辺境夫婦善哉－ひきこもり雪獅子公と陽気な嫁様－

都行き編

第九話

　ウェイダ領を出たその日の日没後、一行は山をひとつ越えた隣の領地チェグルに入った。

　チェグルはウェイダ同様領地はそれなりに広く、農業も盛んではあるが、主な産業は紡績（ぼうせき）と織物。クォンシュに出回る糸や布地の七割はチェグルで生産しているといわれており、夜も稼動している工場が多い。山の麓（ふもと）にまで明るく大きな建物が見られるのは、ほぼ山岳・森林地帯と農地のウェイダとは大きく違う点だ。

「こんな時間まで働いている方がいっぱいいるのですね」

　マイラが興味深そうに馬車の小窓から顔を出すと、

「こんな時間に顔を出すな」

　トウキの注意に合わせて、一緒に馬車に乗り込んでいるスニヤがマイラの帯を咥（くわ）えて窓から引き剥（は）がした。

「女がいると知って襲ってくるとも限らん」

　宿泊予定地まで、まだ少しだけ距離がある。未だ捕（とら）えられぬ賊のことを案じての発言だ。

　おとなしく窓を閉めてトウキの隣に腰を下ろしたマイラは、目の前にちょこんと座り撫でるようにと頭を差し出すスニヤの額を掻（か）くようにさすってやりながら夫の顔を窺（うかが）った。

「そういえば、旦那様」

「ん」

「『気になることがある』と仰（おっしゃ）っていました」

「……ああ、それは……いや、うん」

　考え込んでしまった。言い難（にく）いことなのだろうか。しかし聞きたい。

　どう言えば話してくれるだろうかと考えながら、じ、と見ていると、視線に気付いたトウキは、

「な、んだ」

　戸惑いながら、合った目を逸（そ）らした。声を出さずに言葉を選ぶ口が、僅（わず）かに動いている。

　照れるときに出る仕草だとマイラが気付いたのは最近のことだ。最初は火傷（やけど）痕（あと）のこともあるし顔をあまり見られたくないのかと思っていたが、よく考えてみれば、誰だって凝視（ぎょうし）されれば何故だか恥ずかしくなる。それはまぁ当たり前だろうこととして、マイラはトウキが照れる顔を見ると胸の中心のあたりがほわっとあたたかくなるのを感じるのだった。

「教えて下さらないのですか？」

　優しいこのひとは、きっと応（こた）えてくれる。信じて駄目押ししてみると、

「……どうせ聞き出すまで諦めないだろう」

　案の定あっさり折れた。溜め息をつきながら苦笑する。

「これから一泊させてもらう館の主――チェグル領主、ツトゥ・フォオル・エンインというが、おそらくは、」

　それまで穏やかだった表情が、一転する。

「アデンどのを襲った賊と繋がりがある」

　マイラは一瞬言葉を失った。

　数ヶ月前、父アデンを襲撃した賊――嫁ぎ先のすぐ隣の領地の主が、それに関与している可能性があると？

「何か、わかったのですか」

「一昨日の夜、不在期間の通告のために警備隊の詰所に行っただろう。そのときに報告を受けたんだが、国境の橋の付近で怪しい者を目撃した隊員がいてな。後をつけたらチェグルとの境あたりで馬を貴族のものらしい馬車に繋いで乗り込んだ、と」

「でも、それだけではチェグルの領主と組んでいるとは」

　〝怪しい者〟というだけでは決定打に欠ける。しかしトウキは続けた。

「エンイン邸の敷地内にその馬車が入っていったんだそうだ」

「……それは、怪しい、ですね」

「アデンどのが襲われたのが四ヶ月程前。その後、それらしい不審者がウェイダ領内の町外れに出没したという報告は三度あったが、家屋や店が少し荒らされた程度で、何故か盗難や殺人は全くなかった。おかしいと思わないか。物盗りをするならチェグルの方が豊かな家が多い。それなのにわざわざウェイダにまで来て、何も盗らない、誰も殺さない。命を狙われたのは、通りかかった異国の者――アデンどのだけ」

「父、だけ、が……？」

「アデンどのを襲った理由そのものがまだわからんが、その後再び賊が姿を見せたのはお前が嫁いできてから。……もしかした、ら、……」

　そこまで話して、ふと気付いた――マイラが大きな円（まる）い目で注視していることに。

　ゆっくり、顔を逸らす。

「…………なん、で、そんなに、見る……」

「旦那様が、たくさんお話されているので」

　そういえば、先日「仕事のことだと饒舌（じょうぜつ）になる」と指摘されたばかりだ。

　またつまらない話をしてしまったのではないか。トウキは考え込んだ。しかし聞きたがったのはマイラの方だ。こういう話をしてもきっとつまらないとは思わない、寧ろ大事なことだと耳を傾けてくれるだろうし、理解もするだろう。とはいえもう少し簡潔に、手短に話すべきではなかったか。

