第八話



 目が覚めると、窓掛けを通して入る光に影が出来ている。先に起床して着替えを済ませたトウキが仮面を着けていた。

「おはようございます」

 マイラがふんわりとやわらかい布団に包まれたまま小さく声を掛けると、トウキが振り向いた。

「まだ早い、寝ていていい。昨夜は遅くなってしまったからな。少しスニヤと馬を見てくる」

「今日は、スニヤも連れていくのですか?」

「悩むところだ。馬と食べるものが違う。しかし長時間離れるとなると、寂しがって追い掛けてくる」

「追い掛けて?」

「以前警備隊の詰所に二、三日泊まり込んだら小屋を抜け出してきて門の前で鳴かれた」

 少し撫でてやっただけでも大きな体や顔をぐいぐい押し付けてくる。その姿を思い出すと、笑みが零れた。

「あの子は甘えん坊ですね」

雪獅子ルイツの寿命はわからないが、ああ見えてまだ幼いのだろうな。……ちゃんと休んでいてくれ、今日は長旅になる」

 頭から頬を流れるように撫でられると、不思議と眠気が襲ってきた。温度が心地よい。

「旦那様が起こして下さいね」

「ああ」

「絶対、ですよ」

「わかった」

 マイラは安心したようにすぅ、と眠りに入った。歳よりも少し幼く見える。


 『元々跡取りとして育てられています』


 昨夜の彼女の言葉を思い出す。


「……しっかりしている」


 きっとマイラにとってそれは「無理をしている」のではなく、「身についている」ことなのだろう。無理をするなと気を遣えば、逆にその才と輝きが損なわれそうだ。

 そっと寝所を出ながら考える。


(マイラに、心配させない方法……)


 と、後ろから肩を叩かれた。

「よっ。だいじょーぶか、いつも通りに起きちゃって。もうちょっと寝てていいぞ」

 シウルだった。苦笑で返す。

「スニヤが鳴くからな」

「連れてくの? 目立つよ」

「何を今更」

「あっはは、そーね、今更ね」

 スニヤを都に連れていったことはないが、トウキが雪獅子を手懐けているという事実はよく知られている。悪評の高い人物が珍しい生き物を飼っているというのだから、有名にもなろう。雪獅子公という通称が広まっている所以ゆえんである。

「……シウル」

「なーに」

「もっと、ちゃんと、……都に、足を運んで、とか……その……」

 マイラのことを気遣っての発言だとシウルは気付いた。都へ発つ前日だというのに昨夜仕事を手伝わせてしまったのを後悔しているらしい。

「ま、奥様の立場を考えれば、そうした方がいいよね。何せ血筋がどうあれ、隣のお姫様、しかもファンロン王家にいた唯一の姫君を貰っちゃったわけだし?」

 シウルの言葉ももっともなのだ。マイラは一応それなりの地位にあるべき者。トウキも形式的には皇家の籍を外され遠方に流された〝元々の身分は高い〟身とはいえ、いつまでもうだつが上がらない地方領主の妻に甘んじさせては、ファンロン王家の顔を潰すことになる。

「もう目立ちたくないって気持ちはわからなくはないけどさ、せっかくリュセイとうちの兄貴が『白梅』に席残してくれてるんだし、多少は名を上げるようなことしなきゃダメだよ。地位だの権力だのに興味ないっつったって、あんたは生まれながらにそういうものに関わらなきゃならないところにいるんだし、あんたがいい意味で何かしたって話が聞こえてくれば、奥様の家だって安心させられるんだからね。……ほら、早くスニヤと馬のとこ行ってきな!」

 尻を叩かれてよたつく。この家の衣食住を取り仕切る侍女長の一撃は力強い。

「った……そうだ、シウル」

「何よ」

「マイラはまだ寝かせてやってくれ。後で起こしに行く約束をした」

「おぅおぅ、順調に仲良くなってんなー。了解了解」



 マイラの起床はいつも通りの時間だったが、起こしに来たのはシウルではなく約束通りトウキだった。しかし着替えがあるからと直後にやってきた女中エシュにより早々にトウキは追い出され、今日はまた後でお召し替えですからとマイラは簡素ながらにいつもよりも少し小綺麗な衣を着させられた。

