湖上のクトゥ君
マサユキ・K
第1話
そいつは水槽の中でプカリと浮いていた。
水槽といっても大きさが半端じゃない。
ジンベエザメなら優に数十匹は入るだろう。
縦横に連結した水中トンネルの末端がこの巨大な水槽だった。
ここは滋賀県の「琵琶湖」。
言わずと知れた日本で最大の湖である。
いつからかここに湖上テーマパークが開園した。
最大の呼び物は湖中に設けられた水族館で、中でも人気はクトゥルフと呼ばれる新種の深海生物だった。
来園者はその異様な風貌を一目見ようと連日列をなした。
蛸の様な頭に蛙を思わせる身体、背中には蝙蝠の羽に似たヒレが生えている。
そして何より驚嘆すべきはその巨体である。
十メートル以上はあろうかという水槽に、ほとんど身動き出来ない状態で収まっている。
深海では水圧の関係で巨大化しやすいと言われるが、これは度を越していた。
およそこの世のものとは思えぬ姿に、人々は驚愕し畏怖した。
きっかけは一人の幼女が遊び半分で水槽のガラスを叩いた事だった。
片言で語りかける幼女に、その生物は反応を見せた。
首元でうねる触手の一本がするすると伸びると、幼女の前のガラスを叩いた。
面白がった幼女は更に叩く。
するとそれに呼応して生物がまた叩き返す。
一種の会話らしきものが成立した瞬間だった。
その日を境にガラス越しの会話が「売り」となり、爆発的に人気が跳ね上がった。
何せ、未知の生物と意思疎通が図れるのだ。
誰もが興味を惹かれた。
呼称がクトゥルフから「クトゥ君」に改名されたのもこの頃だ。
パークは『クトゥ君とのお話ツアー』と銘打ち、数百人単位にまとまった観客が順番にコミュニケーションをとれるイベントを企画した。
水槽を周回しながら「ガラス叩き」を楽しみ、最後に水槽の裏側に回って記念写真を撮る。
このイベントは大当りし、広告やCMでもその絵柄を目にしない日は無かった。
アニメのモデルにも登用され、子供から絶大な支持も受けるようになった。
巷には人形や関連グッズが溢れ、「クトゥ君」ブランドは揺るぎない地位を確立していった。
一日の来園者数は数万人を数え、国内の著名テーマパークの最多記録を更新した。
世間では環境問題が叫ばれ自粛要請も出ていたが、ここは別世界だった。
人々はひと時の娯楽を求め足を運んだ。
開演から僅か半年で、湖上テーマパークは日本を代表する観光名所となっていた。
俺は死に場所を探していた。
腹には小型だが殺傷力の高い時限爆弾を抱えていた。
俺をここまで追い込んだ世間には怨みがある。
死ぬ時は数十人は道連れにするつもりだった。
楽しげな親子連れに釣られて、ついこんな所まで来てしまったが何処だ?
人々の向かう先にカラフルなアーケード見えた。
ああ、今流行りのテーマパークか・・
目前に広がる華やかな光景に、場違感は否めなかった。
(いや、これは返って好都合かもしれない。)
出来るだけ幸福そうな奴らを狙うつもりだったので、寧ろベストチョイスではないか。
俺は気を取り直すと、爆死にお誂え向きの場所を探し始めた。
『クトゥ君とのお話ツアー』の入口に長蛇の列が出来ている。
皆、目を輝かせてイベントの感想を語り合っていた。
ここはどうだろう。
人の密集度合いは上々だが、中はどうなっている?
