第1話 迷子の旅人

「——てば……ね……え——…………ちょっと! 聞いてんのルクス!?」


 手元の地図を穴が開くほど凝視していたときだった。すぐ後ろから大声がすると、次いで肩を思いっきり引っ張られ、ルクスはハッとして顔を上げる。

 白い面と黒い線の世界から一転、青々とした木々や草花が飛び込んできた。

 視界はたちまち吸い込まれそうなほど深い緑一色に彩られる。手元には手綱を握る己の片手と、目前には荷馬車を引く馬の尻尾が揺れていた。

 暖かな陽光と全身を撫でるよそ風、そして荷馬車の振動に車輪がガラガラと小石や砂利を軋ませる音が心地いい。

 だが依然として肩を掴む力は力強く、ぐいっと後ろに引っ張っていた。ルクスは抗うこともないまま力に従って後ろを振り返る。

 鋭く視線を向ける少女がこちらを睨んでいた。

 その表情はいかにも不満げで、目元は文句ありげに吊り上げられる。真剣な顔つきにルクスは深刻なものを感じると、落ち着き払いながら少女に問うた。


「どうしたシア。問題発生かっ?」

「だから道に迷ったことが問題だってさっきから言ってるでしょ!」


 噛みつくような勢いで怒鳴ると、シアはダァン! と荷馬車の床を叩いた。

気を張っていたルクスはすぐに緊張を解くと、たいしたことない理由に息を吐く。


「なんだ、そんなことか」

「いやあんた、たいしたことなさそうに言ってるけどね、この場所通るの30回目よ!? もう30回も同じ場所ぐるぐる回ってるの! わかるこの異常さ!?」

「どうした、そんなに取り乱して。普段のお前らしくないぞ。それとも始めて来た森の中で不安になっちゃったか?」

「そりゃなるでしょ! 私たち、もうかれこれ5時間も森の中彷徨ってんのよ!? もう自分たちのいる位置も把握できないのにいつまでも地図見たって仕方ないでしょ! しかも目的地が、あんたが一度も行ったことのない場所だったなんて……こんなことなら最初から私が地図持っとけばよかった……」