「奥様。今日はもうお出掛けまで何もしないで下さいね」

 仕上げに帯をきゅっと締める。まるで言いつけるようだ。

「え、でも」

「ダメですよ、爪の緋露ひのつゆが剥げちゃうでしょ! せっかく昨夜きれいに塗ったのに。なのに旦那様ったら事務仕事のお手伝いとか、もう!」

 歳若いエシュですら旦那様には容赦がなくて笑ってしまう。

「ふふ、わかりました。……そういえば、エシュさん」

「もう何度も言ってますけどエシュでいいですよ奥様」

 鏡台の前の椅子に座らされる。次は髪だ。後で結い直すので、ごく簡単に、だがしっかりときれいにまとめていく。おとなしく言いなりになりながら、マイラは戸惑う。

「でも、この家においては私より先輩……だし……」

「奥様は奥様なんだから奥様らしくして下さい。そういう変な気の遣い方しなくていいんです、そもそもシウルさんはともかく私は平民だし奥様より年下なんですから」

「ご、ごめんなさい」

「はいできた!」

 ぽん、と両肩を叩かれる。立ち上がり鏡の前で一回転して確認すると、見慣れぬ姿の自分にマイラは少し照れ臭くなった。普段は汚れてもいいように地味な色の動きやすい格好ばかりしているせいか、明るい若菜色の衣や薄くやわらかい生地の帯は礼装でもないのに妙に華やかに見える。これが本来の「奥様」の装いか。鏡越しにエシュの満足そうな顔が見えた。

「お出掛けの際はちゃんとお化粧もするしもっと美しく仕上げますからね。旦那様を驚かせてやるんだから! ……あ、何か言いかけてましたね奥様。何ですか?」

「あぁ、えぇと……エシュ、は、お屋敷に残るんですよね?」

「はい。あぁ、お花と畑のお世話ですか? もう残る人で当番割り振ったから大丈夫ですよ」

「ごめんなさい、こんなギリギリになってから思い出しちゃって」

「急に決まったから準備大変でしたもんね。あ、昨日届いた荷物、指定された布で包み直しておきましたので。とっても大事なものなんですよね?」

「はい、ありがとうございます!」

 と、扉が二回、叩かれた。

「まだか」

 その声を聞いたマイラとエシュは顔を見合わせた。

「旦那様、先に食堂に行って下さってもよかったのに」

「奥様と一緒に行きたいんですよ。さ、参りましょ」

 二人で寝所を出ると、廊下で待っていたトウキが微かに笑った。

玉魚たまうおが出てきた」

 帯の結び目はどこに作っても自由だが、このときマイラとエシュは帯を後ろで結んでいた。特に諸作業を禁じられたマイラは普段より少し長めに帯の先が垂れている。エシュの趣向だろう。歩くとふわりと舞うそれは、観賞魚の尾鰭おひれのようだ。

「旦那様の割に洒落たこと言いますね」

 にやりとしたエシュにトウキは呆れた顔をした。

「シウルに似てきたな」

「そりゃあ、尊敬する師匠ですから」

「留守の間のことは頼む。賊のこともある、何かあればチュフィンを頼れ」

「大丈夫ですか? フィーにそんな何でもかんでも押し付けちゃって」

「使われて喜んでいるさ」

「まぁそうですね、フィーは旦那様のこと大好きで追っ掛けてきたんですもんね。……あ、私洗濯物置いてきます、お二人は先に行ってて下さい。失礼します」

 洗濯物を抱えたエシュが走り去るのを見届けて、マイラは夫の顔を見上げた。

「チュフィンさんは、都からいらしたんですか?」

「あれで何代か財務官を務める家の息子でな。何故かついてきた」

「仲が、よろしいんですね」

「よくはない」

 即答。そういえば以前、少々過激な発言をしていたような。嫌いなのだろうか。しかし強い否定をしているわけでもない。彼らが接しているのを何度か見たことがあるが、忌憚きたんなく話しているようだし、何より右腕として扱っている。きっと二人の間には、何かしらの絆があるのだとマイラは一人納得した。