俺は確かめようと最後尾に並んだ。
一時間程で水中トンネルの入口に辿り着く。
人数制限をかけているのか、人の流れに一定間隔の緩急が見られた。
何度目かの波で、俺はようやくトンネルに入った。
全面に亘って魚の見られる透明の通路を奥に進む。
立ち止まっては歓声を上げる観客を尻目に、俺は足早に終着点を目指した。
暫く行くと巨大な水槽に行き当たった。
中にいるのは何処かで見た事のある生き物だ。
確か新種の熱帯魚か何か・・
俺は水槽の台座に貼り付いたプレートに目をやった。
「クトゥルフ・・生息地 太平洋深海」
熱帯魚ではなく深海魚だったか・・
まあ、どっちでもいい事だ。
俺は浮かんだまま身動きしないそいつの顔を眺めた。
それにしてもデカい。
何の感情表現も持たない虚ろな眼が俺を見下ろす。
泳ぐ事も出来ず、ただ晒し者にされるだけの毎日・・
一体どんな気分なのだろう。
「悪いが、此処で他の奴らと一緒に死んでもらう。」
俺は水槽のガラスに触れながら呟いた。
ヌメヌメと動く触手の一本が、ゆっくりと近づいてきた。
俺の手と重なるようにガラスに密着する。
驚いた俺は慌てて手を退けようとしたが、何かが阻んだ。
咄嗟に怪物の顔を見た俺は意外なものを目にした。
その眼に涙らしきものが流れたのだ。
そんな馬鹿なと思いながらも、俺にはそれが涙に見えた。
理屈じゃない。
とにかくそう見えた。
そして不覚にも一瞬胸の痛みを覚えた。
感傷など、無情に俺を切り捨てた会社や嘲笑った同僚、ろくでもない家族への未練と共に捨て去った筈だ。
だからこそ、一片の憐みも抱く事無く他を巻き込んで死ぬ覚悟が出来たのだ。
今更、同情や悔恨など湧いても仕方ない。
俺は雑念を振り払い、再び手を引っ込めようとした。
(待て)
頭の中に声が響いた。
慌てて周囲を見渡すが、誰も俺の方を向いてはいない。
空耳かと疑う俺の手に、微かな振動が伝わった。
見ると先程の触手がガラスを叩いていた。
コツ、コツ、コツ・・
まるで何かの信号音のような響きだ。
(待て・・早まるな・・)
音と共に誰かの喋る声が聴こえた。
それは声というより思念といった方がいいかもしれない。
「誰だ!?」
思わず声が出た。
(私だよ。君の目の前にいる。)
その言葉に俺は頭上を見上げた。
悲しげな怪物の目が俺を見下ろしていた。
「お前・・話せるのか・・!?」
俺はおよそ非現実的な状況に言葉を失った。
喋る深海魚など聴いた事が無い。
(ああ。厳密に言うと君の頭の中に語りかけているのだがね。)
怪物は言葉を続けた。
(それと、怪物という表現はやめてくれないか。これでも一応人気者でね。最近ではクトゥ君などと呼ばれている。)
テレパシー・・!?
昔流行った超能力ブームの折、耳にした事がある。
確か相手に思念を送ったり、考えを読んだりする力だったような・・
こいつはそんなものを持っているというのか。
(・・まあ、そのようなもんだ。長年暗い海の底に暮らしていると色んな業が身につくもんさ・・そんな事より問題は君だよ。)
まだ半信半疑の俺の頭に畳み掛けるように、そいつ・・クトゥ君は言った。
(君、今からとんでもない事をやらかそうとしてるだろ。)
俺の心を見透かしたと言わんばかりの口調だった。
どうやら本当にテレパシーを使っているらしい。
(君に触れた時、君が背負った不幸の全てが私にも体感出来たよ。今まで相当辛い目にあってきたようだね・・他人事とは言え、私の胸も酷く痛んだよ。)
言いながらクトゥ君は語尾を詰まらせた。
よく見ると目が潤んでいる。
どうやらこいつは俺の過去を知って同情したようだ。
やはり先程の涙は錯覚では無かったのか。
(よく今まで耐えてきたな。大変だったろう。)
その一言で俺の胸にも熱いものが込み上げた。
「黙れ、お前に何が分かる!」
虚勢混じりに声を荒げるが、動揺は隠せなかった。
(勿論、分からないさ。君が受けた苦しみの本質は君だけのものだ。だが、私にも一つだけ分かった事がある。)
クトゥ君は落ち着いた声で言い放った。
(絶望するには少し早いという事だ。君はまだ全てを見てはいない。)
その言葉の意味が理解出来ず、俺は戸惑った。
こいつは一体何を言ってるんだ。
俺の人生は、いい事など一つも無いものだった。
幼少期に早逝した父の代わりに母親は身を売って俺を育てた。
程なく再婚したが、相手の若い男は働きもせず毎晩俺を殴った。
ある朝目を覚ますと母親は男と共に姿を消していた。
俺は子供心に自分が捨てられた事を自覚した。
