第十三話


 フェロの街の治安を守る兵や士官たちが生活する兵舎の敷地内には、兵舎とは別に数十人が寝泊まりできる小綺麗な建物がある。フェロは皇帝の御領なので領主というものが存在せず、チェグルのときのようにその邸宅を頼ることはできないし、かといって民間の宿に泊まるには警備面での不安があるため、フェロに一旦留まり準備を整えてから都に向かう貴族たち専用の宿泊施設として設けられたものだ。前もって連絡しておけば利用できる。

 とはいえ、至れり尽くせりで兵士たちがお世話をしてくれるというわけではない。兵士たちだって街の警備やら訓練やらで忙しい。緊急性がなければ最低限の警備と、毎日の日課として当番制で宿舎の掃除をする程度だ。宿舎には厨房や食堂、浴室はあるが、食事や湯浴みの準備は宿泊者たちがみずからしなければならない。要は素泊まり宿である。


 そういうわけだから、アヴィロ家の一行はその夜は街に出て各自で食事を取ることになった。商業の盛んなフェロは、都もくやと言わんばかりに賑わっている。

「チェグルよりも灯りがいっぱいで明るいですね!」

 あてがわれた二階の部屋の窓から身を乗り出して街をながめるマイラを、

「危ない」

 トウキが抱えて下ろす。既に軽装に着替えて外出の準備はほぼ整えてある。下ろされたマイラはそのまま振り返り、退屈そうに夫の両手を取って左右にぶらぶら揺らした。

「シウルさん、まだですかね?」

「じきに来る」

「旦那様は、フェロにお越しになったことはありますか?」

「子どもの頃……父が仕事でここを訪れるときに、リュセイと共に内緒で連れてきてもらって何度か。流石に二十年も経って街も少し変わったようだが、宿舎は大きくて目立つから、周辺をぶらつく程度なら迷わないだろう」

「左様でございますか。……ふふ、そうですか、ふふふ」

 ご機嫌になってにこにこする妻に、トウキも微笑む。彼女が楽しそう、嬉しそうにしていると穏やかな気分になって、表情が緩むのがわかる。

「どうか、したのか」

「内緒、って。旦那様のお父様も、そんなことをなさっていたのですね」

 トウキの父ゲンカはクォンシュの先帝の実弟、つまり今の皇帝リュセイの叔父にあたり、軍を束ねる将軍である。リュセイとトウキがそれぞれを擁立ようりつする者たちによって争わされることになってしまった先帝の退位の折、実は彼自身も帝位継承権第二位であったが、職務があることと、「赫き龍は統治者にあらず」という建国以来伝わる言葉にならい、赫き龍の娘アルマトを妻とする自分が帝位に就いてはいけないと辞退した――と、以前トウキに教えてもらったことを、マイラは思い出していた。真面目な印象があった人物でも、「内緒で」などと茶目っ気のあることをするのか。

「職務や剣の鍛錬に関しては冷静で廉直れんちょくな人だが、若い頃は母と一緒に宮廷を抜け出すこともよくあったらしい。皇家の者の割にはそうお堅くはない、と思う。何しろ遊び好きの先帝の実の弟だしな」