「目印になるものがあるかもしれないだろ。片時も目が離せない」

「だったら周りを見なさいよ! 馬だってもうへとへとよっ? しかも休憩の度に馬に水飲ませて、私たちの分がすっからかんじゃない! どうすんのよ!?」

「む」


 言われて荷馬車の中で転がっている空になった二つの水瓶を見る。元々長距離の移動を想定していなかったため飲料は多く積んでいなかった。シアは涙目で嘆く。


「食料だって、そう遠くない距離だしお昼前には着くと思って、1日分しか持ってこなかったのよ? このまま森から出られなかったらどうするのよぉ……」

「安心しろシア。お前は俺の大事な幼馴染だ。シアは俺が守る」

「いや迷子になった張本人が言ってもかっこよくないから! ていうか依頼の方は大丈夫なの? 絶対大遅刻じゃないっ」


 ツッコみながらシアは青い顔で指摘した。ルクスは一度荷馬車を止めると、懐から依頼内容の書かれた紙を取り出す。そして落ち着き払って答えた。


「そこは問題ない。今日の目的は聞き込みと調査がメインだからな。本来魔物や魔獣の少ないこの地域で、ここ最近魔獣の目撃情報や襲われたって話が多いらしい」

「時間のロスが大きいって言ってんの。実際厄介そうだしね。私もここまで来て実感するけど、やっぱりこの辺怪しいわ。……こんなに自然豊かなのに、鳥一匹いない」


 長時間座っていて体が鈍ったのだろう。シアは荷馬車が止まると一度外に出て、大きく伸びをした。それから訝しげに周囲を見渡す。


「魔物や魔獣は魔力量に比例して誕生するっていうけど、何回調べても、この辺の魔力は街と比べてかなり少ないのよね。湧いてもせいぜい小物が数匹程度だわ」

「理由がわからないからこそ警戒が必要だ。調査のときもなるべく二人一緒に行動した方がいい。シア、俺の傍から離れるなよ」


 シアが傍に来てそう言うとルクスも荷馬車から降りて忠告した。それこそ命に代えても守るとでも言いたげな言動に、シアはにやにやと笑みを浮かべてからかう。


「あーそうねー。二人一緒じゃないとー、どっかの誰かさんがー、今度は一人で迷子になっちゃうかもしれないしねー」


 5時間も付き合わされた腹いせなのだろう。シアは意地悪な笑みを浮かべてルクスを小ばかにする。真面目に取り合わない様子にルクスは気持ち眉を寄せた。


「おい、俺は冗談で言ってるんじゃないぞ」

「はいはーい、わーかってるってーぇ。私はあんたと違って方向音痴じゃ——」

「シアっ」


 いつまでもからかうシアに、ルクスは真剣な声音で華奢な肩を掴んだ。少々強引にこちらに向かせると、驚きに見開かれた瞳を至近距離でじっと見つめる。


「真剣に聞いてくれ。俺はお前を失いたくないんだ」

「なっ!?」


 突然告白めいたことを言われ、シアは大きく口を開けた。

 ルクスは自分の気持ちをわかってもらおうと、荷馬車の方にシアを追い詰める。動揺に揺れる目は更に大きく見開かれ、顔はみるみる赤くなっていった。


「なによりもシアが大事なんだ。俺にはお前しかいない。頼むから俺から離れないでくれ」

「ちょっ、近いってルクス! 顔めっちゃ近いから!」

「シア……」


 なかなか首を縦に振ってくれないシアに、ルクスは瞳を潤ませると、どれだけ自分にとって彼女が大きな存在であるかを示そうと、シアの頬にそっと手を触れた。

 そのまま真っ赤な様子であわあわするシアに、ルクスはそっと顔を近づけていき——


「うわあああああああああああああああああああ!」


 突如、どこかから悲鳴が響き渡った。


「敵か!」

「へ?」


 ルクスは後方を振り返ると、荷馬車とシアをその場に放置して悲鳴の方へひた走る。

 置いてきぼりにされたシアはぽかんとすると、棒立ちのまま硬直した。


「うわああ! 嫌だ、誰か助けてぇ!」


 道なき道を行き、木々の間を駆け抜ける。助けを求める悲鳴はそう遠くなかった。ルクスは腰に携えた剣を確認すると、いつでも抜刀できるよう柄に手を添える。

 幸い絶叫は断続的に響いていたため、道に迷うことなく突っ込んでいけた。景色が後ろに流れる度に叫びは大きくなり、現場が近いことがわかる。

 もう一度悲鳴が上がる。今度は真横から響いた。ルクス視線を向ける。

 目前にそそり立つのは一本の木。

 そして通り過ぎる寸前だった。こちらに背を向け、そのまま地面に尻もちをつこうとしている少年の姿を捉える。木を通り過ぎると今度は四足歩行の魔獣が現れ、鋭い牙の除く口から唾液を飛ばし、今まさに少年に飛びかかったところだった。


「伏せろ!」

「ひっ!?」


 突然背後から怒鳴られると、少年は理解する前に無我夢中で頭を抱えて引っ込めた。

 一瞬後には臀部に走る鈍い痛みと、ザクっという湿り気を帯びた生々しい音が響く。次いで動物的な短い呻きが響いて場が静まる。少年は恐る恐る顔を上げた。

 顔面に剣が突き刺さった魔獣の相貌が目の前にあった。

 額に剣が貫通したことでその顔は酷く歪み、目が少し飛び出していた。半開きになった口からは長い舌がだらりと垂れ、赤黒い血と唾液の混ざった体液が両足の間に滴る。


「ぎいぃぃぃぇええええああああああああああああ!?」

「どうした、どこか怪我でもしたのか? 傷を見せてみろ」


 と、剣に突き刺した魔獣を少年の目の前からどかさぬまま問うルクス。

 当然目前にそんな恐ろしいものを突きつけられていたら、まともに応えられるはずもない。少年は今にも卒倒しそうな勢いのまま、青い顔で譫言を発しながらがくがく震える。


「ひぃぃぃっ!? ひ、あ、ああっ……!」

「おい、喚いてばかりじゃわからないぞ。……いや、まともに喋れないほど傷が痛むのか——」


 ルクスが少年の状態を見ようとしたときだった。背後からガサリと音がする。

 振り返ると、光沢の消えた冷たい目でこちらを見つめるシアが茂みから出てきた。


「どこに行ってたんだシア。傍を離れるなとあれほど言っただろ」


 早速忠告を破ったことにルクスは注意した。するとシアはぐっと奥歯を噛んで力強く拳を握る。目を瞑って眉を吊り上げ、なにかに耐えるように肩を戦慄かせた。


「……んた、が……」

「? 聞こえないぞ。もう少し声を大き——」

「あんたが私を置いて先に行ったんでしょうがああああぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」


 シアが怒りを爆発させると、広大な森林に怒声が木霊した。

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