第159話 教養授業37限目。鈴音先生、徳川家康を語る…その④
さてその後、2度目の朝鮮出兵(慶長の役)の途中、慶長3年(1598年)8月に病を得た秀吉が亡くなります。秀吉は死ぬ前に五大老/五奉行という制度を作り、当時まだ数え7歳の秀頼さんを盛り立てる様に遺言しました。家康さんは当時五大老筆頭、内大臣ですから、秀吉は涙ながらに何度もお願いした様ですが、まあ、今までの経歴から見ても、この時家康さんがどう思っていたかは何となく想像がつきますね。
そんな訳で秀吉がなくなると、家康さん何食わぬ顔をして、自分の派閥拡大に邁進します。この当時の公儀豊臣(正当政権)内での自分の地位を盤石にするのが第一ですからね。禁止されていた他大名との縁組も遠慮なく進めます。秀吉の死に伴い、無謀で戦果のない朝鮮出兵はすぐに中止が決まり、日本軍は撤退しますが、この時の恩賞を巡って、政権内では大きな対立が起こりました。これに乗ずるあたり、還暦間近の家康さん、老獪さも板についてきた様です。これから関ケ原までの2年間は、朝鮮に出兵した側と、国内に残留した側で、政権内の対立が激化します。理由は至極簡単。朝鮮に出兵した側は、公儀(豊臣政権)の命令に従い、莫大な戦費を自前で費やして朝鮮に出兵したのです。正当な恩賞を貰えなければ、疲弊した領国が立ちゆかない…、だからそれをよこせ!。一方、公儀側にしてみれば、戦果が上がらず、新たに得た領土もないのだから、無い袖は振れない…。この対立は非常に深刻で根深く、思い悩んだ石田三成さんは、ある解決策を考えます。それは家康さんを担いでいる朝鮮出兵大名共をどこかに集めて纏めて屠り、その所領を没収して、不満を持つ大名に恩賞として与える…という策です。
そしてこれを本当に実行するあたり、石田三成という人は只者ではありません。
彼はこの対立を利用して権力と領国を広める野心を持つ、安国寺恵瓊、吉川広家等の毛利一族を旗頭として引き入れ、打倒家康の策を練ったのです。
この間、双方の間での情報戦は熾烈を極め、暗殺未遂事件も起こりました。家康さんは当時、八百比丘尼の志乃という娘を側室として寵愛しており、彼女からの情報で家康さんの動向を知っていた私は、同じく安国寺恵瓊の寵愛していた八百比丘尼、結乃(ゆの)からの情報で、家康さんの暗殺を寸でのところで阻止しました。八百比丘尼の村の存続の為、当時私たちは双方の首脳に比丘尼の娘を送り込み、情報を得つつ、両天秤に掛けており、戦の決着の付かない間に双方どちらかの首脳が倒れる事を阻止していたのです。まあ、このおかげで八百比丘尼の一族はその後徳川家と深い誼を通じる所となり、江戸時代を通じて平和を謳歌する事になるのですが…。
関ケ原の戦いに関しては、以前の教養授業で解説しましたので割愛しますが、石田三成さんの西軍は、総大将の毛利輝元にまるで覇気というものがなく、纏まりに欠け、総大将の家康さん自らが戦場に立った士気の高い東軍に圧倒され、良い所なく敗れ去ります。結局、三成さんの考えた策略は、家康さんの手によって実現し、彼は西軍側に与した大名の領地を没収、これを東軍側の大名に与える事で、朝鮮出兵以来の日本の内乱の火を消し去りました。私は関ケ原直前の三成さんにお会いした事がありますが、彼はこの時、【仮にどちらが勝っても日本の大規模な内乱は避けられ、結果として豊臣家が守られるならば本望である】と、おっしゃっていました。わが身を顧みず、主家を守る事に最善を尽くす…。
のちに水戸光圀が、【すべからく人の臣たる者は、治部少(石田三成)の如くあるべきである】と述べていますが、私もそう思いますね。今の政治家は、三成さんの爪の垢を煎じて飲むべきだと思います。
この関ケ原の戦いで秀吉死後の権力闘争には完全な決着が付き、慶長8年(1603年)、家康さんは朝廷から征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開きます。その後慶長20年(1615年)春の大坂夏の陣で豊臣家を完全に滅ぼし、徳川幕府の体制は盤石なものになりました。
もっとも家康さんは当初、豊臣家を完全に滅ぼすつもりはなく、彼らが国替えに応じれば、大名としての豊臣家の存続は許すつもりでした。ところが淀君が大坂城に固執した為、戦にせざるを得なかったのです。大坂城はこの当時日本最強のお城でしたから、後々の時代に禍根を残すと思ったのでしょう。女性のヒステリックな拘りは、いつの時代でも恐ろしい結果を招くものです。そうしてこの翌年の元和元年(1616年)4月、家康さんは全てをやり終えたが如く、75歳でこの世を去りました。
