。
それはそうだろう、何しろそれまで「中央のことに関わるのはもう嫌だ」と子どものような駄々をこねて、都から呼び出されても理由をつけて断り続け領地内のことにしか目を向けなかった領主が、異国の貴人を助け、しかも客として自宅に招いたのである。
「気持ち悪い」
二人きりになったとき、すごい顔をした侍女長のシウルに言われて、トウキはむっとした。
「客人に対して何て言葉を」
「いや、あんたがね」
「何で」
「今までだったらフィーに全部任せて知らんぷりしてたでしょ。どういう風の吹き回しなの」
言えない。言えるわけがない。「姿も知らない気になる娘の話が聞きたいから」だなんて。
「あ、相手は王族なんだから、ウェイダの代表として俺がその、失礼のないように、そういうふうにするのが当たり前じゃないか」
「ふ~ん?」
「な、何だ」
「べっつにィ。ちゃんとリュセイに報告しておきなよ」
「…………ああ」
表向き、皇帝リュセイと雪獅子公トウキは敵対していることになっているが、実際のところ二人は兄弟同然に育った従兄弟同士で乳兄弟でもあり、とても仲がいい。
「わかった、よきに計らえトウキ・ウィイ」
術具を通した従兄どのは、実に楽しそうな顔をした。
「しかし、引き籠もりで根暗のお前が自分からそんなことをするなんてな。叔父上が聞いたらさぞ喜ぶだろうよ」
「人として当然のことをしただけだ、わざわざ父上に言わなくても」
「いや、言うね。龍女はともかく叔父上を安心させてやりたいからな」
「……母上は、その」
「安心しろ、今は寝ている。キフィ川が
「都も雨がひどかったのか」
「そりゃあ風と雲はそっちから流れてくるからな。今頃テウガエあたりがやばいことになってるんじゃないか、あっちは川が多いし土地も低いから冠水してるかもしれない」
「何をのんきに」
「都以西の被害状況は真っ先に伝えたよ。テウガエには今ツルカ爺がいる、避難指示も堤防の補強も上手いことやってくれるさ」
「ツルカの爺さま? 何でテウガエに?」
「一昨年ヨウリが嫁いだのは知ってるか? ツルカ爺の孫の」
「あぁ、それは父上から聞いたけど……テウガエだったのか」
「そう、それで曾孫が生まれたってんで、たまたま行ってたらしい。今あの地方にはそういうのに強い人材がいないから丁度よかった、元名将様々だ。……ただ、街はともかく田畑ばかりはどうしようもない。麦の収穫がギリギリ間に合っていなければ、他の領地に支援を頼むことになる。ウェイダはどうだ、作物は無事か?」
「幸い、と言うのも何だが、ファンロンのツァスマ領との間にある橋が壊れたのと、あとは鉱山の少し北の方で小規模な崖崩れがあっただけだ。麦と芋なら去年獲れたものが備蓄してあるから、そんなに多くはないが必要なら出そう」
「うん、それは助かる。領民にもくれぐれもよろしく伝えてくれ。……ところでトウキ、お前いつ女房を娶るんだ?」
さらりと流れるように笑顔で圧をかけてくるリュセイに、トウキは顔を顰めた。
「陛下の敵である私に嫁いでもいいという女性がいるなら是非紹介していただきとうございますな」
精一杯の
「ん、そうか、そうだな、悪かった。……まぁ、跡目は養子でもいいわけだし」
「陛下の敵である私の子になってもいいという者がいるなら」
「そうだなごめんってば。……うぅん、意外と難しいなこりゃ。お前の味方になってくれる家は探せばあるんだろうけど、今の世じゃあまり名乗り上げたくないだろうしなぁ」
「ウェイダは元は御領だ、お前の子が大きくなったら俺を廃して継がせるか、御領に戻せばいい」
バカ言え、と皇帝陛下は呆れ返る。
「お前の処遇に困ったから考えに考えて叔父上に相談してウェイダにやるって決めたんだぞ。俺の命を助けた龍女の子を下手に罪人扱いして幽閉するわけにもいかないし、かといって傷心のお前を消耗させるわけにもいかないし」
「厄介な身の上ですまないな」
「俺はお前のその赤い髪も金の目も好きだけどな」
にこにこしながら突然そんなことを言うものだから、トウキは一瞬詰まった。
「リュセイ……いつも思うが、お前、よくもまぁ、そんな台詞を恥ずかしげもなく」
「国の祖と同じ色、実に美しいじゃないか。この国の皇帝である俺が
彼は幼い頃からずっとトウキの容姿を褒めるが、何度言われても何だかくすぐったい。