　僅かな間に激流の如く思考を巡らせた挙句、

「……すまない」

　つい謝ってしまう。するとマイラは少し困ったように笑った。

「どうして謝るのです。私と、私の父にも関係があること。詳しく話して下さった方が嬉しいです」

「そう、か」

「都から戻り次第、父に会いに行ってみます。何かわかれば、お力になれるかもしれません」

「一緒に行くと言いたいところだが頼めるか。護衛を何人かつけよう」

「旦那様はウェイダに戻ったらお忙しくなりますものね。お任せ下さい！」

　そう請け合った瞬間、馬車が大きく揺れた。

「ひゃっ」

「わっ」

　マイラが座席から転げ落ちそうになったところを、トウキが抱きかかえるように支えた。驚いたスニヤも毛を逆立てて立ち上がり、身構える。

「スニヤ、落ち着け、揺れただけだ。……だい、じょうぶ、か…………」

　はっとする。

　顔がとても近い。

　マイラは「美女」といわれるような類の容貌ではない。くりっと円い目は大きいが、どこか小動物のような趣（おもむき）がある。眉は嫁いでから多少整えるようになったとはいえまだ慣れてはいないようだし、天気のいい日に陽差しも気にせず外を出歩いているので、肌も白くない。体付きだって、よく食べよく動き回るからか、ほっそりとはしていない。思い返してみれば、婚礼の宴に出席していた腹違いの弟だという少年が、彼女によく似ていた。長い髪を切ってしまえばそっくりになるだろう。

　少年のようだが、少女らしくもある。

　よく動き、よく笑う彼女には、生命力に満ち溢（あふ）れた美しさがある、とトウキは思ってはいるのだが、やはり――十以上も年下の、若く愛らしい娘、しかもそれが自分の妻なのだと改めて考えると、どうにも緊張してしまう。

「や、その、す、すまないっ、あ、あっ」

　慌てて離れたトウキの顔から、左半面を覆う金属製の仮面がずるりと落ちる。

「あ、あっ、あぁっ」

「旦那様も落ち着いて下さい、スニヤがまた驚いちゃってるじゃないですか」

　思わず笑ってしまいながらも、マイラは仮面を拾い上げて座席の上に膝立ちし、丁寧に再装着させる。

「紐、緩んでたんでしょうか。そういえば、お屋敷を出てから一回も直してなかったですね。……きつくないですか？」

「あ、いや……すっ、ま、ない……」

「旦那様はすぐ私に謝ってしまいますね」

　座り直してくすくす笑った。やわらかい空気を纏（まと）う笑顔だ。以前アデン・シェウから娘は気が強いと聞いていたが、決して責めることなく笑って流してしまうマイラは気が強いのではなく、芯が強いのではないかとトウキは思う。

「…………嫌じゃ、ない、か」

「何がですか？」

「その、…………触れようとした、縁談相手を、捻（ひね）り倒したとアデンどのが……いや、以前に、つい抱き締めてしまったこともあったがっ、そ、その、さっきのも、咄嗟（とっさ）のことでっ、あっ、す、スニヤに乗ったときも、そのっ、」

　ひどく狼狽（ろうばい）している。そんなことを気にしていたのか、とマイラは吹き出した。腕を取ってぎゅうと抱き込む。トウキがびくりとしたが、それを宥（なだ）めるように、優しく腕を撫でさする。

「もうふた月も同じ寝所で休んでいるではないですか」

「……まだ、初めて会ってから、半年も経っていない」

「そうですね、確かに、初めてお会いしてからは日は浅いですね。……旦那様は、何故、私を妻にしようと思ったのですか？」

　マイラの問いに、トウキは俯（うつむ）いた。

　照れというよりも、申し訳なさそうな顔。

「……最初は、誰でも、よかった。何年も、前から……妻を娶（めと）れと……」

「ええ。そういう身分ですものね」

「……ここ数年は……シウルを迎えろと、そんな空気が……」

「シウルさんを？」

　やはり彼女との間にそういう話は上がっていたのか、と納得しかけたところに、

「違う！」

　焦ったように、トウキが顔を上げた。

「別にっ、俺はシウルに対してそんな気はっ！」

「ないのですか」

　ひとつ、深呼吸をしたトウキの口から、言葉は零（こぼ）れ出した。

「……シウルは、小さい頃から、想われている、そして、想っている、……そういう相手が、いる」

　その言い方から、その相手が誰であるのか、マイラは察した。

「それは、……お迎えできませんね」

　彼は、近くで見守ってくれている姉のような人を、遠くで見守ってくれている兄のような人を、大事にしているのだ。そして彼がこうだからこそ、シウルもかの人物もよくしてくれているのだろう。

「でも、それなら、私でなくともよかったのではないですか？　父から私のことは聞いていたのでしょう？」

　と、トウキはどう返そうか少し考えたが――笑いを堪（こら）えるような顔になった。

「随分（ずいぶん）な、お転婆（てんば）だと……縁談が全部破談になった、ことも……聞いて……ふっ」

　我慢しきれずに失笑。マイラは膨（ふく）れた。

「私は悪くないです！　…………そ、そんなには……」

「ああ、少なくとも半分は、お前を侮（あなど）っていた相手が悪いんだろうな。……だから、少し、興味を持った。自ら学び、それを楽しむことができる娘なら、表面上の婚姻でもきっと苦にはならないだろうと、思った。隣の領地なら、実家にも気軽に帰れる。…………そう、思って、いたん、だが」

