新婚編
第一話
赫き龍の国クォンシュの雪獅子公トウキ・ウィイ・アヴィロといえば、有名な人物であった。乳兄弟で従兄にあたるクォンシュの現皇帝リュセイ・トゥガ・クォンシュとは帝位をめぐって争った関係にあり、十数年前の権力闘争の際に大怪我を負った後、
そんなトウキにマイラが嫁ぐことが正式に決まったのは、クォンシュの隣国ファンロンの、クォンシュとの国境に接する緑多き地ツァスマを領地として治めるファンロン王弟の妾腹の子アデン・シェウ・ロガナ・ファンロンがトウキを伴って帰ってきた翌々月のことだ。
ウェイダ領とツァスマ領は、領地的には川一本を挟んだ〝お隣さん〟ではあるのだが、国境を越えた異国の地である。しかも片や臣に落とされたとはいえ元々は
それゆえにトウキとマイラの婚姻が決定するまで少し時間がかかったのだが、とはいえこれは国の要人に近しい者であることからの「形式上」のもので、許可自体はあっさり下ったのだと語るアデンに、嫁入り道具を確認していたマイラは笑った。祝いの日は近い。
「扱いに困る
「口が過ぎるぞマイラ。お前が行き遅れなのは確かだが」
ごめんなさい、と肩をすくめつつも、マイラの顔から笑いは消えない。
「でも私が行き遅れたのは父上がいいお話を持ってきて下さらなかったからじゃないですか。
「ウリューカをお前と一緒にするな」
「まぁ、姉様は
マイラにとっての劣等感のあらわれというわけではない。寧ろマイラは姉の美しさと愛らしさを常に自慢していた。マイラ自身も目鼻立ちが悪いということはなく、装いが装いであるなら少年のようにも見えてしまうが、長い髪は美しい。
「そうじゃない、お前が……いや、お前を甘やかした私の責ではあるが、しかしだな、お前はその、……いろいろやり過ぎだ」
過去に潰された縁談を思い出したか、アデンは大きく嘆息した。
「三度も
マイラは貴族の娘にしては少し、いや、だいぶん変わっていた。
最低限己の身を守れるようにと剣や弓の腕を自己流ながらに
これはアデンの許容のせいでもあった。本人は甘やかし過ぎたと言うが、甘やかしていたというよりも、娘の好奇心と勤勉さをわざわざ封じることはあるまいとしただけのことで、「婦女の
しかしアデンの妻――マイラの生母が病没したのと同じ時期に、アデンとその妻の幼馴染みも同じ病で夫を亡くし、娘がいる者同士互いに
ファンロンは女子が家を継ぐという事例も歴史上たびたびみられる国ではあるが、男子がいればよほどのことがなければその子に継がせることがほとんどだ。そのため、弟が生まれたことにより「マイラがツァスマを継がなければならない」という理由はなくなったのだが、それでもマイラは、それまで通りに文武の道や馬の扱いや野良仕事、それだけではなく、ちゃんと裁縫や料理、花の
そんな領主の娘を見た領民は、毎日
「私もいずれはどなたかに嫁ぐ身。シェウの家の為に、一緒になった殿方の為に、いろいろ考えてできるようになっていたいのです。どこで何があるのかわからない世の中ですから」
そんな利発な彼女であるから、アデンが縁談を持ってきた際には、その相手を試した。
一人目には罪人と裁きについての議論を、二人目は共に狩りに出てその腕前を。
三人目は既に文官としての地位を築き始めた家柄も見目もよい生母方の親戚の若い男で、噂を聞いて対策を立ててきたのかなかなかいい線までいったようにみられた――のだが、最後の最後で調子に乗ってしまったのか、マイラに手を出そうとして逆に腕を
それに
「お
もちろんそれはマイラも
「何故、私を雪獅子公に嫁がせようと?」
「それは、その……」
「言いにくいことなのですか?」
「いや、そんなことは……ない、のだが」
明らかに言いにくそうだ。マイラは
「もしかして……何か弱みを握られたとか?」
「そうじゃない。その……トウキどのには、命を救われて、だな……」
「命を」
「大雨が、降っただろう? それで、渡る寸前にウーリュン川の橋が崩れて……引き返そうとしたところで賊に襲われて……そこを、通りかかったトウキどのに……助けられて……」
「何故それを早く言わないのですか!」
マイラは驚き呆れた。
「それならあのとき引き留めてちゃんと御礼を」
「いや、しかし、それは望んでいなかったから」
「そういう問題ではありません! ……もう、父上ぇ……はあぁ……もー」
顔を覆って溜め息をつく娘に、アデンはおろおろしながら言い訳を始めた。
「あの、だからな、マイラ……礼とかそういうのはいいから、是非娘を妻にと……そう、望まれて、だな……」
「私のことをご存じだったのですか?」
「そりゃあ、ここから離れたファンロンの都にまでお前の名が聞こえてくるくらいだ、すぐ隣の領地ではそれよりも早く耳に入ろう。民の口に戸板は立てられないからな」
「やだ、恥ずかしい、そんな」
このお
しかし考えてみれば、かの雪獅子公も三十路手前のいい歳である。きっと周囲に妻を
(なるほど、多少は頭の回る男のようだ)
あるいは、ある意味気難しいマイラのお眼鏡にかなうか。
とはいえ、よりによってクォンシュのトウキ・アヴィロがよりによってマイラを求めるとは。何故こんなことに。不安しかない。アデンは胃が痛くなりそうだった。
「経緯はわかりました」
マイラはふぅ、と軽い溜め息をつく。
「つまり『正直厄介者に嫁がせたくはなかったけど断れなかった』のですね」
「う」
図星を突かれて言葉に詰まる。同時に胃がしくりと
「……それで、実際どうなのです父上」
アデンは困惑した。
「どう、って」
「雪獅子公は噂で聞くような怖い方なのですか?」
いつもではなさそうだが、
それを幼獣の頃から育て上げて現在相棒にしているというのが「とても人の
「そこか?」
アデンは益々困惑した。恐れるものなどほとんどなさそうなこの娘がそんなことを言うとは意外だったのだ。
そうですよ、と新しく仕立て上がった衣を持ってきたアデンの妻ルゥナが同意する。
「怖い方では困ります。しょっちゅう縮み上がらせられていては心が休まりませんわ。そんなところにマイラを嫁がせるだなんて」
「姉上はウリューカ姉様と違って強いから怖がらないと思うよ」
荷物整理を手伝いながらにやにや笑う息子ドウジェに、ルゥナはこら、と
「いや、その……トウキどのの、顔のこと、とか、は、気にしないのかと」
そういえばずっと
「それは……」
少し、思案して。
「気にならないといえば嘘になりますけど。でも、大きなお怪我をなさったと聞きます。あの場でもお詫びの言葉をいただきましたし、離縁されない限りはこれから長く
「……そうか、なるほど、そうだな。……うん、直接話したのはほんの少しだったが……そのときに限れば、怖い方ではなかったよ」
「それはよかったです。怖い方では、仲良くなるのが難しいかもしれないですものね!」
にこにこと笑う。
「ウェイダはお隣ではありますがあくまで異国、つまりこの縁組は国際政略結婚。私も両国の繋ぎとしてあの方と上手くやっていかねばなりません。ファンロンとクォンシュの安寧のため、そしてお話をいただいてきた父上の為にも!」
何やらやる気満々だ。己に課せられた大きな使命に心
それが顔に出ていたのか、マイラは笑った。
「父上。大丈夫ですよ」
「……根拠は」
「ありませんけど、多分大丈夫……な、気がするんです」
白銀の甲冑と神が愛する美しい獣という組み合わせはあまりにも神々しく、今でも鮮明に思い出せる程に強く記憶に刻まれている。
しかし、父を屋敷の前まで送ってくれた隣国の貴人の声は、元逆賊というにはとても優しく、穏やかに聞こえた。
確かに武装していたが、威厳はあったが、威圧的というよりも――
(何だか、奥ゆかしい方のようだった)
きっとそういう縁なのだ。
ふた月も前にたった一度だけ初めて会った、しかも顔さえ知らない相手ではあるが、マイラはまた会えるのが、彼の元に嫁げるのが、楽しみになった。
「ふふふ」
「マイラ。くれぐれもトウキどのを試すような真似は」
「しませんよ。それで破談になったら国際問題じゃないですか」
「わかっているならいい」
マイラ・シェウがトウキ・アヴィロに嫁したのは、それより五日後。
嫁入り用にしつらえた調度品や花嫁の私物、また花嫁自身が賊に狙われぬようにとウェイダ側から迎えが寄越され、しかも花婿本人も何故か甲冑姿で雪獅子を連れてついてきてしまい、通常よりも物々しいまるで要人警護のような花嫁行列であった、と後の歴史書は語る。
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