第十話
「何で教えてくれなかったんだっ!」
赤い髪の少女が、自分の身の丈よりも大きい古木の杖をぶんぶん振り回す。それを、
「恐れながら、龍女。教えるも何も、力を使い果たして眠っておられたではないですか」
剣を
「それが妻、しかもこの国の帝を導く者に対する台詞か! 冷たい! 頭が高い! しゃがめ愚か者が! そして避けるな!」
「それが夫、しかもこの国を
溜め息をつきながら、帯に差し込んである剣を鞘から抜かぬまま下から振り上げる。
「わっ」
大杖が弾かれ、天井に当たった後落下し、跳ね上がりながら部屋の片隅まで転がっていく。アルマトは頬を思い切り
「無礼だぞ将軍!」
「だとしても私も
未だ鼻息の荒いアルマトに近付き手を取り、その指先の小さな爪に軽く唇を押し当てる。アルマトがむっとした顔のまま両腕を男に向けて広げた。その求めに応じ、男がアルマトの小さな体を抱き上げると、
「許す」
それまで幼い少女だった姿が、
「やはりお前といるときはこちらの方が絵になっていいなゲンカ」
男──将軍ゲンカ・ツォウ・クォンシュは、年齢よりいくらか若く見える顔を
「……いきなり元の姿に戻るのはやめていただきたい。武人とて重いものは重いのです」
「の、割にはびくともしないではないか。流石我が父の加護を受けし一族の子よ」
笑いながら、アルマトは夫の腕から下りた。途端に、また少女の姿に戻る。
「で。あれの妻とはどんな娘だ?」
ゲンカは執務用の机の椅子を引き、アルマトを座らせると、わざわざ机を挟んだ向かいに移動して左腕の腕章に手を添え敬意を示した。
「ファンロン王の弟の孫と聞いています。幾月か前にグォルチの司法院に来訪した司法官を父に持つ賢い娘だとか」
「『だとか』? ゲンカ、お前会っていないのか」
「恐れながら、龍女。貴女が眠りについている間、都の守護は完全に軍のみに依存されます。ウェイダに行っている場合ではなかったのです」
「
「いいえ龍女。
「そうだろう!
「それは陛下に求められるべきでは」
「あんな小僧に褒められて何が嬉しいものか。お前が褒めろゲンカ、それがこのアルマトの夫たるお前の務め」
この国の皇帝とは別の権威ある存在に、将軍は礼の姿勢を変えぬまま、しかし微笑みながら軽く頭を下げる。
「アルマト、貴女は素晴らしい、そして美しい」
「ああ、そうだ、そうだろうとも! 我こそはクォンシュの祖、偉大なる
椅子の上で
「しかし、だ、ゲンカよ」
大杖をわざとらしく床について鳴らし、アルマトはにやりと
「あれは妻を迎えたというのにこの母に何の
言いかけたところに、
「恐れながら、龍女。現在トウキは妻に迎えたファンロンの姫を連れてこちらへ向かっています」
さりげなく制止。ゲンカ・クォンシュは知っている。このとてもそうは見えないが自分より遙か年上の妻は、半分人間でないがゆえか、ときどきとんでもなく人でなしになる。非道なことをさも楽しそうに言ったりしたりするものだから、「お仕置き」なんていうことは彼女にさせてはいけない。
幸いにも龍女の気はお仕置きからは逸れた。
「ほう。来るのか。出てくるのか、あの引き籠もりが」
「相手は
「ならばあれも出てくるしかないか。……ふぅん、そうか、ファンロンの」
立ち上がったアルマトは、大杖を己の肩に立てかけて、右手の人差し指と左手の中指、左手の人差し指と右手の中指の腹を合わせて、開いた空間を片目で覗く。何かを
「何をご覧になっているのですか」
「なに。嫁御の予習でもしておこうかとな。……ほう。美人ではないが、しかし愛嬌がある。…………ん? ……はぁん、なるほど、そうか。あの娘、そうか。ふふ」
手の構えと術を解いたアルマトは、杖を持ち楽しそうに笑いながら部屋の出入り口へと向かった。笑顔を見たゲンカは再度、顔を顰める。
「龍女」
「案ずるな、悪いようにはせんさ。我が子の嫁だぞ」