「そうなのですか。……お母様は、どんな方なのですか?」

「母、は…………」


 言いよどんで、そのまま静止する。視線すら動かない。

 思考を巡らせている。


 マイラはそのまま言葉を待つが、徐々に、トウキの表情が渋くなっていく。仲がよくないのだろうか。

 そのままおとなしく見守っていると、何かを口にしようとして、やめて、を三回繰り返したので、察する。

「旦那様、わかりました、もういいです大丈夫です。実際お会いすればわかることです」

「いや、その……何と、言えばいいのか……母は、半分ヒトではないというからか、その……少し、変わっていて……」

 やはり複雑な何かがあるようだ。

「……うん、そう、だな……会ってみた方が、わかりやすい、かもしれない」

「何か、気を付けることは、ありますか? その、私、そそっかしいので、失礼があっては」

「心配ない。何かあれば俺が……いや、父が何とかしてくれる」

 そこへ開扉かいひの合図があり、失礼しますとシウルが入室する。

「ごめんねぇ遅くなっちゃって。なーんせ奥の方に入れちゃってたから、掘り出すのに苦労してさ。……あらぁ。もしかしてお邪魔でした?」

 言われてトウキは先程からマイラと繋ぎっぱなしだった手を離した。

「べ、つに、そんな、」

「離すことないでしょ、いいよ存分に浮かれなよ。今日はせっかく二人で自由に出歩けるんだからさ。……ほらトウキ、これ」

 シウルが差し出したのは、縁に真っ白な糸で刺繍が施されている、光沢がありなめらかな手触りの銀鼠ぎんねずの薄い布。トウキが受け取ると、刺繍の色が紫に変わった。それに気付いて興味深そうに覗き込むマイラに、畳まれていた布をふわっと広げて被せる。

「鏡を」

「えっ? ……あれっ? 髪⁉」

 振り返って見た鏡台に映っていたのは、青みがかった銀色の髪に明るいあおの瞳の娘。布の刺繍もやわらかな輝きの金色に変わっている。

「珍しい色だな、お前はそういうふうになるのか」

 感心するトウキに、シウルも頷く。

「すごい、きれいね! 元の色も可愛いけど、こっちは何か神々しいっていうか……あっ、これスニヤと同じ色じゃない?」

 言われてマイラの頭に浮かんだのは、大きな白い獣だった。

「スニヤと同じ……?」

「あぁ、そっちじゃないそっちじゃない。女神様だよ、山の神の奥さん、雪の女神」

「雪の女神……ファンロンでいうシュナですね。そっか、スニヤ……スニヤは、女神様の名前を付けられたのですか?」

 言葉の中に明らかに「あの子オスなのに」という疑問が浮かんでいるマイラに、シウルは笑った。

「拾ってきたとき女の子だって勘違いしたんだよ。ね、トウキ」

 暴露されたトウキはむっとした顔になる。

「昔はたてがみも模様もなくて真っ白だったし、きれいだと思ったからっ」

雪玉ゆきだまって呼んでたくせに。あ、雪玉くんつまんなそーにしてたから、戻ってきたらちょっと構ってあげてね、ごはんはあげといたよ」

 シウルが退出すると、マイラは掛けられていた布を取って簡単に畳んでトウキに手渡した。髪と目の色が戻る。

「これは、術具ですか?」

「俺のこの容姿は目立つからな。髪と目の色は母と同じだし、その上顔がだから、こういうものでも使わないと外に出られない」

 フェロは都に近い。隣国から妻を迎えたトウキが都に来ることは既に知られているのだろうが、姿を見せれば命を狙われる可能性は勿論、すり寄ってくる者も出てくるはずだ。それを避けるために変装が必要ということか。


 こういうトウキにとっての不便の話になると、マイラは必ず不満そうな顔をする。最初の頃は言葉にまで出していたが、最近ではあまり口うるさく言うのはよくないと思っているようでそれに言及する頻度は下がっている。しかし真っ直ぐな性格のせいか、顔にはしっかり出る。

 自分のために怒る――よく考えてみればそれはいいこととは思えないのだが、己のことのように、いや、彼女のことだから、親しい人のためならそれ以上に憤慨ふんがいするのだろう――その姿に、トウキは少しだけ、嬉しく感じてしまう。


「そんな顔をするな」

 術のかかった布を頭に被り、長く残る両端を緩く首に巻き付けると、鮮やかな赤色だった髪は落ち着いた赤銅色しゃくどういろに、龍の血を引く証であるという金の瞳はマイラのものよりやや明るい紫がかった青色になる。その変化に気を取られてマイラはまた目を輝かせた。

