第十一話


 チェグルは夜も明るいところが多い。従業員の勤務態勢を整えた工場はほぼ一日中稼動しているし、そこで働く民のために夜も開けている店もある。

 そんな町がすぐ目の前にある領主ツトゥ・エンインの館も、真夜中であっても真の夜の闇に包まれることはない。夜間に問題が起きたときにも対応できるよう、誰かしらが起きている。


 暗いのは客室とその周辺だけ。


 一番大きな客室に、近付く影があった。

 音を立てないように扉を開け、部屋に入ると、寝台に眠る客人を確認する。二人いるうちの小さい方、若い娘。顔立ちのせいかやや幼く見える。とても吸い込むように酒を飲んでいたとは思えない。

「ごめんねぇ、特にうらみはないんだけどさ」

 小さく呟きながらその口をふさごうとすると――


「それなら手を引いて下さい、無礼者」


 娘が目を開け、ね起きたその反動を利用して間合いを取った。剣を鞘から抜かないまま構える。全く想像していなかった事態とその身軽さ、素早さに驚き硬直していると、背中につん、と何かが当たった。

「動けば刺す」

 低く、静かな威嚇いかく。侵入者は、はは、と力なく笑いをらし、両手を顔の高さまで上げる。右手から落ちた短剣の刃が、一瞬だけきらりと光った。

「何だよ、あれだけ飲んだのに全然酔ってないじゃん」

黄金酒おうごんしゅと比べればあんなのただの紫スモモのおいしい汁です」

 言い草に、トウキ・アヴィロは思わず吹き出しそうになったが何とかえた。黄金酒とは、マイラの祖国ファンロン原産の、「美味うまいが大陸随一のきつさ」と言われる酒のことだ。トウキも以前少しだけ、本当に舐める程度に口にしたことがあるが、あれを基準にすればいかにも甘い果実酒など酒のうちに入らないだろう、と、一人こっそり納得すると、侵入者もまた少し、笑った。

「あぁ、そりゃそうだろな。さっすが酒飲みの国の姫様、お子ちゃまみたいな顔して酒豪でいらっしゃる」

「ただの民族的な体質です。私はお酒は普段そんなに飲みません」

 剣の構えを解き、飾り棚の上にあった角灯かくとうに手早く火を入れる。さほど大きくはないものだが、窓掛けで外から入る光がさえぎられた部屋の中では、充分な明るさに感じる。

 薄暗い中にともされた、頼りなくもあたたかい火に照らされた顔を見たマイラは、怪訝けげんな顔をした。

「……ユーイ様?」

「は?」

 後ろを取っていたトウキも驚き、肩に手を掛けて己の方を向かせる。


 頭部に巻き付けた布の隙間から零れるように落ちている蜜色の髪、白い面輪おもわ


 この館の主人の妻ユーイ・エンインその人ではないか。


「へぇ、あんた、その金の目。ほんとに龍の血引いてるんだな」

「え」

 肩を掴んでいた手を弾かれた。その隙にユーイは床を蹴り、夫婦から距離をとる。

「うーわ、どうしようかなぁ。これはちょっと、やらかしにも程があるよなぁ」

 口元をゆがめる笑いは自嘲しているようでもあり、どこか愉快ゆかいそうでもある。

 そんなユーイに、トウキが目を細めながら持ったままの短剣の先を向けた。

「お前、男だな」

「おっ? わかった?」

「細く見えるが女の肩ではなかった」

「やだァ~、何それやらしい~! はは、嫁さんとは違うってか! どう見ても俺の方が美人だけど!」

 短剣の先が僅かに揺れたのを見て、動揺したと察したユーイは窓際に逃げようと動いたが、咄嗟とっさにトウキの口が古い言葉をつむぎ、ユーイに向けた切っ先が円を描くように動く。と――


「をぷっ……?」


 ユーイの体が、大きな水のたまにすっぽりと覆われた。


 突然のことに息を止めることも適わず、その中でおぼれもがく。頭に巻いていた布がけ、蜜色の髪が水草のように揺らめき踊る。


 短剣を鞘に収めたトウキは、ゆっくり、美しき刺客が囚われた水の檻に近付いた。

「さっきから聞いていれば。俺の前で俺の妻を愚弄ぐろうするとはいい度胸だ」

「旦那様、ダメです! 殺してしまってはいけません!」

 慌ててマイラが駆け寄ってすがるが、トウキは苦しむユーイを不快そうににらむ。

「お前を、殺そうとした。……死ねばいい」

「誰が命じたのかわからなくなってしまいますお願いです旦那様やめて下さい!」

 応えるようにこちらを見たその顔が、微かに笑った、気がした――マイラは理解した。だ。

「旦那様!」

「お前の頼みでは仕方がない」

 トウキはわざわざ声を張って言うと、水の中に右手の人差し指を差し込み、掻くように動かした。水の珠が少しずつ縮んでいき、ある程度の大きさになったところで指が引き抜かれる。跳ねれば何とか口元が出て呼吸ができる、ギリギリの水位。

