第十五話


 皇帝リュセイ・トゥガ・クォンシュ、いわく。


「アルマトはとんでもない女だよ。…………叔父おじうえは、何であれを女房にしようと思ったのかな……?」



     ◎     ◎     ◎



​ 日中の謁見の直後に夫の友人から聞いた言葉を、マイラは思い返していた。


(何だか、まるで……)


 厄介者のような言い方。しかもくだんの女の実子であるはずのトウキも否定していなかった。


 気難しい、ということなのだろうか。


「マイラちゃん?」

 湯上がりの香油を腕に馴染ませてくれていたシウルが怪訝けげんな顔で手を止めた。

「なーに難しい顔してんのー」

「あ、あの……ちょっと、考え事を……」

「何? 誰かにいじめられた? 誰? 私が何とかするよ?」

 皇帝の侍従の娘だというシウルは、きりっと美しい容貌に見合った気丈な女性である。幼い頃から兄と一緒になってリュセイやトウキらと共に過ごしていたというから、この宮廷のことも知り尽くしているようだ。

「ああぁ、いや、その、全然そういうんじゃないです」

「気になることでもある?」

 少し迷って、マイラは小さく、口に出した。

「その……旦那様の、お母様のことなんです」

「アルマト様? が、どうかした?」

「陛下に謁見したときも、夕食のときも、お姿が見えませんでしたよね。その、陛下のお傍にある宮廷術士であれば、」

「確かに、本来ならあの場にいなきゃおかしいんだけどねぇ」

 溜め息をつきながら、シウルは再び手を動かし始めた。慣れた手付きで香油を塗り込みながらマイラの腕を絶妙な力加減で揉みほぐしていく。ウェイダにいるときよりも一層念入りにしてくれるそれは、今日一日の緊張と疲れが全て取れていくように感じられた。

「……まぁ、でも、何考えてるかわかんないからねアルマト様は」

 腕が終わったら次は足。ふくらはぎ、土踏まずへの刺激と、手の温かさが何とも気持ちがいい。女性としては背が高い方のシウルは手も大きい。とても働き者ではあるが手入れもちゃんとしているらしく、肌も爪もきれいだ。昼間の謁見のときのように、主人たるトウキについて貴人の前に出たり客人の対応をする「アヴィロ家家臣の代表」ともいえるシウルであるから、身だしなみもきちんとしている。

 そんなシウルはとてもきれいだ。マイラはよく見とれてしまう。エシュが弟子を自称し慕っている気持ちもわかる。皇帝の密かな想い人であるというのも納得できる。

「そう、なん、ですか?」

「うちの兄貴があの人の弟子なんだけど。これまでで一番のお気に入りだなんて言ってる割に、使いっ走りばっかりやらされて全然師匠らしいことしてくれてないらしくてさ」

「でも、シウルさんのお兄様は、その、術剣士隊の隊長さんなんですよね?」


 皇帝直属剣士隊のひとつでトウキも席を与えられている『白梅はくばい』は、術剣士のみで構成される部隊である。

 シウルの兄キクロ・オーギはその『白梅』の隊長、しかも龍女アルマトの弟子なのだという。皇帝お抱えの術剣士部隊の隊長ということは、つまりこの国の術剣士の頂点だ。それが使い走り扱い。普通なら、もっと重用するのではないか。


 シウルは苦笑しながら唸った。

「……兄貴は、まだましなのかな。リュセイとトウキなんてもっとひどかったもんなぁ」

「えっ」

「子どもの頃の話なんだけどね……あの二人、突然『そろそろ大人を頼らず何かをしてもよかろう』って、転送術でフェロまで飛ばされたの。お付きもいない状態で、十二歳と十歳の男の子が二人きりで。信じられる? 歩きじゃ大人でもここまで丸一日かかるのに」

「それ……は……そんな……」

 何と返していいものかマイラは困惑した。フェロから都までの道を思い返してみるが、それなりに大きい街道とはいえ当然夜は人気ひとけもなくなるだろうし、普段庇護されている貴族の子どもが大人の付き添いもなく徒歩で行くには遠すぎる道のりだ。

「あとは、そうね、うちのばーさまに聞いた話なんだけど、先々代の皇帝陛下なんてアルマト様に『国主であるなら一度国をよく見渡せ』とか言われて半日空に上げられてたとか」

