第三話


「奥様、奥様! マイラちゃん!」

 侍女長シウルの呼び声が今日も響く。アヴィロ邸は屋敷は大きすぎず小さすぎずそれなりではあるが、何しろ敷地そのものが広い。ほぼ一日中忙しなく動き回る奥様――アヴィロ家の主の妻・マイラを見付けるには一苦労である。

「シウルさん」

 玄関の掃除を終えて用具を片付けようとしていた小柄な女中の少女が声を掛けた。

「奥様ならさっき町に行ってくるって出て行っちゃいましたよ」

「もう! また! すぐどっか行っちゃうあの子は!」


 ファンロン王家傍流の変わり者姫君マイラは嫁いで尚奔放であった。雪獅子ルイツとは別に飼っているトウキの馬を借りて、ちょくちょくどこかへ行ってしまう。

 しかしそれは、遊び歩いているわけではないらしい。


「ウェイダがどんなところなのか知りたいのです。領主の妻ですから」


 と、願い出たのをトウキが許したのである。但し、危険なことがないように、屋敷と町、そして農業地域周辺の、「人目につくところ」に限定している。山の方や森林地帯は賊や獣が出ることもある。


「何かあったんですか?」

「トウキが探してるんだよ」

 はぁ、とシウルは嘆息ながら頭を掻いた。

「この世の終わりが来たような顔してたから、多分あれ、都の誰かから嫁さん連れてこいって言われたんじゃないかな。リュセイかゲンカ小父おじ様かアルマト様か、うちの兄貴か」

「全員だったりして」

「あり得る」

 二人で笑う。

「旦那様、都に行かれるんですかね?」

「どうかなー……呼ばれても毎回何やかんや理由付けちゃ断ってるけど、今度ばかりは、ねぇ。わざわざ皇帝陛下に隣の姫様を嫁さんに貰いたいって直談判した手前、ちゃんと貰いましたって報告しないわけにはいかないからねぇ……」

「奥様一応お姫様ですもんね」

「あの子一応お姫様なんだよ見えないけどさ」


 そう、マイラは曲がりなりにもお姫様なのだ。


 隣り合ったクォンシュとファンロンは友好国ではあるが、これまでこれといった〝繋ぎ〟がなかった。条約は結ばれてはいたものの、二百年近く戦が起こらず関係を続けられていたのはほぼ奇跡ともいえる。

 そんな中でのトウキとマイラの婚姻は、両国にとって本当に「丁度よかった」のだった。アデンは母の身分が低いが王の甥、マイラはその娘なので、クォンシュの皇帝の従兄弟のところに嫁がされる人材として過不足ない。結婚する本人たちがお互いどんな人物であれ、くっつけてしまえば表向きは友好の証として機能する。


 しかし本人たちはというと、


「一応とは何だあれはちゃんと教育の行き届いた姫君だぞ」


 それはそれ、関係ないとでも言うように、日々少しずつ距離を縮めていっている。どちらの都からも離れた地のことであるので国の要人たちは知るよしもないが、夫妻それぞれの評判からこの事実を知れば誰もが驚愕するだろう。


「ひゃっ」

 後ろから声をかけられた女中が掃除用具を取り落とす。シウルは突然現れた主人に呆れた顔を向けた。

「ぬぼっと出てきていきなり声掛けるんじゃないよ。しかもその格好で」

 屋敷の主人は相変わらず仮面と頭巾で顔を隠している。こんなのに背後を取られれば大抵は誰もが驚く。

 トウキは少女に詫びた。

「……驚かせてすまないエシュ。わざとでは……」

「わかってますよぉ、大丈夫です」

 はぁびっくりした、と掃除用具を拾い上げる少女女中エシュに、トウキは床に転がっている洗って固く絞られた雑巾の塊数個を手渡した。

「マイラは……町、か」

「はい。種と苗がほしいって仰ってました」

「そうか。……チュフィンに少し遅れて行くと伝えてくれ、多分、まだうまやにいる」

 玄関の扉を開けて出ていこうとしたが、ふと足を止め。

「シウル。俺は都には行かないからな」

 振り向かぬまま不機嫌そうに言う。シウルは益々呆れる。

「マイラちゃんはきっと行こうって言うよ」

「絶対行かん!」

 勢いよく扉を閉めた。しかしシウルもエシュも慣れたもので、おびえる様子はない。並んで窓から主人を見送る。

「ほーんと困ったもんだね、うちの旦那様は。ゲンカ小父様も胃が痛いだろうなぁ」

「でも、奥様が来てからちょっと明るくなったと思いませんか? 顔の隠し方は……何か、前より大袈裟になっちゃったけど」

 マイラは活発ではあるものの、必要以上にトウキのことを詮索せんさくしようとしない。トウキも少し歳の離れた無邪気な妻のさりげない気遣いが心地よいらしく、以前よりも雰囲気がやわらかくなった、と家中でささやかれている。