「貴女の『案ずるな』は案ずるに値するから案じざるを得ないのです」
「失礼な奴だ」
妻の悪童のような微笑みに、ゲンカ・ツォウ・クォンシュは深々と嘆息した。
◎ ◎ ◎
裕福な領地の領主による客人へのもてなしということもあり、夕食はそれは豪華なものだった。
チェグル領内を流れる川でよく
「おいしいですねぇ」
酒が入ったマイラはにこにことご機嫌そうに笑う。しかし食事の作法はちゃんとしている。骨太で髪も目も暗い色、程よく日焼けした肌にやりすぎるとかえって不自然になるからと化粧も薄い彼女は、正直なところ地味すぎてとてもそうは見えないのだが、曲がりなりにも王族の端くれ、貴人としての教育はしっかり両親から受けているため、所作が崩れることはない。
それを横目に、隣に座るトウキは内心ハラハラしていた。
何しろマイラが酒を飲んだ姿は自宅でも一度も見たことがない。婚礼の宴の際も、冷やした茶を飲んでいた。
飲酒は初めてということはないのだろうが、それでも結構な早さで杯を空けている。そして注がれたら注がれただけ飲んでいる。今夜何かあったらという危機感はないのか。いや、そんなはずはない。賢い妻はわかっているはずだ。それなのに――
気付いたマイラが、笑った。
それまでのどこか力の抜けたほろ酔いの笑顔とは違う、いつもの表情だ。
それを見た瞬間、トウキの中から不安が消えた、と同時に、気付いてほんの少し、本当に少しだけ、背筋が冷たくなった。
(……敵に、回したくないな)
しかしそれはそれ、やはり酒は
「マイラ。あまり飲むと明日に響く」
「ごめんなさい、おいしくてつい。これでもう終わりにします。ツトゥ様、ユーイ様、素晴らしいお料理でした、ご馳走様でした」
ユーイが優美な微笑みを浮かべる。
「お口に合ってよかったですわ。それにしてもお若いのにいい飲みっぷりですのね、本当に、見ていて気持ちいいくらい。よろしかったら寝酒に少しお持ちしましょうか?」
「いえ、主人も申しました通り明日に響くといけないので。お気遣いありがとうございます」
アヴィロ邸のそれよりも大きく立派な浴室で
「あまり、こういう比較の仕方をしてはいけないと思うのですけど」
鏡台の前の椅子に座り髪を
「確かに、何もかもうちより大きいし立派だな」
「あ、いえ、あの、……アヴィロのお屋敷だけじゃなくて……シェウの家よりも、すごく大きくて、きれいだなって。本当に豊かなのですね、チェグルって」
「この辺りはウェイダよりも温暖だから、雪の影響で産業が滞ることがほぼない。街道も三つ通っているし、道や治水の管理もしっかりしている。民の働き口も不自由しない。恵まれた地ではあるな」
「その……」
「馬車の中でお話していたこと、なのですけど。『もしかしたら』、何なのですか?」
と、トウキはマイラの手を引いて、自分の左隣に座らせる。
「危ないことはない、楽にしていい。ただ、少し、このままでいてもらっていいか」
「はい……あの、」
「この部屋だけ遮断した。こういう系統は得意ではないから、あまり長くはもたない、手短に言う。もしかしたら――そう、もしかしたら。あくまで俺個人の推測にすぎない。……マイラ、お前も、狙われるかもしれない」
「私が? 何故です?」
「お前がファンロンの姫だからだ」
「私はそんな、たいした立場では」
「お前自身はそう考えていても、周りはそう
「……そうでしょうか」
マイラは生まれも育ちもファンロンは国境に接する辺境の領地ツァスマ。年に一、二度は都に行くこともあったが、父に同行して国王シュイリに年始の挨拶をするか祖父の誕生日を祝うために祖父の住まう離宮を訪れるくらい。祖父の兄にあたる王とは全く面識がないわけではなく、寧ろ都に行くたびに顔を見せており、それなりに可愛がられてはいたが、だからといって特に何もお姫様らしきことはしていない(と、本人は考えている)。