「えっ」


 どんな人なのかと問われたトウキが返答に困っていた理由、そして「半分ヒトではない」と言っていた理由を悟る。


 この国の頂点であるはずの皇帝に対しても、己の子に対しても、龍女アルマトは等しく気ままに振る舞うのだ。しかもそれは、常人の理解を超える言動であると――


「……シウルさん……私、上手くやっていけるでしょうか……」


 明日はトウキの父ゲンカに挨拶しに行くことになっている。アルマトは今どこにいるのかわからないが、ゲンカのことはいたく気に入っていて何度止められても聞かずに職場に押し掛けることもあるというから、もしかしたら運良く――「運良く」? ――顔を合わせることがあるかもしれない。どんな変人であれ義理の母、一度は会っておかねばならないだろうし、興味がないといえば嘘になるが、元々何故か、少し、漠然とした不安があった。


 しかし聞いた話で不安どころか、全く自信がなくなってしまった。


 さもないことで機嫌を損ねられてしまったりしないだろうか。

 それどころか、これはつまり「気分次第で何をされるかわかったものではない」、というやつなのではないだろうか。理屈が通じない相手となると、対策の練りようがない。


 マイラの衣のえりを少し下げ、肩から首にかけて、香油に浸した指に力を入れながら滑らせるシウルは、またうなる。

「ん~……大丈夫だよって言いたいけど……相手があのアルマト様じゃ、そこらのよめしゅうとめとは別物の関係になっちゃうんだろうからなぁ……困ったねぇ……」



 と、いうことを、つい先程シウルと話したのだとマイラから聞いたトウキは、小さめの銀色の杯に注がれた酒に王玉柑ギポカの果汁を落とした。花の蜜や果実から作られたとろりとして甘みの強いゴユ酒に爽やかな酸味を加える、老若男女問わず人気のある飲み方である。王玉柑には腹の調子を整える作用があるため、悪酔いしにくくなるともいわれている。

「本当に、シウルは何でも喋ってしまうな」

「旦那様のお母様は、その……不思議な、方なのですね」

 大きな寝台の上でごろごろしながら、気を遣って慎重に言葉を選ぶ妻に、少し笑う。深刻すぎない程度に悩む様子もまた愛らしいと思う。

「あの人にとって、ヒトは玩具おもちゃだ。口ではそうは言っても、実際は皇帝も息子も弟子もない。シウルは知らないだろうが、キクロ兄さ……あ、いや、どの、も、かなり苦労している。……まぁ、前にも言ったが、父がいる場であれば、母も滅多なことはしない。案ずることはない、と、思う」

「お父様と……一緒にいらっしゃる場であれば、いいですね。……そういえば、お父様の後にシウルさんのお兄様にもお会いになるのでしたね」

 呼び方を言い直したのを、マイラは聞き逃していなかった。きっととても慕っている人なのだ。頼もしいシウルの兄とあってはさもあろう。

 マイラが身を起こして横にやってくると、トウキはもうひとつの杯に酒と果汁を注ぎ、置いた。

「キクロ、……どの、」

「いつもお呼びになってるようにして下さって結構ですよ、旦那様」

 トウキの仮面をそっと外して、酒の入った瓶の横に置く。もうあとは寝るばかりだ。

「今ここには私しかいません」


 ここしばらく、寝る直前になると、マイラに仮面を外されることが増えてきていた。

 最初は見せたくなかった焼けた半面だが、今はもうさほど気にならないし、彼女も本人が言うように全く怖がりはしない。どころか痛まないかと未だに心配してくれる。


 それだけ互いの距離が近くなってきているのだと思えば嬉しい限りではあるが、


(衣を脱がされているような……)


 妙な気恥ずかしさがある。


 照れるのを悟られないように、そして少し躊躇ちゅうちょして、トウキは続けた。

「キクロ、兄さんは、『白梅』の隊長だが軍の事務長も兼任しているし、そもそも侍従の家の出。文官にも武官にも顔が利く」

 以前、下についてくれそうな人材を紹介してもらおうと思っていると言っていたことをマイラは思い出した。それならば確かに相談できそうだ。

「すごい方なのですね!」

「人たらしなんだ。術剣士なのに嫌われない」

「……やっぱり、クォンシュでも、術剣士は肩身が狭いのですか?」

「ファンロンでもそうなのか」

「剣と術が両方使えるなんてすごいと思うのですけど」

「剣のみで腕を磨く者からすれば術剣士は〝術に頼る卑怯者”だからな。『白梅』も、先々代の陛下が長年作りたがっていて崩御寸前にようやく設けられた新しい部隊。その直後に先代が即位して五年足らずでリュセイに代替わりしたから、地位的にまだ確立しきっていない。術剣士に対する偏見はまだまだ消えないだろう」