「すごい」

 切り替えの早さに思わず笑ってしまうトウキである。

「お前と似たような色になるな。連れ立って歩くなら兄妹と誤魔化しても」

 と、マイラが急にトウキの腕を抱き込んだ。

「な、えっ、……どう、した」

「夫婦です!」

 そこは絶対に譲らないと言わんばかりの力強さ。

 トウキは、にやつきそうなのを必死にこらえ、更に顔を見られないようにさりげなく逸らしながら、

「そう、か」

 小さく、応えた。



 麦の粉に麦鳥の卵と乳と塩を少し加えて薄く伸ばした生地を焼き、棒状に切り甘辛く煮た後に香ばしい焼き目を付け再度タレ漬けした肉と、乳脂で炒めた玉子、シャキシャキと歯ごたえのいいイスクーの葉を一緒にくるりと巻く。忙しい商人たちの手軽な食事として生まれた『コジヤーク』は、フェロを訪れる買い物客にも馴染みの軽食で、味付けや値段の安さを売りに何軒もの店が出ている。

 そのうちのひとつ、老年の女主人がてきぱきと手際よく作り上げる店で二人前のコジヤークを、三軒隣で冷やした茶の入った木筒を二本買って、街のほぼ中心にある広場へ。夫婦は空いている長椅子を探し当てると、腰を下ろした。日が沈んで随分経つというのに街は煌々こうこうと明るく、広場にも客として訪れた者や仕事の合間の休憩に出てきた者が多くいて、談笑していたり食事を取っている。

「人もお店もいっぱい。まるでお祭りのようですね」

 茶を一口飲んで喉の渇きを癒したマイラは、うきうきした顔で街を見た。本当に、楽しそうだ。

 街灯りに照らされる妻の笑顔を見て、トウキは先程の術具で色彩が変わった姿を思い出した。女神と同じ色は確かに美しいとは思ったが、やはりこちらの方がいい。髪と目が暗い色であっても、彼女はやさしく光るように笑う。

「どうぞ」

 紙の袋から包みを取り出してトウキに渡す。出来上がってからそう時間が経っていないのでまだ温かい。両手で持って少し頭を下げ、感謝の言葉と祈りの代わりに天と地二柱の神の名を唱えてから、一口。とろりとしたタレと肉の脂の旨み、乳脂を含んだ玉子のまろやかさが広がる。

「ん~!」

 口一杯に頬張ったマイラの言葉にならない歓喜の声に、トウキは安堵した。

「口に合うようでよかった。一番美味いとリュセイと意見が合った店でな」

「これは絶品です! 確かに元気が出る味ですね! しかもひとつで充分お腹いっぱいになります!」

「その……ちゃんとした、料理を出す店でなくて、よかったか」

「私、こういうのも大好きです。……気持ちいいですね」


 心地よい温度の風が吹く。空に瞬く龍の尾の星の傍を、小さな星が流れるのが見えた。


「帰りたいですか?」


 小さな問い。しかしそれは、責める言葉ではないとトウキには理解できる。


「ああ。早く帰りたい」


 だから正直に答える。


「お前と共に、こうやって、いつもならできないことができるのは、いいと思うんだが」


 自分のせいでこのようにこそこそとしなければならないなんて、もっと自由に出歩きたいだろうマイラに対し申し訳ない気分になる。そう言ってしまったら、きっと、彼女は気にしなくていいだとか、謝らないでと笑うのだろうが。


「そうですね。旦那様がそのようにしなければならないのは、窮屈きゅうくつですものね」


 やはり自分のことではなくて、トウキのことを気に掛ける。そういう性分なのだ。

 

「……うん、私も早く帰りたくなっちゃいました! 帰ったら、橋のことを片付けて、領地の皆さんへの来年の税の通知も済ませて」

「それは俺の仕事だろう」

「お手伝い、してはいけませんか?」

「いや、まぁ、助かるといえば助かるんだ、が」

「させて下さい。私も領主の妻なのです」

 楽しそうに笑う。

「終わったら、また湖と、氷晶石の鉱山と、あと、ふもとに温泉もあるんでしたね! 連れていって下さい。旦那様と一緒に行きたいです、いろんなところに。あっ、確か白蜜花ブラーレの群生地もあるんですよね? エシュに聞きました」