 また少し知ることができたのが嬉しくなって、そっと手を握ろうとして――指先に触れると、それに応えるように握り返される。

「エシュもチュフィンさんと仲がよろしいんですね」

「いい仲のようだからな」

「そうなのですか! 初めて知りました!」

 いい仲、と聞いて、ふと考える。


 彼には、そうした人はいなかったのだろうか。


「あの、旦那様」

「どうした」

「旦那様は、その、……そういった方は、いらっしゃらなかったのですか?」

 つい訊いてしまってから、しまったと思った。そういえば彼は生まれ育った家と都を追い出された身。恋人や婚約者がいたのだとしても、ついてくることなど決してあり得まい。

 が、トウキはというと、

「運がいいのか悪いのか、いなかった」

 マイラの表情の変化に気付いたのか、苦笑しながら答えた。

「十二の頃にイノギアの宰相の生まれて間もない娘との間で話が決まりかけたが、病で死んだそうでな。……その直後に俺とリュセイを対立させる動きが出てきて、そんな話が全く入ってこなくなった。俺に権力ちからを持たせない為の策だろう」

 またそれが原因か。言葉を返せずただ膨れていると、トウキは苦笑いを継続する。

「お前がそんな顔をすることはない」

「旦那様は悪くないのでしょう⁉ 理不尽です!」

「知らないところでろくに面識もない奴らが勝手に持ち上げていたとはいえ、何もしなかった責めは俺にもある。……が、今のこの立場でこの地にいる方が気楽でいいし、まぁ、結果として、……お前が妻になったから……」

 嬉しいことを言われて、マイラは繋がれた手をそのままにトウキの腕を抱き込んだが、やはり不服そうだ。その顔を見て――きっと本人は聞いたら何をのんきなと憤慨ふんがいするかもしれないが、トウキもまた嬉しく、微笑ましいと思うのである。

「気持ちは嬉しいが、くれぐれも皇帝の御前で滅多なことは言ってくれるな。死にたくない」

「私にもそれくらいの分別はつきます!」

 食堂の扉を開くと、焼いたパンと汁物の香りが鼻孔をくすぐった。朝食の支度をしている女中たちが声を揃えて、おはようございます、と元気に挨拶をしてくる。いずれもマイラとそう変わらない年頃だ。

 挨拶を返すと、先程の話を思い出し、

「旦那様」

 マイラはトウキの袖をついついと引いた。

「どうした」

「この、家の中の方で、お手を付けられた方はいないのですか?」

 妻から小さく放たれた問いに、

「いない!」

 夫が大きく返答する。突然の主人の大声に、女中らがびくりとした。気付いたトウキが謝罪する。

「あぁ、いや、すまない、続けてくれ。……確かにこの家に仕えるのは若いのが多いが、ほとんどはウェイダの民、娘の嫁入り前の修行と持参金稼ぎにとよこされている者。民から預かった大事な娘に手なんか出すわけがないだろう」

「そういうものですか」

 主人のお手付きを狙って娘を奉公に出したり、主人側もそれと知って手を出したり――よくある話だが。

「俺は立場が立場だからな、下手に関係を持てば変なことに巻き込まれる可能性が出る。受け入れてくれたここの民にそんな迷惑はかけられないし、そう話してある。……何故、今そんなことを気にするんだ……」

 溜め息をつきながら席につく。その正面の椅子にマイラもちょこんと腰を下ろす。朝食の時間はもう間もなく始まる。

 卓上には焼き上がったばかりのパンの盛られたカゴ、一口大の大きさに切られた麦鳥の肉と野菜がごろごろと入ったとろみのある汁物が入った椀、爽やかな後味の茶が入った大きな茶瓶と碗に、卵と乳を混ぜて焼いたものに、少量の酒と一緒に火にかけて香りとほんのり苦味をきかせた花蜜をたっぷりかける甘味トゥルフ。豪華ではないが、飾られた花とアヴィロ家の主従人数分の食事が並ぶさまは、食卓の賑やかさをあらわしている。