 トウキに向けられる厳しい目は、皇帝陛下に逆らった者でありながら皇帝直属の剣士隊、よりによって術剣士隊『白梅』に名がある――というせいでもあるらしい。父ゲンカが術を使わない方の剣士隊『紅梅こうばい』を取りまとめているから余計に比較され、とんでもない不肖の息子のように映るのかもしれない。

「俺の力は母譲り、ヒトでないものの血のせいだから気味悪がられるのも仕方はないが」

嫉妬しっと、も、あるのでしょうね」

「嫉妬?」

「だって、優れた能力を持つ人がうとまれるだなんて、おかしいじゃないですか。みんな自分が持ってないからって羨ましいんですよ。ひがみを正当化しているだけです」

 少し酔っているのか、珍しくずけずけと言うので、思わず笑う。

「全てがそうなら、多少は気が楽なんだがな」

「絶対そうです」

 もう一杯飲もうとして瓶に伸びた手を、トウキが掴んで溜め息をつく。

「一杯だけと言った」

「ダメ、です、か?」

 ささやくようなおねだりの声は、口にする酒のように甘い――が。

「夕食のときに何杯飲んだと思っている、リュセイが驚いていたぞ」

 つい甘やかしてしまいそうになるところを、何とかえた。いくら彼女が酒に強いとはいえ、明日の目的地はどちらも近いとはいえ、用事が二件もある。ここは夫として止めねばなるまい。

 ふたつの杯、酒瓶をマイラの手の届かない位置に寄せてから、トウキは立ち上がり妻に手を差し出す。

「それでなくとも今日はあんな場に出たんだ。疲れているだろう」

「平気ですぅ」

 そう返す表情には、やはりやや疲れが見られる。

「顔がそう見えない、寝なさい」

「はぁい」

 不服そうながらも、手を差し出して引っ張り上げてもらって立つと、渋々寝台に戻っていった。その間にトウキが枕元以外の部屋の灯りを消して、寝台に腰を下ろす。

「だんなさま」

 そでを引かれる。


「今日、こわかった、ですか? おつらくなかったですか?」


 言われて気付く。

 そうか、彼女が今日一日ずっと気に掛けていたのは。


「……ああ。お前が、いてくれたのは、心強かった」


 向き合うように横になり、そ、と髪を撫でる。これだけは唯一自慢できるのだとマイラが言うだけあって、さらさらと指通りがよい。

「リュセイにもヒヤヒヤさせられたが、……うん、」


 きっと、逆らう者がいない立場になったからこその、小さな逆襲だったのだ――あれはあれで。


「正直、スッとした、かな」

「ふふ。左様で、ございますか」

 笑うと、トウキにぴったりとくっつく。トウキは戸惑った、が、思い切って、抱き締める。上等の布地の夜着に、よく慣れた青蜜花ラジュレの香油とは違う、やや華やかさのある果実のような香り。


 いつもと違う環境、いつもと違う装い。

 緊張した。しかし嫌な感じではない。顔が、体が熱いのは、酒のせいか。


 顔を――近付けて、寸前で止まる。


 マイラは既に寝息を立てていた。


 それもそうだろう、今日は普段はしない美しいが堅苦しい装いで、長距離移動をして、初対面の者だらけの異国の公の場、しかも夫の友人とはいえ国主の前に出て、夫の心配までして。疲れないわけがない。その上酒が入っているのだ。


 ゆっくり元の姿勢に戻って、静かに大きく息をする。起こさないように。


「……流されるのはよくない」


 腕の中の妻の体温と香油の匂いが眠気を誘う。唯一ともる火に指を向け、古い言葉を小さく小さく呟きながらくるりと回す。灯りが消えると同時に、トウキは目を閉じた。



     ◎    ◎     ◎



 将軍ゲンカ・ツォウ・クォンシュの息子夫婦に対するもてなしは大変なものだった。


「父上……」

 卓上には所せましと菓子や軽食が並べられ、更にそこに乗せきれないものを乗せた台車が二台、女中と共に待機している。流石にトウキは呆れ返った。

「リュセイが頑張って倹約に努めているというのに何ですかこれは」

 国外から取り寄せたらしい珍しい果物まで何種類もある。出された茶も十中八九高級品、何とも贅沢だ。

 用意した本人のはずのゲンカも卓上を見て眉をひそめる。

「案ずるな、これは私が職務で得た正当な給金から出したもの。本家の財には一切頼っていない……んだが、……その、嫁、マイラどのが、何を好んでいるのか全くわからなかったから、とりあえず考え付くものをそろえてみたらこんなことに」

