第五話



 これは離縁の危機なのでは、とマイラ・シェウ・アヴィロは案じていた。何しろ寝所で素顔を見てしまった瞬間、夫は悲鳴を上げながらその場から逃げ出し、そのままかれこれ五日間、顔を合わせていない。寝起きは勿論のこと、食事までずらされてしまっている。開き始めていた心は完全に閉ざされてしまったのだろうか。


(きれいなお顔、だったんだなぁ)


 顔の左側は胸や首元と同じく赤黒い火傷痕が痛々しかったが、焼けていない右側はまさしく眉目秀麗、端正な顔立ちで、普段隠されているせいか肌はなめらかで白く、金色の目と深い赤色の髪が引き立っていた。


 とても怖く苦しい思いをした挙げ句、顔や体があんなことになるだなんて、どんなにつらく悲しかっただろう。隠したくなるのも無理はない。


 それを見られてしまった彼は、どんなに――


「はぁ」

 溜め息をつきながら鉢に土を入れていると、洗濯を終えたらしいシウルが空になったカゴをひょいと放り、マイラの横にしゃがんだ。

「手伝おっか」

「ありがとう、ございます……シウルさん」

「なーに?」

「私、離縁されちゃうんでしょうか」

「ぶばゎっ」

 盛大に吹き出し、勢いで尻餅をついた。マイラは戸惑う。シウルもこのひなびた地にそぐわない、きりっとした美人だ。言動が豪快であるが。

「あっははっ、はははっ! りえん。はは、面白いこと言うねぇ!」

「だっ、だってっ、私旦那様に避けられてっ」

 ひとしきり笑った後、シウルはしゃがみ直して二つ目の鉢に土を入れ始める。

「大丈夫だよ、そんなことしないよ」

「でも……わざとじゃないけど……きっと私が頭触っちゃったから、紐、緩んで……」

「マイラちゃん。トウキの顔怖かった?」

 言われて改めて思い出す。

「……怖くなかった、です」

「ほんとにぃ~?」

「その前に、首と胸を、見せていただいてたので」

「ん、そっかそっか」

 鉢に入れた土の数ヶ所に指で窪みを作り、種を入れて、更に軽く土を被せる。シウルが感心した。

「おっ、手慣れてるね」

「今の母と姉に教えてもらいました」

「あぁ……血が繋がってないんだっけ。最初、嫌じゃなかった?」

 話題の転換。気分を変えさせようとしてくれているのだとマイラは気付いた。

「何でだろう、そんなに嫌じゃなかったなぁ……母は、父と、私を産んだ母と、幼馴染みなんだって聞きました。よく家族で遊びに来てくれてて、おんなじように、姉と私も元々は幼馴染みで。母は、すごくすごく、可愛らしいんです。お料理も上手で、麦鳥の包み焼きが特に。作り方教わったのに全然同じ味にならないんですよね」

「あー、あるあるわかる! 私も母親にいろいろ教えてもらったけど、何か違うんだよねー。……お姉さんが元幼馴染み、って、また不思議な感じだねぇ」

 マイラの表情の明るさが増した。

「姉もすごく可愛らしくてすごくきれいなんです。だから、姉妹になれたのは、……寧ろ嬉しくて。姉は、お料理はその、あまり……上手とは言いがたいんですけど、でも、針仕事が得意で、私が着た礼装の刺繍、全部姉がしてくれたんですよ」