身寄りの無かった俺は民間の児童養護施設に預けられるが、そこでも他の入所者から虐めを受けた。
食事には毎日のように虫やゴミが入れられ、衣類は知らぬ間に汚される。
施設の担当者に助けを求めても、関わりたく無いのか見て見ぬ振りだ。
空腹の腹を抱えて、俺は毎日泣いて過ごすしか無かった。
思えばこの段階で、俺の人間不信は揺ぎ無いものになったと言える。
感情を押し殺し、常に目立たない存在であろうとする。
虐めを受けても反発せず、相手が諦めるのをじっと待つ。
中学・高校と進学してもその性質は変わらなかった。
陰気で口数の少ない俺をクラスの連中は遠巻きに揶揄った。
話しかけてくる仲間など誰一人いなかったが、それでも下手に反感を買うよりましだった。
そうやって俺は施設入所から十年間をやり過ごした。
高校卒業と同時に施設の伝手で食品工場に就職するが、ここでも人付き合いの苦手な俺は敬遠される。
製造ラインでは露骨に邪魔者扱いされ、会社の寮では事あるごとに苦情を言われた。
やれゴミの出し方が悪いだの、やれ夜間の物音がうるさいだの・・
嫌がらせ以外の何物でも無かった。
経営難に陥った際に真っ先に切られたのも俺だ。
居なくても何の支障も無いだろ・・
躊躇なく俺をリストラした上司を始め、残留組の連中は陰で嘲笑した。
暗い、うざい、辛気臭い、気持ち悪い・・
居なくなって清々する・・
誰もが俺に対してそんな感情を抱く。
何を言った訳でも、何をした訳でも無いのにそんな目で見られる。
何故だ。
一体俺が何をしたというのだ。
生きているだけで俺は邪魔な存在だというのか。
どうする・・どうする・・どうする・・
気付くと、俺は暗い自室で爆弾を作っていた。
唯一機械いじりが好きだった事で、さほど労せず製作する事が出来た。
俺は生まれて初めて、自ら進んで行動を起こそうとしていた。
それは初めて得た「喜び」でもあった。
完成したら何処かで「道連れにする奴」も探す事にしよう・・
何年かぶりに俺の顔に笑顔が浮かんだ。
いつの間にか俺は過去を振り返っていた。
見上げるとクトゥ君の寂しげな目とかち合った。
「分かったろ。これが俺の歩んで来た地獄だ。これからもこんな人生が続く位なら死んだ方がよほど楽だ。だから放っておいてくれ。」
絞り出すように言い放つ俺をクトゥ君は黙って見つめた。
興奮したせいで額から汗が流れ落ち、息が上がった。
相手が人間で無いとは言え、これだけ感情を曝け出したのは初めてだった。
形容し難い解放感が身体の中に広がる。
(これから君に真実を見せるよ。気を楽にして・・)
不意に柔らかい思念が頭に響き、何かが流れ込んで来た。
そこは幼少時に過ごした部屋だった。
夕暮れの淡い陽光の中、母親のシルエットが寝ている俺に語り掛けていた。
「辛い思いをさせてごめんね。でも、こうするしかないの。あの男は邪魔な貴方をどこかに売り飛ばそうと言い出した。金の為ならどんな事でもやりかねない鬼畜のような奴。貴方の為と思って一緒に暮らし始めたけど間違いだった。全て母さんの責任・・でも、あいつの思い通りにはさせない。あいつが生きている限り私たちは不幸になるだけ。だから母さんは今から二度とあいつの顔を見なくて済むようにしてくる。これ以上貴方に指一本触れさせやしない。もう会えなくなるけど、どうか堪忍して頂戴・・」
母親は俺の頬を撫でながら、押し殺した嗚咽を漏らした。
「・・これだけは忘れないで。母さんはいつまでも貴方を愛しているから・・」
その言葉を最後に、掻き消すようにシルエットが消えた。
まるで命の灯火が尽きるように・・
母親の感触の残る頬に、一筋の涙が伝って落ちた。
俺の前に小さな食器が並んだ。
施設の食事は質素だが、それでも腹を空かせた身にはご馳走だった。
箸を取り口元に運ぼうとすると、小さなものが白米の中で蠢いた。
喉の奥で小さく叫び、俺はそのまま茶碗を置いた。
正面に座った年長の少年が、含み笑いを浮かべてそれを眺めている。
まただ・・
俺は服の裾を握り締め俯き続けた。
食事が終わり庭に飛び出した俺は、樹の陰に隠れ座り込んだ。
悔しさと空腹で自然と涙が零れる。
俯いた俺の頭を誰かがコツンと叩いた。
驚いて顔を上げると、目の前に同年代の少女が立っていた。
確かいつも机の隅に座っている子だ。
「これ、あげる。」
そう言って少女は手に持っていた紙袋を差し出した。
反射的に受け取った俺は、恐る恐る袋を開いた。
中には握り飯が一つ入っていた。