マイラの父アデンはトウキとは違い庶子ではあるものの
確かに姫君らしくはないが、という言葉がつい出かかったが辛うじて飲み込んで、トウキは続ける。
「何故アデンどのは命まで狙ったのにウェイダの民を襲わなかったのか不思議だった。アデンどの個人に恨みを持つ者だったのか? だがアデンどのはウェイダのすぐ隣のツァスマの領主とはいえ異国の者、しかも荒々しい武人でもないし、少なくとも俺がウェイダに来てからは国境周辺で民同士が問題を起こしたことはないから、グォルチの司法官以外とはほぼ接していない。クォンシュの民に狙われる理由がない。そう考えると、アデン・シェウ・ファンロンの命を狙うというよりも、友好国の要人をクォンシュの領地であるウェイダで殺して、領主の俺にその責を負わせる算段だった――という可能性がある。だとすれば、お前も危ない」
「どうしてそんなことを⁉」
「俺自身は別に何とも思っていなかった……というより、元々名前すら知らなかったんだが、ツトゥ・エンインの父親は先の騒動では皇太子派の気性の激しい御仁で、どうも俺のことが気に入らなくてたまらなかったらしい。あまり仲良くはできないと言った理由はそこだ。息子の方はどう考えているのかはわからない、が、リュセイが即位して十年以上、世が乱れないように俺もできるだけ都行きは避けているというのに、どうしても俺を排除したい者も担ぎ上げたい者もまだまだ残っているからな」
だから都なんか行きたくないんだ、と苦々しく
「何故、そんな」
「俺が赫き龍の孫であるせいだ。確かに赫き龍アヴィーリヤ……爺さまはクォンシュの祖といわれてはいる、が……皇帝と供にあり国を守護するものであって統治者じゃない。『赫き龍は君主に
心底不愉快そうにそこまで言ったトウキは、急に押し黙った。こんな愚痴をマイラに聞かせてしまったことを後悔したか。
「……まぁ、」
溜め息と苦笑い。
「体が頑丈なところだけは、君主向きだったかもしれないな。普通の人間なら死ぬ薬をかけられて火傷程度で済むくらいだ、暗殺するにもやり
「笑えない冗談です」
「すまない。……そういう、ことだから、」
肩を抱く手に力が入る。
「ファンロン王から
本当に申し訳なさそうに言う夫の手に触れ、マイラは笑う。
「大丈夫です。私これでも結構強いんですよ。家に入ったコソ泥も三人捕まえたことがあるんです、自分の身は自分で守りますし……旦那様がついていて下さるのなら、百人力です」
「それは頼もしい。……そろそろ限界だ。解くぞ」
「はい」
体全体が、何かから解放されたような感覚。保たれていた術が解かれたのだとわかった。
同時に、肩から離れようとした手を、マイラがきゅっと握る。トウキがびくりとした。
「な、えっ」
「もうちょっと、だけ、いいですか」
小さな囁きが甘く響く。トウキは頭の中が真っ白になり、顔の方は真っ赤になった。
「あ、ああ……」
「あの、お嫌でしたら」
「い、やじゃないっ」
「左様でございますか」
しばらくそのまま、夫婦は静かで穏やかな時間に浸っていたが――
「……マイラ」
「はい」
「コソ泥を、三人、捕まえたと」
「はい」
「一人でか」
「父は不在でしたし、弟も幼かったですし、剣を使えるのは私だけでしたから。確か、二年近く前だったと思います」
「…………そうか」
夕食のときも、この家の者を油断させるためかわざと酒を飲んで無害そうに見せていたし、もしかしたら妻は自分よりも
トウキは少し、自身を情けなく思った。もう少し強くなりたい。
「な~ぁにを、話してたのかねェ……これだから術士は嫌なんだよ」
独白する声は、男とも女ともとれない。
「あーあ、気が進まないな。おっさんじゃなくて女の子、だもんなぁ」
まぁいいか。呟きは、夜の闇の中に融けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます