水の精
原ねずみ
水の精
雨が降っている。もうずっと長いこと。
激しい雨が降るわけではない。ただ、しとしとと細かい雨が、降ったりやんだりを繰り返しながら、長い間続いている。空はいつも厚い雲に覆われている。
美月は最近、憂鬱だった。
雨がやまないから。外が暗いから。道路にはいつも水たまり。それをよけるように歩く。けれどもそれだけではない。
なぜだか気分が重いのだ。家の中がぎすぎすしているからかもしれない。
お父さんの勤めている会社が、いまいち上手くいっていないという。お母さんがわけもなく疲れている。三つ下の弟が意味もなく癇癪をおこす。
家の中だけじゃない。その外も――つまり世の中というものも、おかしいのだ。ちょっとずつ、少しずつ、何かが上手くいかなくなっている。
――――
「それ」を最初に見つけたのが誰だったのか、そこはよくわからない。でも「それ」はいつの間にか美月の周りで話題に上っていた。最初はたぶん、男子たちから。
「おまえ、あれ見た?」
誰かが誰かにそっと聞く。真面目な顔で。そうしたら聞かれた方も真面目に答える。
「見た。ほんとに気持ち悪い」
「それ」は通学路によくいるのだという。「それ」。「それ」はたぶん、生き物。動くから。でもなんという生き物なのか、誰も知らない。
形はなめくじに似ているのだ。けれどもなめくじよりずっと大きい。といっても掌に収まるほど。色は透明。身体の中が透けてみえる。身体の中は不思議なことに何もない。胃も腸も心臓も脳みそも。
ただ、液体のようなものだけがそこにつまっている。
身体のはしには黒くて小さくて丸いものがふたつついている。たぶん、これが目なのだろう。ただただ真っ黒の目。感情というものからはほど遠い目。
この不思議な生き物がいつ頃からか、通学路で目撃されるようになったのだ。捕まえたものは誰もいない。この生き物はとても素早く逃げてしまう。
一度だけ、それを棒でつついた者がいるという話を聞いたことがある。
「つついたら、すぐ割れちゃったんだって」その話をしてくれた友だちの祥子が、嫌そうな顔で言った。「そして中の水みたいなものが溢れてきて。後には皮と目が残ったんだって」
本当にそんな生き物、この世にいるのだろうかと思う。けれども美月自身も見たことがあるのだ。
やはり通学路でのことだった。海沿いの通学路。通学班のみんなと一列に並んで、雨の中を帰っていたときのこと。目の端をよぎるものがあった。
気になってそれを追いかけた。一瞬だけ、ほんのわずかにそれを視界にとらえることができた。透明の、なめくじのようなもの。
小さな丸い目のある生き物が、するすると堤防をのぼって、海の方へと消えていく。
――――
美月の身の回りだけでなくて、世界そのものも、おかしくなっているように思う。どこか遠い小さな国同士で起こった戦争が、いつの間にか、少しずつ、世界に拡大しつつある。
そのうちこの国も巻き込まれると、テレビで偉い人が言っている。でもそうじゃないと言う人もいる。どちらが本当なのか、美月にはわからない。
戦争について、つまり、国際情勢という難しいものについて、美月たちの同級生でそれをはっきりと理解しているものはいないようだ。けれどもそれについて語りたがる子はいる。
「俺さ、あのへんてこな生き物と、戦争って、なにか関係あるんじゃないかと思うんだ」
同じクラスの康太が言う。真面目な顔をして。細くてすばしっこい、いつもはふざけてばかりの男の子だ。でも今は妙にかたい表情をしている。
「どういうこと?」
祥子が尋ねる。康太は言った。
「何か……何かたぶん、新しい兵器みたいなものなんだよ。あれが……悪いウイルスをばらまくとか……」
祥子が笑い出した。美月も笑ってしまう。でも康太は笑わず、不満そうだ。
笑いながら祥子が言う。
「兵器だとして、なんでそんなものがここにあるの? まだこの国では戦争が始まってないのに」
「それは……」
言いよどむ康太の横から直文が口を出した。メガネをかけ、真面目な直文。おそらく中学はみんなと違う、賢い子どもたちの行くところに進むのだろう。
「戦争は始まるよ。近いうちに。でもあのなめくじが、兵器かどうかは知らないけど」
直文はメガネの奥の瞳を光らせて、さらに言った。
「最近の兵器はもっとすごいんだよ。一瞬で、たった一つの爆弾で、全てが終わってしまうんだよ」
「でも、そうだったら、今の戦争ももう終わってるんじゃないか?」
康太の指摘に、直文はきっぱりと答えた。
「そんな強力な兵器を持っているのは大国だけなんだよ。今は小さな国しか参戦していないから。でも大きな国が出てきたら、わからないね」
美月は不安になってきた。社会の授業で習った、防空壕の話が頭をよぎる。たしか――穴を掘ってその中に隠れるんだっけ? 空を飛ぶ、敵の飛行機。雨のように落ちる爆弾の音。
でもそんなに恐ろしい爆弾なら、防空壕なんて役に立つの?
美月のクラス担任の戸田先生は、戦争の話を嫌う。先生も少し変わってきつつある。30代の男性の先生で、前は明るく大らかだったのに、今はなんだかイライラしている。
クラスの子が戦争のことを尋ねると、教壇で、戸田先生はきっぱりと言う。
「この国が戦争に巻き込まれることは、絶対に、ない」
雨続きで昼でも暗い教室には、いつも蛍光灯が点っている。古い蛍光灯に照らされた先生の顔色は普段よりずっと悪く、くすんでみえる。
大人たちは何かを隠している、と美月の友人たちは思っている。
あの変な生き物だって、大人は誰も見たことがない、というのだ。そんなことはない、と子どもたちは思っている。子どもたちのなかで、あれを見たものは大勢いる。
あれが、どんなに逃げ足が速くても、大人たちの目に映らないなんてことは、決してないのだ。
――――
ある夜、美月は唐突に目を覚ました。のどが渇いていた。お茶でも飲もうと、一階に下りる。
弟とつまらないことでけんかして、変に疲れていた。一階では食堂に灯りがともっている。もう遅いのに。
お父さんとお母さんの声が聞こえる。低く、短く。言い争っているみたい。美月は食堂に入ることができなかった。忍び足で素早く、自分の部屋に戻る。
耳にふたができたらいいのに。お父さんとお母さんの言い争いなんて、聞きたくない。
次の日もまた雨だった。窓辺の席で、美月はぼんやりと授業を聞いている。窓の外には校庭が見える。海辺の小学校なので、その向こうは、海だ。
昨夜はよく眠れなかったので、眠気がおそってくる。静かな教室。細々と降る雨。先生の声だけが響いている。美月はいつしか、うつらうつらしていた。
海が、少しずつ膨れ上がっている。夢を見ているんだ、と美月は思った。曇り空を映して、暗い海が、次第にその面積を増やし陸ににじり寄っていく。校庭には水たまり。その水たまりも絶え間なく落ちる雨を吸って、大きくなっていく。
海の水が校庭に這い上り、次々に水たまりの水と一つになっていった。校庭が海に呑まれていく。水はたちまち校庭を満たし、校舎にも迫る。
みるみるうちに一階が沈んだ。そして美月たちのいる二階の教室。足元まで水がせりあがってきた。先生も、生徒も、誰も騒がない。授業が続いていくだけ。おやおやと思っているうちに、美月の全身が水の中に沈んでしまう。
けれどもちっとも怖くなかった。息苦しくないのだ。美月は水の中を泳ぎ、自分が魚になっていることを知った。
見ると、先生も生徒も、みな魚になっている。教室は溶けたかのように消えている。机も椅子も黒板も、何もない。
美月は楽しい気持ちで泳いだ。なんて自由。私はもともと魚だったのかも。先生たちもひらひらと楽しそうに泳ぎ回っている。……。
……あれ。あれはほんとに魚かな。
美月は目を凝らした。魚ではないような気がする。
魚ではなくて――。何か別の生き物。透明の生き物。名前もわからない、それは……。
なめくじに似てて、透明で、中に液体が入っている。黒い目をしたそれは……。
いつの間にか、美月の周りにはその生き物がいっぱいいた。そして、黒い、感情のない目で、美月をじっと見つめた。
――――
美月は恐怖にかられて目を覚ました。……いつもの教室だ。
ほっとして、椅子に座り直す。変な夢を見てしまった。先生は私が居眠りしてたことに気づいてるかな? 大丈夫。気づいていないみたい。
夢だったことに安心する。けれども、怖さがなくなったわけではない。心臓がどきどきしている。早く悪い夢を追い払わなくちゃ。
忘れてしまわなくちゃ。あれはただの夢だったのだし。
下校時間になった。今日もいつものように、通学班で一列になって帰る。
雨の中、傘を差して。一列になって、黙々と歩く。
前はこんなことはなかったのに、と美月は思う。前はもっと明るい雰囲気があった。なのにどうして、いつから変わってしまったんだろう。
通いなれた通学路。もうこの道を六年も通っている。毎日同じ道。それなのに――今では何かが違う道。
美月は先頭を歩いていた。堤防の傍を、緩やかなカーブを歩いていく。と、その時、悲鳴が聞こえた。
美月は振り返る。女の子の一人が悲鳴を上げたのだ。彼女の周囲には、あの奇妙な生き物。
一匹、二匹どころではない。どこから現れたのか、うじゃうじゃと何匹ものその生き物が、道に、堤防に、群がっている。
子どもたちが逃げていく。美月も逃げた。家を目指して。
傘はいつの間にかなくなっていた。水たまりもよけずに走っていく。靴の中に水がしみるが、そんなことは気にならない。
美月は走った。ただただ家に向かって。家にはお母さんがいるから。お母さんのところまで辿り着けば大丈夫なはず。
懐かしく、頼もしい、安心できる我が家が見えた。美月は玄関の扉を開く。
「お母さん! お母さん!」
叫ぶと、すぐにお母さんが出てきた。美月はその腕に飛び込んだ。
「どうしたの?」
お母さんの声が聞こえる。美月をぎゅっと抱きしめる、温かい腕。美月はお母さんの身体に顔を押し付ける。
「何かあったの?」
お母さんが尋ねる。心配そうな声。それは優しくて、美月が聞きなれたもので、今一番聞きたかったもので――……。――でもお母さんの声ってこんなだったっけ?
どこか遠くから聞こえてくるような気がするのだ。遠くというよりも、何か障害物があって、そこを通って聞こえてくるような気がする。柔らかい何かを、通したような声。
お母さんの身体も違う。これも妙に柔らかい。柔らかすぎるようだ。
美月は顔を上げた。
お母さんの顔を見る。けれどもそこに顔はなかった。
いや実際にはあったのだけど、それは知ってるお母さんの顔ではなかった。透明な、中に水が入っている丸い物体。そこに二つぽつんとついている黒い目。
その目が、じっと、美月を見ていた。
水の精 原ねずみ @nezumihara
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