「全て話せ。拒否するなら元に戻す」

「ちょ、ごぶっ……こっ、れっ、……ぼァっ……むりっ……!」

「無理なものか、充分話せているだろう。言え」

「む、りってっ……もちょっとっ、下げっ……!」

 このままでは力尽きて沈んでしまう。マイラは、もう、と呆れながら、夫の寝間着ねまきの左袖を引いた。

「旦那様」

 不満げな目線だけを返したトウキは、今度は指だけでなく右手全体を水の中に入れた。強く握り締めた後、その込めた力を解き放つように開くと、水が瞬時に霧と化し、ずぶ濡れのユーイがその場に倒れき込む。

「ぐっ……、っそ、だから術士はっ、ごほっ、嫌いなんだよっ……」

「俺は術士じゃない。術剣士だ」

「術剣っ……? もっと厄介な方じゃんか⁉ ……あー、もーう、無理っ! わかった降参、煮るなり焼くなり好きにしてくれィ!」

 どたっ、と大の字になった。夫婦は並んで様子をうかがったが、何とか呼吸をしようと水中で必死に動いたせいか、息は上がりぐったりしている。本当にこれ以上抵抗する気はないらしい。

 マイラは、しっかり抱き込んでいた腕を離しながらトウキに目くばせすると、そのかたわらに膝をついた。


 濡れた衣の貼り付く腕も、長い袖からのぞく手も、確かに細くはある。が、女のそれではない。夕食のときは少し離れた席にいたから気付かなかった。


 きれいな人だ、と思う。


「お話して、いただけませんか」

 静かに問いかけると、

「嫌だって言ったら殺す?」

 寝たままのユーイは、マイラを見上げてにや、と笑った。女と見紛みまごう美貌が浮かべる笑顔は、何とも言いがたい色香を漂わせる。あおっているのは一目瞭然だ。


 マイラは、少し、考えた。

 帯に差した剣のつかの飾りを、指先でなぞりながら。


「そうです、ね……殺、しても、いいですね」


 想定外の返答。ユーイの表情が一転して凍り付いた。


 絶対に、「そんなことはしない」と言うと踏んでいた。それなのに、この、いかにも何の苦労もせず大事に育てられたような小娘が、まさかこんなことを言うなんて。

 しかし先程の身のこなしはまぐれでもなさそうだし、何より剣に手を掛けている。意外とこういう女の方が情け容赦ないのではないか――ぞっとした。全身濡れているせいもあるのかもしれないが。


 すると想定外だったのはユーイだけではなかったようだ。


「よ、よせマイラ、殺すのはよくない」

 先程まで落ち着き払っていた赤髪の雪獅子公が、おろおろしながら奥方を制止した。自分も殺そうとしていたくせに何を今更戸惑っているのか。ユーイは困惑した。何だこいつら。

 夫の方を向いたマイラがにんまり笑う。

「冗談です。私の命を奪おうとしたんです、ちょっとくらい仕返ししたっていいでしょう?」

 呆れたような、安堵したような、大きな溜め息をつくトウキに、今度は口をとがらせる。

「旦那様だって、さっき随分おどしていたではないですか」

「……少し、……いや、だいぶ、腹が立ったから、な。つい」

 ややばつが悪そうな顔をして視線を逸らしながらも、トウキは妻の横に並んだ。ひとつ、呼吸をして、改めてユーイを見下ろす。

「ツトゥどのに命じられたか」

「……違うよ、ツトゥは関係ない。これは俺が勝手にやったこと」

 足を振り上げて、勢いをつけて身を起こし、夫婦と向き合う形で胡坐あぐらをかく。女物の衣に、容姿も一見女のようだが、開き直った仕草は男だ。年の頃はマイラと同じくらいか。先の水責めで化粧が落ちても、尚、美しいと思える顔立ちをしている。