「あぁ、あれは……」

 シウルは笑いをこらえた。

「せっかく来てくれたお嫁さんだからね、嫌われたくないんだよ。そのうち戻るさ」



 いくら領主が飼っているというのがよく知られていても、雪獅子は目立つ。そして、仮面を着けた上に頭巾を被った領主本人もとても目立つ。

 雪獅子の背に乗る領主の姿を見た領民は領主の噂を知っているはずだが、嫌そうな顔ひとつせず自然に挨拶をする。恐怖も嫌悪も感じられない。都の喧噪けんそうとは程遠い、のどかで豊かな地に住む民は穏やかなのだ。

「……ここは、いいな、スニヤ」

 とことこ歩く雪獅子が見上げて小さく鳴く。ふわふわのたてがみを手櫛でいてやると、気持ちよさそうな顔をした。

「そういえばお前は都を知らないか。……あそこは……」


 言いかけて、やめる。

 金属の仮面の冷たい感触がそうさせた。


「……そんなことより、今はマイラを…………う……いや、マイラが知ったら…………都……うっ……」

 背の上で一人狼狽ろうばいし始めた主を見たスニヤは、主と揃っておろおろし始めた。



     ◎     ◎     ◎



「成程。ではツァスマより少し涼しいウェイダでは、こちらの品種のお芋の方がよく育つ、と」

「味はツァスマ産には負けますけどねぇ。何しろしもが下りても全く枯れねぇし、獲った後も日持ちがいい。ビヤタと煮込むと美味うまいし」

「あっ、ビヤタ! いいですね! ビヤタもここで育てられますよね?」

 談笑。種苗しゅびょう店の店先にいるのは中年の店主夫妻とたった一人の客だけなのに賑々にぎにぎしい。何しろ客の若い娘が次から次へと質問をぶつけてくるので、店主も気をよくしてあれやこれやと豆知識を披露してしまうのである。

「ビヤタの種は……これだな。これも寒さには強いけど水をよく吸うから、土と水やりに気を付ければ大きめの鉢植えで年中獲れる。虫もほとんどつかないし、葉っぱ乾かして粉にして、パンに練り込むと麦鳥むぎどりの煮込みと合って酒が進むの何のって……なァ?」

 投げ掛けられた妻は、はいはい、と応えた。

「今日の献立は決まりだね。……でもね、今この人が言ったのほんとなのよ、ビヤタっていうとお芋みたいなとこあるじゃない? でもお肉にもすんごく合うの! 煮込んだお肉切ってパンに挟むと食べやすいから、領主様が忙しいときなんかに出してあげるといいよ、元気になるからね!」

「お肉……いいですね美味しそう……じゃあ、そこの鉢と一緒に下さい。あーとはぁ……何か、おすすめの葉物とか、あれば」

「葉物ねぇ……ちょーっと待ってて下さいねぇ」

 店の主人が奥に探しに引っ込むと、店主の妻がからから笑う。

「奥様ったら、そんなに買い込んで。あんなきれいなお屋敷の庭ぜーんぶ畑にしちまうつもりかい?」

 立ち話をしながら手帳に覚書きをしていた領主の奥様マイラは苦笑いした。

「好きにしていいとは言われましたけど、使わせていただくのは裏のほんの一画ですよ。あ、でも、薬草も、あとお花も……植えたいなぁ……」

「それなら温室でも作ってもらえばいいさ。見た目もいいし、育てられるものも増えるよ」

「温室! いいですね! 旦那様に相談してみます!」


 ウェイダの領民は、身分差を気にせず気安くも礼儀正しく接してくるマイラに対して比較的良好な態度を示していた。よく動きよく喋りよく笑う領主の奥様は、奥様というより「ちょっといいところのちょっとお転婆なお嬢さん」といった印象で、動きやすく汚れても気にならないようにと地味な装いをしているのと、〝お姫様〟という割に想像するような美形でもないが愛嬌のある容貌が抵抗感を低めているのかもしれない。

 彼女に関する噂も、彼女の父の言う通りウェイダにも伝わってはいたものの、それでも本国ファンロンの都のように「求婚者をこっぴどくやり込め追い払う」「剣を好み弓を担いで狩りに行っては大物を仕留める」などと無駄に立派な尾鰭おひれがついた状態では広まらなかったらしく、精々「隣の領主の娘はすこぶる元気がいい」といった程度だった。隣り合っているだけあって生活環境が似通っているからというのもある。辺境の山間やまあいの領地の民は、老若男女とも心身共になかなか逞しい。狩りを嗜む女性は流石にそうそういるわけではないが、馬に乗る程度では驚かないのだ。