　徐々に声が小さくなっていったかと思うと、黙り込んでしまう。言うのを迷っているのか。

「だんなさま？」

　触れた指先が握られる。

「……いや、その。退屈せずに、過ごせているのなら、よかった」

「旦那様の、おかげです」

　ことん、と頭がもたれかかる。

「旦那様が、私のわがままを聞いて下さって、くだらない話も、聞いて下さって。……あと、その……嬉しいのです。私を美しいと言って下さるのは、旦那様だけ、ですから……ありがとう、ございます……」

　急に静かになったのを不思議に思って覗き込んでみると、マイラは寝息を立てていた。長時間の移動で流石に疲れが出たのだろう。警戒心の欠片（かけら）もなく、ぴったりとくっついて眠る妻からそっと腕を引き抜いて、また激しく揺れて転げたりしないように肩を抱く。

「……お互い様だ。初対面で臆（おく）せず近付いてきて、声をかけて。俺が誰かをわかっていてそんなことをしたのは、お前だけだ」

　アデンを屋敷の前まで送り届けたときに、駆け寄ってきた姿を思い出す。　

「……一目（ひとめ）惚（ぼ）れだった、と言ったら、どんな顔で、何を言うかな」

　もう間もなく到着であるが、これから泊まるのは疑惑の館。できるだけ休ませてやろうと、トウキはそのまま妻を寝かせておくことにした。

　　　　　◎　　　　　◎　　　　　◎

　トウキが言っていた通り、チェグルは都から少し離れた地の割に栄えていた。領主の館からすぐのところに町ができており、日が落ちて時間が経っているというのに明るい。工場の夜勤だろうか、パンや惣菜（そうざい）や汁物を、持参した持ち運びしやすい容器に入れて買っていく者の姿もある。

「活気がありますね」

　半刻ほど寝てすっきりした顔のマイラは、懲（こ）りずに小窓を開け外を眺める。しかし市街地であるからか、今度はトウキも咎（とが）めない。

「帰りに少し立ち寄ろう。女衆への土産物は都の菓子もいいがチェグルの布や糸も人気がある。実家に帰るのなら、姉君にも何か買っていってやるといい」

「はい、ありがとうございます！　姉は針仕事が大好きですからきっと喜びます！　……あ、」

　高い石積みの塀に囲まれた、大きな箱のような建物が見えてきた。

　全部白い石でできているのか、周囲の灯りに照らされてほのかに輝いているようだ。

「立派な、お宅ですね」

「エンインは貴族の中でも指折りの富裕層。一昨年先代が死んで代替わりしたから、今の当主は俺とそう変わらん年齢だが……」

　立ち上がったトウキが、ゆっくり窓を閉める。撫でてもらえると思ったかスニヤが傍（そば）に来て座ったので、ふわふわとやわらかい鬣（たてがみ）を揉みほぐすようにすると、スニヤは満足そうに目を細めた。

「あまり仲良くはできない人物と思った方がいい。今夜はできるだけ俺から離れるな」

「はい」

　チェグル領主ツトゥ・フォオル・エンインは、奥方と共に館の玄関に迎え出ていた。トウキより少し背が低いが、大陸西方の血を引くらしく浅黒い肌に細身で、袖周りや帯がすっきりとした衣を纏（まと）ってるせいか、長身に見える。

　特徴的なのは、表情だった。

　あまり大きく見開かない目は、暗い色なのか光を宿さない。口元も微笑んでいるのに、そういう部品を貼り付けたようだ。

　その笑顔に違和感があった。

　トウキが挨拶（あいさつ）をしている間、マイラはツトゥ・エンインをじっと見ていた。髪の色が、マイラのものよりも暗い。月のない真夜中の、闇の如き色。

「マイラ」

　小さな声で呼び掛けられて、我に返る。夫を見上げると頷かれたので、エンイン夫妻の方に向き直り、左の上腕部に右手を当てて軽く頭を下げる。

「トウキ様の妻、マイラと申します。このたびは、急に押し掛けるような形になってしまって申し訳ありません。ですがここしばらくは賊が出ているとのこと、エンイン様のお宅であれば夜も一安心です。大変ありがたく存じます。よろしくお願い致します」

「まぁ、まぁ、お噂はかねがね。こんなに可愛らしい奥様でしたなんて。初めまして、エンインの妻ユーイと申します。お隣同士、仲良くして下さいませね」

　奥方は領主とは違い明るい色彩だ。紅を引いた唇が映える浮かび上がるかのような白い肌に、やや波打った蜜色の髪。シウルとは違う部類の華やかな美人である。

「さ、どうぞお入りになって。お食事とお湯を用意してありますわ。今夜はゆっくりお休みになって下さい」

　こちらは裏表がない人間のように見える。しかしやはり油断はしない方がいいだろう。

「お気遣い痛み入ります、ユーイ様」

　アヴィロ夫妻は、顔を見合わせた。

「参りましょう、旦那様」

「ああ」