「ツトゥは、関係ないよ」

 繰り返された言葉に、マイラは頷く。

「では、別の誰かからこうするように言われたのですか?」

「疑えよ」

「二回、同じことを言いました」

 微笑みながら、その場に座り込む。

「ツトゥ様に類が及ばないようにという配慮でしょう? ツトゥ様のことを思っていらっしゃるのですよね」

 言われて、ユーイはきょとんとした。

「……あ、えと、」

 徐々に表情がくずれていく。少し照れているようだ。

「…………別に、誰に頼まれたわけじゃ、ない。本当だ。ただ、そこの……あんたの、亭主が」

「旦那様が?」


 そこまで言った、そのとき。


「ユーイ‼」


 客室の扉が大きな音を上げながら開き、館の主人が乱入してきた。


「勝手なことをするなと何度言わせればわかるんだっ⁉ 僕は父上とは違って殿下にはっ……あっ」


 出迎えのときも夕食のときも、話をするのはほとんどユーイだった。そのせいか、ツトゥ・エンインとはお喋りな妻を持つ寡黙かもくな男なのだと思われていたが――


「ツトゥ、どの」

 呆気あっけにとられるトウキに名を呼ばれ、

「ぉわ、あっ、いや、殿下、そのっ」


 目の前でこの上なく狼狽する青年に、その面影はない。苛烈かれつだった父親にも全然似ていない。

 継ぐ言葉に詰まったツトゥは、妻を装っていたびしょ濡れの美少年とあかき龍の血を引く元皇子を順に見ると、その場にひざまずき左腕に右手を添える貴人に対する礼を示した。

「大変な、ご無礼を!」

 トウキは、困ったように、ぎこちない笑いを向けた。

「ツトゥどの。私はもう、〝殿下〟ではない」



     ◎     ◎     ◎



 ツトゥ・フォオル・エンインは、極めて温厚、そして真面目な男だった。どうやら迎え出たときの作って貼り付けたような妙な笑顔は、緊張していただけだったらしい。

 灯りをつけて明るくした客室で、ユーイと共に床に座して、何度も申し訳ありません、本当に申し訳ありません、到底許されることではありませんがとぺこぺこ頭を下げ、またユーイにも頭を下げさせた。

「父は……異様なくらいに、貴方をいとい、今の陛下の正統性を説いておりました。何が原因かはわかりませんが、たびたび『ヒトではない者』だとか『術剣士風情』だとか、そのような言葉を口にして……」

「先代の言わんとするところはわからなくもない。赫き龍は統治者ではなく、その子々孫々も、友たるクォンシュの皇帝に寄り添い護る者。……陛下とのことは、周囲が騒いでいただけで」

「存じ上げております。遠目で拝見するだけでしたが、殿下がた……あ、いや、リュセイ様とトウキ様は、まるで本当の兄弟のようにむつまじくていらっしゃった。大変、……うらやましかったものです」

 話を聞いていたマイラは、ツトゥは同年代だとトウキが言っていたのを思い出した。親はよく思っていなかったようだが、もしかしたら、ツトゥも友として接したかったのではないだろうか。


 本人たちの望まぬ形で世が動いてしまっていた、クォンシュの帝位継承問題と皇太子暗殺未遂事件。

 それは、意志に反して争うようにと擁立ようりつされた本人たちだけではない、その周囲にも大きな影響を及ぼして、未だに傷痕を残している。


「この、者は」

 ツトゥはまた、下げさせようとユーイの頭を掴んだ。しかしユーイはそれに抵抗し、頑として頭を下げようとはしない。

「エンイン家に代々仕える廻者まわしものの子。特に父に目を掛けられていたためか、父の心をんで」

「違う!」

 ユーイの白く細い腕が、ツトゥの手を振り払った。

「お館様のためじゃない! だってこいつが、この男のせいで、エンインはウェイダを取られたんだろ⁉ こいつが奪ったんじゃないか!」

「奪われたわけじゃない。ウェイダは元々は皇帝御領ごりょう。陛下に代わって隣のチェグル領のエンイン家が管理代行をしていただけだ。エンインのものじゃない、陛下の持ち物を、トウキ様がたまわった。それだけのこと」

「それでもっ……皇帝から、任されてたんじゃないか! ツトゥ、お前が! 任されるべきものだったんだろ⁉」


「ユーイ!」


 ツトゥの両手が、思い切り、ユーイの頬を挟むように叩いた。ばちんっ、と部屋中に響いた痛そうな音に、トウキとマイラは思わず同時に目をぎゅっとつむるが、当事者たちは気付いていない。


 その、片方、髪も瞳も肌も衣も暗い色の方の年長者は、おそらく珍しく、客人の前であるにも関わらず、腹の底から声を張り上げた。


「チェグルだけでも大変だというのに領地二つ分だなんて、この僕が‼ 治められると思っているのか⁉」


 それは、ユーイにとって、思いがけない言葉だったのだろう。

 返す言葉もなく、目を見開いて、正面のツトゥを見つめる。


 ツトゥの言葉は、止まらなかった。


「お前は領主がどれだけ大変なのかわかってない! 領地のことを、領民のことを考え、自分にも皇帝陛下という主がいる! 間に立つ者だ! そしてひとりの人間だ! 頑張らなければならないことは山程ある、でもできることには限度がある! 確かに父上はトウキ様にウェイダを奪われたと思っていたかもしれない、でも僕はっ…………トウキ様が陛下からウェイダを拝領されて正直ほっとしたんだ……やっと……エンインが背負っていたものから、解放された、って……」

 長年胸に秘めていたものを吐き出して、強かった語気が、だんだん弱くなっていく。

「僕には、無理なんだ。チェグルの産業を支えながら、国境を護るなんて。父上だって、お爺様だって、常に張り詰めていた。だから早く死んでしまった。それなのに、お前は……」

 うつむいて黙り込むツトゥを見て、トウキは少し気持ちが沈んだ。かける言葉が見つからない。きっとツトゥは、祖父や父から厳しく言い聞かされて育ってきたのだ。いかに自分が恵まれていたかを痛感する。

 そんなトウキの腕にそっと手を添えて、マイラは微笑むと、ツトゥとユーイの方を向く。

「ユーイ様は、ツトゥ様のことを思われていたのです。許して差し上げて下さい」

「しかしっ……貴女あなたのお命をっ……やはり、ぼっ……私、含め、しかるべき処断をっ」

「確かに命を狙われはしましたが、この通り無事ですし」

 しょぼくれる二人の前にしゃがみ込んで笑う。

「私結構強いですから、ユーイ様程度の腕前ではそうやすやすと殺されませんよ」

 ユーイが、引きった笑いを浮かべる。

「言うじゃん、姫様」

「何なら手合わせしましょうか。山育ちをなめないで下さい」

 洒落しゃれにならんわと呟いたユーイの頭を、ぱん、とはたいて、ツトゥが再度頭を下げる。

「申し訳ございません」

「こちらこそ、申し訳ありませんでした。てっきり貴方が命じたことだと思い込んでしまっていました」

「無理もありません。貴女の御父君にまで危害を加えようとしていた。命じてはいませんでしたが、止められなかった私にも罪はあります。どうか、私とユーイの処遇はご随意に」

 マイラは、夫を振り返った。

「旦那様、私たちは、チェグルで一夜の宿をお借りした。ですよね?」

 そうくるだろうとは思っていたがな、とトウキは腕組みして嘆息する。

「本来ならファンロンとの間に起きた国際問題だぞ」

「ファンロンの姫である私がいいと言ったのです。傍流ですけど」

「お前に関してはそれでいいかもしれないが、アデンどののことはどうする」

「でも、」

 今度はユーイを見る。ふてくされた表情をして、目を逸らされた。

「ユーイ様が父を襲わなかったら、私は旦那様のお嫁さんになっていなかった。ですよね?」

 妻に期待の眼差しを向けられ、トウキは悩んだ。言われてみればそういうことになるのだが、しかし。


 本当は、このような対応はよくない。が、全て明るみに出して解決したからといって、すんなり丸く収まるようなことではないのもわかっていた。

 皇太子派だった貴族の息の掛かった者が、対立していた赫き龍の血を継ぐ元皇子の妻とその父を襲っていたと知られれば、再び争いが起こりうる。


「……個人的には、そこの不届き者ぐらいはグォルチの司法院に放り込んでもよかったが」

 ちらりと見ると、ユーイは身をすくめた。

「陛下にお会いする日をずらすわけにもいかないし、何より橋のことがあるから早くウェイダに帰らなければならない。。ツトゥどの、よろしいか」

「ですが殿下」

「もう殿下ではないと」

 トウキは苦笑した。

「貴殿が敵意を持っていない、それがわかっただけで充分。これからはよき隣人、友人として接してもらえれば嬉しく思う。……それに、」

 またユーイに視線を向ける。益々身を縮めた。水責めがよほどこたえたらしい。

「友を失うことは、つらい。貴殿まで味わうことはない」

「……ありがたき、お言葉」

 ツトゥ・エンインは、片膝を立て、礼をした。その横でどうにも納得がいかないような顔で渋々ぺこりと頭を下げるユーイに、トウキは続けて言葉をかける。

「ユーイ、といったな。我が妻を侮辱するような物言いは控えるがいい。俺はあのままお前を沈めて殺してもよかったが、それを止めたのはマイラ。お前の命の恩人だ、忘れるな」

 ユーイは、

「くっそ! 地味姫様が恩人かよ!」

 思い切り毒突いて、

「口を慎めユーイ!」

 ツトゥがその頭をまた叩いた。




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