以上が私の見た徳川家康さんです。若い頃の彼は徹底的に剣術を学んだ脳筋武闘派の典型で、目の前に現れた敵を容赦なく叩く、戦略も戦術も何もない猪突猛進の猪武者でした。女好きでしたが家族愛や情には薄く、使えないとなれば身内でも女でも容赦しません。同盟や約束事などどこ吹く風、自分にメリットがないと思えば容赦なくぶった切ります。プライドが高く自己中で、自分より強い相手にはったりをかまして、強気に出た挙句、2度も滅亡寸前まで追い詰められるなど、その戦歴は華麗さとは無縁です。
それでも死線を幾度もかいくぐったおかげか中年以降は良く読書に励み、戦略や統治というものを学び、有能な人材の登用にも努力し、内政や治水土木事業に尽力して、江戸を栄えさせました。自分のわからない事は人に任せる大楊さも身に付けます。かなりのケチで倹約家でしたが、必要な所には金を使うメリハリも持っていました。囲碁将棋を楽しみ、そういう知的ゲームが好きだったおかげか晩年まで精神はしっかりしていて、秀吉の様に晩節を汚す事もありませんでした。新しいもの好きで、時計を分解したり、楽しそうに身に付けたり、三浦按針の様な外国人にも偏見がなく、登用してその技術を取り入れています。そうして何より、生涯を通して、ここ一番での運の強さは特筆すべきでしょう。
徳川家康という人は、戦略、戦術という面では織田信長に遠く及ばず、政治力では秀吉に及ばず、実戦指揮では武田信玄や北条氏康に及びませんでした。何より、本人がそれを自覚していたと思います。それでも彼らと自らの体験に学び、物事を改善する事には長けていましたし、内政力とそれを推進する力はピカイチだったと思います。
家康さんの晩年、私は一時期駿府に移り住み、隠居となった彼の話し相手になっていました。普段はあまりお酒を飲む方ではなかったのですが、酒には強く、私がお伺いした時は、囲碁将棋を指しながら、遅くまで飲んで語り合ったものです。
好々爺となった彼は、ニコニコしながら繰り返し私に言いました。
『鈴音さん、部下には運の強い奴を選びなさい。優秀で頭が切れるとか、戦に強いとかは所詮、運の強さに如かず。このわしが、何よりの証明ですじゃ』
それを傍で聞いていた天海上人(明智秀満)が、カッカと笑っておられたのが、
今でも強く印象に残っています。ひと言で言えば、運の良い、腹黒狸親父…。
それが徳川家康という人だったと思います。
それではここからは質疑応答の時間にしたいと思います。
質問をする生徒は手を挙げて、名前と出席番号を答えて下さい。
この授業と関係ない質問はしない事。それではお願いします」
「出席番号2番。井伊直政です。先生は日本の歴史において、徳川家の残した最も偉大な功績とは何だと思いますか?」
「徳川家の日本史における最も大きな功績は、何といっても260年余りに及ぶ平和を日本にもたらした事でしょう。今の日本文化の根本、法による支配の徹底と、清廉さと潔さを重んじる文化は、この時代に醸成されたのです。江戸時代の法秩序は世界史的に見ても別格であり、法を犯せば武士であろうと商人であろうと容赦なく裁かれました。また世界的にも稀な、権力と財力の分離がなされていた事も特筆すべきです。武士には権力はありましたが財力はなく、商人には財力はあっても権力がありませんでした。このふたつを同時に持ってしまうとどうなるか?今の世界の失敗例を見れば良くわかりますね。狸親父は最後に中々良い仕事をしました。職人を重んじ、伝統文化を発展させ、庶民への教育を行い、識字率を向上させた。一般の村々で数学が庶民の娯楽として楽しまれていた様な国は、日本以外に存在しません。江戸時代の日本は、決して裕福な国ではありませんでしたが、この時代の世界のどの国より、平和で穏やかな、優しい国だったと思います」
ここで授業の終了を知らせるチャイムが鳴りました。
母上様の語られた徳川家康像…今まで知られていた姿とは大分違っていましたが、
東照大権現様も長い人生、物凄く苦労されたみたいですね。人生に重要なのは、きっと努力、運、そして協力してくれる気の置けない仲間なのでしょう。
私も負けずに頑張ろうかな?なんて思うのでした。
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