 そんなわけなので、自ら馬を駆ってやってきては人懐こい笑顔で話し掛けてくる若き奥様は、嫁いできてひと月足らずで既に馴染み始めていた。適応力が高いのである。


「奥様、これなんかどうだね」

 苗を三つばかり入れたカゴを持って出てきた店主に、マイラの目が興味深そうに輝く。クセが少なく何にでも合わせやすい野菜だ。

「それはイスクー? ウェイダでも育つんですか?」

「お、よくご存じですねぇ……あっ」

「え?」

 店主と妻がぺこりと頭を下げる。

「花が、薬になる。うちの屋敷にはないが、植えている家もある」

 突如混じった低音。振り返ったそこにいたのは、見慣れた白い大きな獣と顔を隠した鎧の男。

「旦那様」

 見るからに陰気な存在を確認したマイラは、嬉しそうに夫の両手を取った。

「警備隊のお仕事ではないのですか?」

 国境に接する領地を持つ者は、国境の警備にも当たらなければならない。ゆえに武人が配されることが多いのだが、トウキがウェイダに封じられたのも、皇帝が自ら任命するという剣士隊の一員であることが理由のひとつである。

「これから行く。今回は……帰るのは、明日の夜になる。その、屋敷のことは、頼む」

「はい」

「……それから、」


 ひやり。


 古傷に。


 そのまま固まってしまったトウキを、マイラが覗き込む。

「だんなさま?」

「あ、……いや、その……」


 ひと月足らずでだいぶん親しくなれてきている、と思うのだが、この反応は、ときどきある――確か、婚礼の日のときも。


「……急ぎのことですか?」

「え、あ……や、どう、……だろう、な。いや、早い方が……いいのかも、しれない、が」


 きっと、今の彼の根幹にある何かに関すること。

 少しでも、この方の気持ちが和らぐように。

 

「わかりました。では、お帰りになってから、お話しましょう」

「……ああ」

 指先が、ぎゅっと握られたあと、ゆっくりほぐれるように離れる。

「行ってくる」

「行ってらっしゃいませ、無事のお戻りを。スニヤも、気を付けてね」

 あおい鬣を撫でるマイラの手にスニヤが額を擦りつける。見た目に反して甘えん坊だ。もっともっと撫でてほしいとマイラに求めているところを腰を下げさせて跨がると、トウキはスニヤを促した。

「行こう」

 声を掛けると素直に数歩下がり、勢いを付けてとっ、と駆け出した。髪が舞いなびくほどの風を残して、あっという間に小さくなっていく。

 

 その後ろ姿を、しばらくマイラは見ていた。

 何があったのだろう。


 すっかり見えなくなってから、はっと我に返る。

「……あ、あっ、そうだ、代金代金……あの、お願いしたもの、取り置きしてもらってていいですか? 明日、台車を借りてまとめて取りに来ますね」

「あら、いいですよぉ今暇な時期だしこの人に持って行かせますよぉ。明日の、お昼前でいいかい?」

「いいんですか? ありがとうございます、お願いします!」



 その後珍しく、マイラはぼんやりしていた。

 いつもなら寄り道して遅くなりシウルに叱られるところだが、どこにも立ち寄ることなく、馬上で思考を巡らせる。


(旦那様……)


 一体、何を、どこまで聞いていいのだろう。


 ひと月近く経っても、寝所では特に何もない。否、それは個人の心持ちの問題もあろうし、もしかしたらそもそもとこでのことが好きではないのかもしれない。そういうこともあるだろうとマイラは思う。

 そんな中、ほぼ毎日同じ寝台で隣り合って横になり、少し語らって、眠りにつく。自分ばかりが話してしまっているが、トウキは――少なくともマイラが見た限り、ではあるが――義務感からマイラの語ることを聞いているわけでもなさそうだし、嫌がっているふうでもない。

 それでも未だに、トウキは顔を隠したままだ。


「私が寝た後取ってるのかな……起きるのも私より早いし……顔……そんなに……」


 怪我をしたのは十数年前。痕は残っているのだろうが、傷そのものはえているはずである。


 隠し続けるのは、それほどひどい傷痕で、見せたくないのか。

 それとも、


「……心の、方も、か。んー……」


 別に顔を見せてもらえなくてもいいのだ。問題はそこではない。

 ただ、自分にとてもよくしてくれている夫が時折苦しそうなのを、マイラは何とかしたかった。


「とりあえず、お戻りになったら、好きなものいっぱい食べていただいて……肩とか足とか、揉んで差し上げよう。うん、がんばろ!」



 自分にできることを、少しずつでも。



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