 準備が整うと、全員で天の神と地の神に感謝の言葉と祈りを捧げる。静かなのはこのときだけだ。食事が開始されると同時に、若者だらけの食堂には一気にお喋りが溢れる。

「奥様、おかわりあるからしっかり食べなね。ちゃんとお弁当持ってくし休憩する予定だけど、長旅だからお腹空くよ」

 隣に座るシウルがマイラに声を掛けた。はぁい、と返事をして、汁物を木製のさじすくい飲みながら、シウルの顔を、じ、と見る。やはり美人だ。

「なぁに、どうしたの」

「……シウルさんは、その、旦那様と、その、」

「え、違うよ全然違うよ私こんなの好みじゃないよ」

 先程の会話が聞こえていたのか、マイラが言い切る前にシウルが察してあまりにもさっくり答えるので、周囲の家人たちが吹き出した。トウキがぎょっとして危うく匙を取り落としそうになる。

「マイラ! 今こんなところでそういう話をっ」

「だって気になってしまうのです!」

「気にしなくていい!」

「旦那様が好いていた方がいらっしゃるのなら、いろいろ参考にしたいではないですか!」

「だからそういうのはいなかったとさっき言っただろう!」

 朝餉あさげの席で始まった主人夫婦の奇妙な痴話喧嘩に、家人たちは笑いを堪えつつ食事を進める。シウルもにやつくのを我慢しながらパンをちぎる。

「いいから早く食べな」

 仕切り役の一言に、夫婦はおとなしくなった。



 馬車一台に荷を積み、もう一台にはシウルと侍女を兼ねる女中が二人乗り、更にもう一台、少し大きめの馬車に、アヴィロ家の主人夫婦が乗る。この主人専用の車は特別製で、扉が大きく腰掛けが後方にしか設置されておらず、前方の空間が広く取られている。甘ったれの雪獅子スニヤがいつでも乗り込むことができるように作られているのだ。男子の従者は三人、更に国境警備隊の隊員から選出された五人が警備の為に同行する。途中、隣の領地チェグルと小都市フェロに一泊ずつ。片道三日かけて都へと向かう。

 エシュが宣言した通り、マイラは裾や袖が少し長い青色の衣に、二重に重ねられた薄絹の帯、丁寧に梳かれ結い上げられた髪もウェイダの北方にあるロナル鉱山から産出する氷晶石ひょうしょうせき――夫婦の揃いの耳飾りに使われている石だ──の装飾の美しいくしで飾られ、いかにも良家の若奥様といった装いとなったのだが、

「もー、何で剣なんか提げちゃうんですかぁ台無しじゃないですかぁ」

 腰から膝ほどの長さ、少し短めの剣が一振りずつ、帯の左右に無造作に差し込まれているのを見て、エシュが非難した。とはいえ、剣はそれなりに上等のもので、白木のさやつば柄頭つかがしらには金と赤い石の装飾が施され、装飾品としても遜色ない造りをしている。女子であるマイラが持ち歩いてもいいようにと、父アデンが特別に拵えて贈ったものだ。

「でも、いざというときの為のものですから」

「いざというときは旦那様が守ってくれます! そんなの置いてって下さい!」

「いや」

 意外にもトウキはマイラの帯剣に肯定的だった。

「使えるのなら、持っていた方がいいかもしれない。街道沿いとはいえ、何があるかわからないからな」

「賊、ですか」

 結婚以来、何度も聞いている。そもそもマイラが嫁いだ経緯に関与していることだ。

「少し気になることがある。この旅は、用心した方がいい、と、思う、が……何もないことを祈ろう」

 傍らに座るスニヤの頭を撫でると、改めて、着飾られた妻を上から下まで眺める。マイラは緊張した。

「へ、変でしょうか」

「……いや。美しい、とても」

「剣を提げていても、ですか」

「お前らしくていい」

「ふふ」

 照れながらも満足そうに笑う、その手を、トウキが取る。

「行くか」

「はい」



 ところが、馬車に揺られ始めてそう経たぬうちに、トウキの表情は徐々に曇っていった。

「…………行きたく、ない……」

「旦那様。私がついています。頑張って下さい」



 引き籠もり雪獅子公とその妻の、短くも長い旅が始まった。



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