 義父の真面目な言葉に、マイラは笑ってしまった。やりすぎではあるが、気持ちは嬉しい。一方のトウキは嘆息した。

「そんなの二つ三つでよろしいでしょう、何故全部用意するのです。この後もオーギの本家に行くことになっているし、こんなに出されても長居はできません」

「ゆっくりしていかないのか、久しぶりの実家なのに」


 宮廷からそう離れていない区画にある離宮は、トウキが生まれ育った「家」でもある。トウキのように皇籍から離れてはいないものの、この国の武人を束ねる者としての地位にあるゲンカは、急なしらせにもすぐに対応できるようにと宮廷の外に居を構えているのだそうだ。

 修練の関係や不審者が侵入したときにすぐわかるようにという点から庭には植木などはほぼなく、小さな花壇にあまり背が高くならない花が何とも不器用な間隔でぽつぽつと植えられていた。訪れてすぐに殺風景ですまないとゲンカは苦笑していたが、この宮の主が手ずから世話をしているだろう花は元気に咲いている。


 何ものにも、皇帝にすらも縛られない妻は居着かないのだろうし、息子も出ていってしまったためほぼ一人暮らしの邸宅だ。それでも、まだ少し話しただけではあるが、マイラはしゅうとの雰囲気から寂しさは感じなかった。きっとここで暮らしていた頃の夫は、幸せだったのだろう。


「旦那様。時間はまだありますけど」

 一日で行き来できるすぐ隣の領地から嫁いできたマイラとは違い、数日かかる距離だ。姓は変わってしまったが親子仲が悪いわけでもない、寧ろゲンカは一人息子がいい歳になっても可愛いようだし、トウキも遠慮なく意見はするが、これまでしてくれた思い出話から父のことは敬愛しているのがわかる。

「まぁ、息子なんてそんなものだ」

 ゲンカは笑った。色彩は違うが、やはり笑顔は少し似ている。

「ここにあるものを幾つか包ませよう、持っていくといい。……あそこは幼い娘がいたな、二人だったか。この焼き菓子と、ケイツェもやろう」

「よろしいのですか? ケイツェは父上の好物でしょう」

 てのひら大の果実ケイツェは、丁度今が旬の赤色の甘酸っぱい果物である。よく冷やしたものを切り分けたり、少々行儀が悪いがそのままかぶり付くのが一般的な食べ方だ。クォンシュにはファンロンの南方で栽培したものが輸入されており、よく出回っている他の果物よりも少々値が張るので手土産にすると喜ばれる。

「細かく切って乳に混ぜるととろみがついてきれいな薄桃色になる。目の前でやれば子らには楽しいおやつになるだろう」

 女中に指示する父に、トウキは懐かしそうな顔をした。

「昔そうして出してくれましたね。相変わらず、子どもの扱いが上手でいらっしゃる」

「そうだな、動けるうちに孫の顔が見たい」

「流れるように圧をかけないで下さい…………ところで父上。母上が今どこで何をしているかご存じありませんか」


 穏やかだったゲンカの顔つきが、変わった。


「アルマトは、ここにはいない。どこにいるかもわからない」


 ゲンカでもアルマトの所在が掴めないのか。アヴィロ夫妻は顔を見合わせた。

「用心した方がいい。少し前に、マイラどののことをていた」

「えっ」

「父上、母上は何て」

「『悪いようにはせん』、と。……あれは何かを企んでいる、実に楽しそうだったから絶対にろくでもないことだ。トウキ、マイラどの。何かあったらすぐに私に報せなさい。何を差し置いても必ず助ける」

 何やら仰々しい物言いに、

「旦那様ぁ……」

 マイラは不安のあまり隣に座る夫の袖をぎゅっと掴み、

「お、お手数お掛けします、父上」

 トウキもまた、己の膝に置く手に力が入った。




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