 嘘偽りのない好意のこもった言葉に、シウルの顔もほころぶ。

「へぇ、あれ一人で全部……すごいねたいしたもんだね。仲いいんだ」

「はい!」

「寂しくなったらいつでも言いなよ。お隣さんなんだから、こっそりちょっと帰っちゃっても多分平気だからね」

「ふふ、ありがとうございます。今のところ大丈夫です」

 マイラは種を植え終えた鉢を横に置き、新しい鉢を前にえて、ひとつ、息をついた。深呼吸とも溜め息ともとれる。


 思い出す。


 姉が刺繍をほどこして、母が仕立ててくれた、美しい祝いの礼装。

 幸せになるようにと言って、用意してくれた。


 トウキは、滞在していたアデンからマイラのことを、恐らくマイラが想像している以上に聞いていたのだろう。

 だから作業の邪魔にならない耳飾りを夫婦の揃いのものとして用意してくれていた。

 いろいろな事情が噛み合っていたとはいえ、それでも準備を万全に整えて、妻にと望んで迎えてくれた。それなら応えたいと思った。


 幸せになるのなら、一緒がいい。


 最初から上手くいくだなんて思ってはいなかった、が、それなのに、こんなつまずき方をしてしまっている。


「……旦那様のお顔の傷、もっとひどいのかと思っていたんです。あ、たいしたことないって言いたいわけじゃなくて、その……直前に体の方の痕も見ていたので、視覚的には予想できてた、というか……でもあれだけ隠していたから、見せたくなかっただろうなって……」

「うーん、はは、そっかぁ」

 鉢の土の上を手でならしながら、シウルは苦笑した。落ち込んで、笑って、また落ち込んで、感情豊かな若奥様は見ていて飽きない。

「……うん、まぁ、そうだねぇ。でもねマイラちゃん、実はトウキがああやって隠してるのは、うん……マイラちゃんがお嫁に来るって決まってからなんだよね」

「え」

「ビビりなくせに変に図太いもんだから、あれで意外と痕のことは気にしてないのよ。『こうなってしまったものは仕方ない』なんてそのままでいようとして、ゲンカ小父様に『対面する相手に心理的負担を与えてしまうから隠しなさい』って言われてね。だから、こう」

 左手で、トウキの顔の傷痕を示すように。

「いつもはこっち側、焼けてるとこだけ隠してたんだけど。マイラちゃんを怖がらせたくないって、わざわざあの仮面作って。その上布なんて被ってさ、大袈裟だよねぇ。お迎えに行ったときも、上から下まで鎧でしょ。そっちの方が圧すごいっての」

「え、え」


 わざわざ、自分の為に。

 怖がらせない為に。

 歩み寄りやすくする為に。


 首と胸の火傷痕を目にしていなかったら、少し驚きはしたかもしれない。が、いきなり焼けただれた顔を見たから恐怖を感じるかというと、そうでもなかったのではないだろうか。


 トウキ・ウィイ・アヴィロという人物がこれまでマイラに見せてきた姿は、誠実で、少し臆病で。


 そんな彼が怖いわけがない。


なんせ急ぎで作ったからね、合ってなかったんじゃないかなぁ。着けるときもまだ慣れなくてもたもたしてるし。……だからさ、」

 シウルの手がマイラの肩を抱く。

「マイラちゃんのせいじゃなーいよ」

 空の鉢の中に、しずくがぽたぽた落ちた。汚れていない手の甲で目元を拭う。

「いえ、やっぱり、私も、その、触っちゃったしっ……だから紐っ、多分緩くなっちゃっ……せっかく、気遣っていただいたのにっ、台無しにっ……あん、なっ、ふっにっ……」


 ありがたい。嬉しい。申し訳ない。

 複雑な感情が、涙腺からあふれ出てくる。


「もうちょっと、ちゃんと、見せてもらえればよかったのにっ」

「完全に事故だよしょうがないよ、カッコつけて慣れないことしたトウキの自業自得! ね?だから泣かなーいの」

「シウルさぁん」

 マイラがしがみつくのでシウルは受け止めてしまった。汚れてもいい格好をしているとはいえ、お互い土いじりをした手なので気になって仕方がない。先に肩を抱いたのはシウルの方ではあるが。

「あぁほら汚れちゃったねごめんね、とりあえずそれ植えちゃって一旦お湯入ろ、今日はこの後陛下のとこ行くとき着るの作らなきゃだし。大丈夫だよぉ、離縁なんて絶対ないよ。トウキ言ってたんだよ、いい妻を貰ったって。今はちょっと予想外のことで不安定になってるだけだからさ、ほんっと申し訳ないけど、ちょっと待ってやってくれるかな」

「全然っ、いい妻に、なれないですぅ」

「何言ってんの、まだお嫁に来たばっかりでしょ。これからなればいいんだよ、マイラちゃんなら絶対なれるよ、大丈夫だって。ね?」



 そんな奥様と侍女長の様子を物陰から窺う存在が二人いた。


「……だ、そーですよ、トウキ様」

「…………」

「いい加減戻ってあげたらどうです、泣いちゃってるじゃないですかかわいそーに」

「お前には関係ない」

 仮面の男は、気付かれないようにそっと厩へ向かう。僅かに露出した部分がほのかに赤くなっているのに一緒にいた青年は気付いていたが、そこについて突っ込むのは野暮かと口をつぐんで後に続く。