 一口食べて、空を見上げる。

「旦那様が、人目をはばかることなく安らかに暮らせる世になればいいのに」

「俺ひとりばかりこうでもどうってことはない」

「国主のご友人ひとり幸せになれなくて何が大帝国ですか」

 大きなことを言うのでトウキは笑ってしまう。やはりこの妻と共にいるのは飽きない。

「ファンロン王もお前が世継ぎであったならと思っただろうな」

「王太子殿下からご子息の妻にならないかと何度も言われましたが、本人から『絶対嫌だ』と断られました」

「何か、したのか」

 少し、躊躇ちゅうちょして。

「……投げ飛ばしました」

 そんな気はしていた。吹き出す。

「ははっ」

「小さい頃の話です! 勝負を挑まれてっ……でも、よかったです。こうして、ファンロンの外を見られて、知ることができて。旦那様に嫁げて、本当に私は幸せだなぁって思います」

 にこにこしながら見上げる口元に、炒めた玉子とタレが付着している。さとい娘だが、こういうところは無邪気な子どものようだ。

 そこで自分も同じことを返せればいいのだろうが、何だか気恥ずかしくなってしまい、誤魔化すように指先でそっと汚れを拭う。

「……そうか、それは、よかった」

「はい!」

「俺は投げ飛ばしてくれるなよ」

「そんなことしませんっ。……明日は都入りですね。大丈夫、ですか?」

「…………まぁ、怖い、といえば怖いが」


 誰に、何を言われるか、されるか。

 自分だけであるならまだいい。

 ただ、そうなった場合、配偶者たるマイラを確実に巻き込んでしまう。それだけが気掛かりだ。


 しかし、それ以上に。


「お前と、共にあれば、大丈夫な気がする」


 根拠などないが、トウキはそう思う。


「はい。絶対大丈夫です」


 マイラも、応えるように、この上なく頼もしげな笑顔を見せた。



     ◎     ◎     ◎



 翌日、アヴィロ家の一行は昼前に宮廷に到着した。

 トウキは婚礼のときと全く同じ煤色すすいろの装束だが、頭巾は被っていない。仮面も火傷痕のある左側だけを覆う日常的に使用しているものを着用し、普段は顔を隠すように下ろしている横の髪も後ろでまとめてすっきりと見せている。

 そんな夫の晴れ姿を、マイラは見ていた。フェロの宿舎での着替えのときから、馬車の中でも、控えの部屋にいる今も、ずっと見ている。

 最初は珍しさからついそうしてしまうのだろうと思っていたトウキであるが、同じく着飾っていつもより姫君らしくなっている妻があまりにも熱心に見つめてくるので、照れ臭くて仕方がない。

「……その、マイ、ラ。何故、そんなに」

「旦那様は本当に見目みめがよろしいなぁと思うと、見てしまうのです」

「なっ、えっ」

「ふふふ。とても、とても、素敵です」

 淡紅色たんこうしょくの衣に深い緑の装束を金糸の刺繍の入った黒い帯で締めた華やかな装いのマイラの笑顔はまさに花が咲くようで、そんな顔で他意なく真っ直ぐな言葉をぶつけてくるものだから、トウキは赤面してしまう。

「あ、や、その」

 そしてその戸惑うさまを見て、マイラは己が夫の奥ゆかしさに感じ入るのである。

 そんな微笑ましいさまの主人夫婦を、これまた普段とは違う上質な礼装に改め、ファンロンから皇帝に贈られる品を小さな台に乗せて持つシウルが呆れた顔で叱る。

「奥様、からかってはいけません。旦那様もデレデレしない」

「んぅっ」

「はいっ」

 家中で一番のしっかり者に戒められて夫婦は身を引き締めたが、シウルはすぐに、見慣れた気安さで苦笑した。

「だいじょーぶだよ、相手はあのリュセイなんだからさ。ふたりとも力抜いて! はい深呼吸!」

 言われて同時に大きく息を吸って、吐き出すと、落ち着いてきた。顔を見合わせる。

「では、行くか」

「はい」


 ウェイダ領主トウキ・ウィイ・アヴィロとその妻マイラ・シェウ・アヴィロ・ルヨ・ファンロン。


 片や十二年ぶり、片や初めての、クォンシュ皇帝との対面である。




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