酷く歪な形だが、それは少女が自分で握ったからだとすぐに察した。
「・・何で。」
俺は震える声で尋ねた。
「あなた、私と同じだから。」
そう言うと、少女は優しい笑みを浮かべた。
俺は息が詰まる程の胸の痛みを覚えた。
そして涙と鼻水でクシャクシャになった口で握り飯を頬張った。
誰がリストラされるのか。
社内はその噂で持ち切りだった。
どうせ俺に決まっていると諦めていた。
社内のお荷物である俺を引き留める者などいる筈が無かった。
これ以上厄介者になるのは嫌なので、自主的に退職しようと上司の部屋に赴いた。
戸口に立つと、中から声が聴こえてきた。
「考え直して下さい、部長!」
直属の主任の声だった。
いつも俺を叱り飛ばす上司だ。
「あいつは確かにコミュニケーションは苦手だが、真面目で手先も器用な使える男です。今あいつを抜かれるとうちの班・・いやうちの工場にとって大きな損失です。どうか、もう一度考え直して下さい!」
俺の事を言っているのはすぐに分かった。
だが何より、主任の放った言葉に俺は衝撃を受けていた。
現場では事あるごとに怒鳴られ、単なる嫌がらせだと思っていた。
俺以外にそのような態度はとらなかったからだ。
だが、今の口振りはどう見ても俺を擁護しているようにしか聞こえない。
「・・行く行くは皆の指導係にもなれるだけの技量を持っています。そのため、日々難解な作業も教え込んでいるんです。やっとここまで来て、辞めさすのはあまりに惜しい・・どうかお願いします。もう一度・・」
主任の声を枯らした懇願が続く。
結局、話しを最後まで聞く事無くその場を後にした。
俺は大きな誤解をしていたようだ。
主任が俺に辛く当たっていたのは、俺のスキル向上を願っての事だった。
リストラの筆頭候補と自らを卑下していたがとんでもない。
部長に食って掛かる程、引き留めようとしてくれている。
俺は更衣室に一人籠もると、隅で膝を抱え頭を垂れた。
生まれて初めて自分が評価された事が信じられなかった。
どう反応していいのかも分からない。
ただ確かな事は、自分にも何らかの長所があったのだと言う事実。
今の俺にはそれが何より驚きであり、嬉しくもあった。
俺は抱えた膝の間で、体を震わせて笑った。
目から止めども無く涙が流れ落ちた。
クトゥ君が見せた真実の数々に、俺は言葉を失っていた。
それはどれも俺自身の埋もれた記憶に相違無かった。
なんて事だ!
こんな大切な事を忘れ去っていたとは・・
俺は絶句した。
自分は決して孤立などしていなかった。
最も辛い時、最も苦しい時、いつも傍に誰かがいた。
傍にいて、俺の心に寄り添ってくれていた。
何で覚えていないのだ!
(君が君自身を嫌っているからだよ。あらゆるものとの接触を拒み、そんな自分に幻滅する。そんな曇った心が、君の記憶の【良い面】を消し去っていたのだ。)
俺の困惑に答えるかのようにクトゥ君が言った。
そうだ。
俺はいつも何かに怯え、誰かを恨み、あらゆるものから逃げていた。
人の話す言葉、動作の一つ一つが自分への嫌がらせに思えたからだ。
自分が関わる事が全ての不幸の要因だと思い込んでいた。
だが違った。
結局、俺の人生を不幸にしていたのは俺自身だったのだ。
なんて事だ!
俺はもう一度絶句した。
取り返しのつかない事を俺はしてしまったのか・・
もう二度と後戻りは出来ないのか・・
(遅くは無いよ。)
俺の意を察したクトゥ君がまた語り掛けてきた。
(今からでも決して遅くは無い。どうすれば良いかは君の心次第なのだから。)
物静かな、しかし暖かみの籠もった口調だった。
そうだ、遅くは無い。
記憶が蘇った今なら、やり直せそうな気がする。
この不思議な力を持った深海魚が言うのだから間違い無いのだろう。
俺はぎこちなく頷くと、腹に手を入れ爆弾の導火線を引き抜いた。
もうこんなものを使う必要も無い。
クトゥ君を見上げると、目が笑っていた。
これでいいんだ。
俺も笑みを浮かべた。
さあ、自分の人生へ戻るとしよう。
俺は足早に出口に向かった。
水槽の前で嬉々として撮影を待つ人間たちを眺め、クトゥ君は低く喉を鳴らした。
次の瞬間、囲っていた巨大な水槽は消失し、部屋の中には混沌とした闇が拡がった。
精神支配はここまで・・
今からは眼下で呆然と周囲を見回しているこの「食料」で腹を満たすとしよう。
それにしても、先程は危なかった・・
馬鹿な人間のせいで、もう少しで今日のノルマが果たせなくなる所だった。
爆弾如きで数十人も持って行かれては、たまったものではない。