「可愛らしい嫁さんもらいましたね、羨ましー」

「黙れチュフィン」

「行って抱き締めてあげればいいのに」

 トウキが振り返らないまま指を弾いた。青年の目の前に顔と同じくらいの水のたまが現れ、直撃する。

「ぶぁっ⁉」

「黙れと言っている」

 上司の子どもじみた照れ隠しに、ウェイダ領国境警備隊副隊長チュフィン・ワバール・ロウはにやにや笑った。

「トウキ様かーわい☆」

「チュフィン」

「しっつれーしましたぁ」



     ◎     ◎     ◎



 今宵も、二人の寝所、広い寝台の上で、ひとり。

 シウルが湯上がりに髪や体に馴染ませてくれた青蜜花ラジュレの香油がやさしく香り、ついごろごろと寝返りをうって、漂う匂いを嗅いでしまう。嫁ぐ前はこんな手入れはほとんどしなかった。成程これが貴人の妻になるということか、と納得する。


 シウルやエシュたちアヴィロ家に仕える者も、国境警備隊の隊員たちも大丈夫だと断言していたが、それでもやはりマイラは少し不安だった。


(皆さん軽く考えすぎなのでは……)


 抱えた心の傷は本人にしかわからないのに。それなのに皆、口々に言うのだ。


「言う程繊細じゃないですよ全然ですよ、ちょっとビビりではありますけど」

「さすが元皇子様~って感じですね。やさぐれてるふうにしてるけど、結局根が真面目というか、大事に育てられた感すっごいというか……結構ふわっふわしてますよ、ふわっふわ」

「都行きたくない絶対行かないってのはしょっちゅう言ってますねぇ。駄々っ子かっての」

「あー、奥様の前でだけ猫被ってんですよ、言うことは言いますもんあの人。シウル姐さんと一緒に育ったんじゃ、そりゃ図太くもなりますって。そのうち化けの皮剥がれますから、あんま気にしなくていいですよ」


 アヴィロ家及びウェイダ領国境警備隊が現在の構成になったのは、トウキがウェイダに封じられたのと同時だというからまだ十数年。何か事情があったのか、人員の年齢層が全体的に歳若く、協力していこうと努力している。

 その甲斐もあってか、互いに信頼し、関係が良好であるのは見ていればわかるが、主人及び上司に対して少々容赦がなさすぎるのではないだろうか。


「んんん」

 枕に顔をうずめて考え込んでいると、そっと扉が開かれる気配がした。開扉かいひの合図がなく音を立てないように開け閉めされたということは、入室してきたのはくだんの旦那様らしい。マイラは息をひそめて寝たふりをする。

 寝台に自分とは別の重みのあるものが乗る。

 溜め息、ややあって、脇机に硬質なものが置かれる音が聞こえた。


 仮面を、取っている。


 今日は一緒に寝るのだろうか。ゆっくり、頭を動かして、髪の隙間から様子を見る。

 トウキはマイラの方に背向けて座っていた。項垂うなだれているようだ。

「こんなに焼けてるんだぞ……怖いし気持ち悪いだろう普通」

 何やらぶつぶつ呟いている。

「……泣くほどの、ことじゃない。何で泣くんだ。俺が勝手に隠したがって、やらかして、気まずくて逃げただけじゃないか。何で、……」


(落ち込んでる……)


 繊細な人だ、と再認識する。すぐ隣とはいえ自分が異国から嫁いできた者だから、余計に取り扱いに慎重になっている――それだけ、とは思えない。


「…………泣かせた……」


(すごく落ち込んでる……)


 全然繊細ではないとか図太いとか評されていたのも、どうにも信じられない。ちゃんと考えてくれているではないか。いや、やはりマイラに関することに限定されるのだろうか。


(私のこと、だけ?)