「そうだな、お前は祖龍の孫。皇帝の近くにいてくれた方が」
「嫌だ絶対都には戻らない!」
「帰ってこいよ!」
「嫌だ!」
「この引き籠もりめ……」
引き攣つった笑顔の皇帝は、ひとつ、溜め息をついた。
「とりあえず、よその国に適当な子がいないか探しておくよ。国内の令嬢よりは波風立たない分いくらかましだろう」
「どうかな、俺が皇帝の敵であることは知られているはず。そんなところへ娘を嫁がせようとする奴なんて」
「いないかな」
「いないさ」
「お前は見目がいいから何とかなりそうだがな」
「半分焼けた顔で見目も何もあるか」
「全くお前はすぐそういう後ろ向きなことを言う」
不満そうな顔をされたが、言葉の通りなので言い返すことはなかった。
妻を、娶る。
立場的に、そうするべきなのだろう。それはわかっている。
しかし現皇帝であるリュセイと帝位の継承権を争ったとされ(実際トウキとリュセイは特に何もしていなくて、周囲が勝手に敵味方に分かれてやり合っていただけなのだが)、暗殺されそうになったリュセイを庇って顔の左半分を術薬で焼かれた挙句、(何故か)責任の一端を負うことになり、皇子の称号を剥奪され辺境に放り出された(ということになっているが、実のところ一臣下の身分にしてくれと頼んだのもまたトウキ自身であるし、命の恩人であるからと理由をこじつけてウェイダ領を
(いや、もしかしたら、)
皇帝を失脚させようと画策し、敢えて娘を送り込んでくる輩もいるかもしれない。これは用心しなければ。考えすぎだと笑われるかもしれないが、明日またリュセイに話しておこう。
そう思いながら執務用の部屋から寝室に向かおうとすると、廊下に人影があった。
窓の外、明るい月を眺めるその人は――アデン・シェウ殿下。
「どうかされましたか殿下」
「っ、……あぁ、いや、」
驚いた直後、少し困ったような穏やかな微笑。無理もない。彼の知っているだろうトウキ・ウィイ・アヴィロという人物は「現皇帝と帝位を争って敗れた者」であろうから、
「今日帰ると伝えていたので、家の者にいらぬ心配をかけさせてしまったと」
橋が渡れない状態では連絡の取りようがない。トウキの使える伝達術も相手が見知った者でないと使えないし、適した術を使役できる者も国境警備隊にはいない。
「殿下もご家族のこと、ご心配でしょう。何か
「どうぞ、名でお呼び下さい。私は一司法官です」
アデンは、苦笑した。
「変に思われるでしょうが、私は家のことは全く心配していないのです。私に何かあったとしても、娘が何とかしてくれる」
トウキは胸の奥がざわっとしたのを感じた。
もっと聞きたい。
「強く、賢いご息女と」
「やはり伝わっていますか、お恥ずかしい。勤勉で好奇心が強いと言うと聞こえはいいのですが、少々お転婆が過ぎるもので、すっかり行き遅れてしまって」
そうは言うものの語り口は優しい。何より、実際そう育てたのは彼である。
「『あの子が男であったなら』。よくそう言われますし、私もそう思うには思うのですが、……どうも、ダメですな。心も体も健やかであるのならそれでいいだなどと、つい甘やかしてしまって。あれの母が病で逝ってしまったから余計に」
本来ならば庶子であっても王族は王族、ファンロンはアデン以外にも庶子の王族がそこそこの数存在するが、ほとんどは都で平和に暮らしている。
今の言葉も自分はダメな親だという自虐のつもりだったのだろうが、元々の身分に甘んじることなく国境に接する辺境の領地を治める領主、そして王族でありながらも司法官の資格を取得し官吏として民と積極的に接するという姿勢を見せるアデン・シェウというこの人は、確かに例の姫の父親なのだろう、とトウキは思う。
幅広い視野を持つように学ばせ、伸ばせるところは伸ばして、そして愛する。
自分の父と何ら変わりはない。
きっと、この人に育てられたその娘は。
「……アデンどの。折り入ってお願いしたいことが」
「貴方には命を救っていただいた。私に叶えられることならば」
「ご息女を、我が妻として迎えさせていただきたい」
言ってしまってから、はっとした――
「……え?」
自分は今、何と言った?
そして、
「……は?」
正面のアデンも、おそらくトウキとほぼ同じ
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