既に闇に落ちた心に精神支配は効力を失う。
出来るのは精々記憶を弄る事ぐらい。
あの人間の思い出から意識転換出来そうな場面を見つけ加工してやった。
咄嗟に打ったひと芝居だが、上手くいったようだ。
いくら悪ぶっても本質までは変えられないのが人間だ。
人を殺めれば一瞬躊躇い、時間が経てば後悔が芽生える。
我々のように「感情」を完全にコントロールしている種族とは、根本的に造りが異なる。
所詮、何処まで行っても人間は人間でしかない。
ぶるっと触手を震わせ、クトゥ君は滴る涎を拭った。
パークの中枢制御室で二人の人物がこの様子を眺めていた。
一人は銀色のスーツに身を包んだサングラスの男。
もう一人は小太りで白髪の中年男性だ。
「順調ですね。」
小太りが満足そうに言った。
顔には薄ら笑いが浮かんでいる。
「ああ。」
サングラスがにこりともせず答える。
「今の餌で丁度八千人目です。このペースなら4年で何とかなりそうですね。」
そう言って小太りは大仰に両手を広げた。
それには答えず、サングラスは踵を返すと足早に戸口に向かった。
小太りが手揉みしながら追従する。
度重なる環境破壊による生態系へのダメージは予想以上だった。
植物の生育範囲は縮小し、漁獲量は減少の一途を辿った。
地球資源の枯渇は日に日に速度を増していった。
各国政府は深刻な食料難まであと五年と見積もった。
それを過ぎれば、後に待つのは飢餓による争乱と暴動の地獄絵図である。
国民にも環境保護と節約への協力を呼びかけたが、大した成果は出なかった。
打つ手の無くなった世界各国に【A財団】と名乗る謎の組織が接触してきた。
この窮地を回避するには、もはや人口そのものを減らすしかない。
そいつらは理路整然とその正当性を説いて聞かせた。
そして世論の反撥無しに、秘密裏に人口を減らす策を提示した。
それは世界の各処に眠る【邪神】と呼ばれる地球外生命体を覚醒させ、その精神支配の力を以て段階的に減らしていくというものだった。
勿論「減らす」というのは、そいつらに「餌として与える」という事である。
当初論外と相手にしなかった各国も、【A財団】が実際に覚醒させたクトゥルフを目の当たりにして心が揺れ動いた。
デモンストレーションにて精神支配の圧倒的な力を見せつけられた首脳陣は、結局回避策の全権を【A財団】に委ねる事を合意した。
かくして、世界各国に様々な【邪神】が配備され、人口比に応じた「人身御供」が始まった。
日本に送られたのはクトゥルフ。【邪神】の中でも【大司祭】の異名を持つ実力派だ。
水中にしか生息出来ないクトゥルフは、本土で最も巨大な湖「琵琶湖」を居住地と定めた。
日本に割り当てられた削減人員は総人口の一割。約千二百万人である。
クトゥルフが精神支配で構築した架空のテーマパークに来場者を集め、一日数千人ペースで「食っていく」計画だ。
経営者とは名ばかりの小太りが先述した「4年で何とかなる」とはこの事を指している。
「全ては貴方達のお陰です。」
共に乗り込んだエレベーターで、小太りはご機嫌を窺うように話しかけた。
自分が削減対象に選ばれぬ為なら何でもする・・そんな下心が見え見えだった。
「全くもって偉大な力をお持ちだ。あの化け物・・失礼、【邪神】を見事に飼い馴らしてしまうのですから。まさに神に仕える者の成せる業ですな。【A財団】の「A」は「アパスル(使徒)」という意味ですかな。」
小太りはあらん限りの賛辞の言葉を口にした。
終始黙秘していたサングラスの背中が、最後の言葉に僅かに反応した。
「違う。」
そう言ってサングラスを外すと、ゆっくり背後を振り返った。
『アザトースだ。』
真っ黒い霧の渦巻く眼球の下に、不気味な笑みが貼り付いていた。
それを見た小太りの体は瞬時に硬直し、足元から霧散して消失した。
あと五年もこの無能な種族の相手をするのはうんざりだ。
精神支配により人間どもに食糧難に陥るという意識を植え付け変化をみたが、大して変わり映えはしなかった。
指導者達は相も変わらず保身に走り、国民は自粛などお構い無しに遊興に興じる。
所詮、人間などその程度でしかない。
終末の時期を早めるか・・
クトゥルフの餌付けの途中だが、まあいいだろう。
サングラスは両手を天に翳すと、一気に【外なる神】の力を開放した。
湖上のクトゥ君 マサユキ・K @gfqyp999
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