 それは彼をわずらわせてしまっている? 慣れないことをさせてしまって、だからこんなことに――


「ごめんなさいぃ」


 思わず飛び起きて、トウキの腰に回した腕にぎゅうと力を入れると、


「うわああぁああぁぁ⁉」


 絶叫。つられてマイラも


「ひゃああぁあぁ⁉」


 大声を上げてしまった。驚かれ、それに驚き、二人でどきどきしながら何とか精神の沈静化を図る。

「お、驚かす、な……」

「ごっごめんなさいっ」

 マイラは寝台の上に座ったが、トウキは背を向けたままだ。仮面を外しているから顔を向けにくいのだろう。

 深呼吸をひとつして、姿勢を正す。

「旦那様。こちらを向いてはいただけないのですか? ……やっぱり、見られるの、嫌ですか?」

「そういうわけじゃない」

「じゃあこっち向いて下さい」

「……こんな顔、」

「怖くないし気持ち悪くもないです」

 言い切ると、トウキも覚悟ができたのか、振り返ってマイラの前に胡坐こざする。たったひとつだけ灯された明りの頼りない光が、白い肌と赤黒い火傷痕の対照を際立たせた。


 夫婦は、共に互いを真っ直ぐ見つめた。しばしの沈黙が流れる。


 それを破ったのはマイラだった。


「痛みますか?」

 静かに問うと、

「いや」

 首を横に振る。

「おつらくないですか?」

「思い出すことは、いろいろある……が、傷は、別に……ただ、見た相手が驚くから、隠した方がいいと、言われて……」

「ほんとにそうなんですか?」

 詰め寄ると、トウキは一瞬きょとんとして、

「はは」

 笑った。低い、優しい声色。

 そして、

「今度は、誰に何を聞いたんだ?」

 詰め寄り返す。らさないマイラの目は強い。

「いろんな方に、旦那様のことを聞きました」

「何て、言っていた?」

「私の前では猫被ってるだけだ、近いうち化けの皮が剥がれるって」

「…………」

 トウキは、す、と身を引いた。かと思うと、気まずそうに黙り込む。

「旦那様?」

「……それは誰が言っていたのか詳しく聞かせてもらってもいいだろうか」

「チュフィンさんです」

 答えると、目を閉じて、

「殺す」

 何とも物騒な一言を小さく放った。マイラは目を丸くする。

「旦那様⁉ 今何て仰いました⁉」

「何でもない」

 目を開けてしれっと返す。聞き間違いだったのだろうか、いやしかし。


(もしかしてこれが……旦那様の化けの皮の下……!)


 意外な一面に、マイラは一層興味を引かれた。


 この方は、本当はどんな人なのだろう?

 これからもっと、違う顔を見られる?


 改めて姿勢を正したトウキは、ひとつ咳払せきばらいをしてから、頭を下げた。

「申し訳ない。その……取り乱して、心配をかけた」

「いえ、そんな、頭を上げて下さい」

「泣かせてしまった…………と、聞いた」

 実は見ていたとは言えない。しかし、

「えっ、やだ、なんで、もう、シウルさんんっ」

 マイラは知るよしもない。シウルが喋ったと思っているようだ。


 彼女が一人でおたおたするさまを、このひと月程で何回見ただろう。

 短い時間で表情が面白いくらいにくるくる変わる。

 それなのに、見ていると気持ちが落ち着く。


「本当に、怖く、ないのか」

「はい。……そんな、ことよりも、」


 手が重ねられる。

 武具や農具を握ることもあるというマイラの手は、爪が短く整えられてところどころ胼胝たこになった跡があり、貴族の子女の手という括りではお世辞にも美しいとはいえないが、やわらかさは残っているし、何よりあたたかい。


「お話できないのが寂しかったです」


 そう言って微笑む顔を見て、トウキは顔が熱くなるのを感じた。

 表情が見えないように僅かに俯く。髪を伸ばしていてよかったと、赤い髪でよかったと心底思った。


 小気味よい律動で、声で、繰り出される言葉は、何故か信に値すると感じる。



 「共に生きましょう」――言われた言葉を思い出す。



 きっと縁なのだ。



「すまなかった」

 再度、頭を下げると、

「明日、スニヤと一緒に湖の方へ連れていって下さったら許してあげます」

 そんなことを言うものだから、吹き出してしまい、顔を上げて目が合うと、二人で笑った。



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