第158話 教養授業37限目。鈴音先生、徳川家康を語る…その③

さて、本能寺の変は秀吉の神がかった中国大返しによって明智光秀さんが破れ、それを知った家康さんは、織田勢の撤退で空白地帯になった甲斐と信濃の征服に動きます。火事場泥棒と言えば良いのか、かつての織田家との同盟の事なんか頭の隅にもなかったかの様に進軍し、同じ様に狙っていた北条軍を撃破、最終的に有利な和議を結んで、三河/遠江/駿河/甲斐/信濃の5か国を領する大大名となります。同時に武田の旧臣を多く召し抱え、特に治水土木事業のノウハウを吸収しました。武田信玄は、領国が周辺諸国に比べて貧しかったにも関わらず、大きな軍事力を発揮していますが、それは治水土木等の内政能力の高さに負う所が大きく、これを知った家康さん、それを自分の領国にも取り入れようとします。これはのちの関東移封の時に大いに力を発揮する事になるのですが、これらの成果で気が大きくなったのでしょうか?

この直後、織田家中の内輪もめである羽柴秀吉と織田信雄との争いに介入し、

織田信雄に与します。かつての同盟者である織田家の後継者に力を貸すという

大義名分ですが、火事場泥棒的に甲斐、信濃を奪っておいて、どの口が言うか?と、秀吉は思っていたかもしれません。


この争いがのちの小牧長久手の戦い(天正12年3月、1584年)に繋がる訳ですが、兵力は秀吉側が4倍近く多く、織田/徳川側としては陣城に持久して、相手が撤退するのを待つぐらいしか手がありませんでした。家康さん、局地戦での勝利は得たものの、戦略的な不利を覆す事は出来ず、双方一時的な和議を結んで撤収します。


この和議の後も羽柴秀吉、家康さんとの間で、政治的な駆け引きが続きますが、こういう調略戦に脳筋渋チン型の家康さんが勝てる道理がなく、大略的には秀吉有利に進んでいきます。同盟や臣従する大名も秀吉側が圧倒的に有利、追い詰められた家康さんは、翌天正13年(1585年)、当時敵対していた北条氏と同盟締結に動きますが、この時北条側に、以前の和議の時の条件だった沼田領の譲渡を求められます。この場所は、この当時徳川に臣従していた真田昌幸さんの領地だった為、家康さんは返還する様、昌幸さんに命じますが、替地がない事を理由に昌幸さんはこれを拒否。挙句7月には戦争になって、徳川軍は昌幸さんに大敗します(第一次上田合戦)。更にこの頃、家康さんの領国は天候不順が続き、飢饉になっていました。弱り目に祟り目とはこの事で、秀吉はこの間も着々と準備を進め、翌天正14年(1586年)の1月には、大軍で徳川領に侵攻し、家康さんの息の根を止めるつもりでした。自分より強い相手にはったりをかまして強気に出た挙句、逆襲されて滅亡寸前まで追い詰められる…。前に信玄相手にやったのと同じ事を繰り返しているあたり、脳筋武闘派家康さん、まったく懲りていないですね。


このまま行けば、少し後の北条氏と同じように、秀吉の大軍に包囲されて徳川氏は滅亡…となるはずだったのですが、では家康さんと北条氏政の違いは何か?と言えば、やはり【運】だと言えます。


何故ならこの時…秀吉の徳川領侵攻直前の天正13年11月29日(グレゴリオ暦1586年1月18日)、天正大地震と呼ばれる巨大地震が発生するからです。

これは中部地方の養老断層及び伊勢湾断層を震源とする、マグニチュード8前後の巨大地震で、岐阜の大垣城が完全に倒壊、飛騨国の帰雲城などは帰雲山の山崩れによって埋没、城主の内ヶ島氏とその一族は全員行方不明となって、内ヶ島氏は滅亡しています。東海近畿各地で大きな被害が出た事から、合戦どころではなくなり、秀吉は徳川領侵攻作戦を急遽中止、家康さん、またも九死に一生を得ます。北条氏を滅ぼした北条氏政さんは後世に無能呼ばわりされていますが、こうしてみると家康さんも50歩100歩だった事がわかります。


この事に余程懲りたのでしょう。これ以降、家康さんは無謀な戦を避ける様になります。秀吉にも妥協する姿勢を示し、形だけとは言え、臣従の姿勢を取り、和議を結びます。この時の和議の中身から言えば、徳川は豊臣寄りの独立大名という位置付けで、完全な臣下にはなっておらず、この時はまだ完全な独立大名だった…北条家との同盟も維持しました。家康さん、これ以降は孫子等中国の兵学書を読みふけり、戦略論的な考え方を自らの物にしようと努力しています。劣勢な兵力での無理押しは効率が悪く、リスクが高い…。これを身をもって学んだからですね。


徳川との対決を有利な条件で収束させた秀吉は、こののち九州征伐を行い、それを終えるといよいよ最後の大大名、北条氏をその傘下に収めようとします。当時の北条氏は関東の大半を支配し、また徳川とも同盟を結んでいましたので、北条/徳川が全力を尽くせば、勝てないまでも負けるはずはない…と、踏んでいたのでしょう。最初は強気に出ます。実際、両者が協力すれば、三河~関東一円で10万近い動員力がありますから、仮に戦になっても痛み分けで終わる可能性は高かったと思います。ところが家康さん、そんなのリスクだけでメリットなしとでも思ったのでしょうか?簡単に北条氏を裏切り、秀吉側に付きます。自分が困った時は恥も外聞もなくすり寄るくせに、相手が困った時は、自分にメリットがなければ簡単に切る…家康さんの面目躍如とでも言えば良いのでしょうか?北条氏はどう思っていたでしょうね?


結局秀吉は色々言いがかりを付けて北条氏に宣戦布告し、天正18年(1590年)3月から、世に言う、秀吉の小田原征伐が始まります。衆寡敵せず、当主の北条氏直は7月5日に降伏します。この時の降伏条件は、伊豆一国を安堵し、首脳陣は助命…のはずだったのですが、秀吉はその約束を破り、北条氏政、北条氏輝、松田憲秀、大道寺政繁を切腹させ、北条氏を滅ぼしてしまいました。氏直さんは家康の娘婿(督姫の夫)だった事から助命され、のちに1万石の大名として復活しますが、直後に天然痘で亡くなっていますね…。


こうして秀吉は北条氏を滅ぼすと、その直後に旧北条領に家康さんを移封します。まあ、これは体よく目障りな奴を田舎に追い払う…というのが一番の理由ですね。家康さんの領土(三河/遠江/駿河/甲斐/信濃)はおおよそ150万石前後、北条氏の旧領は250万石程度なので、単純に見れば100万石の大幅増になりますが、徳川領に比べ、北条領は治水や町造りといった面が進んでおらず、当時は利根川の支流の氾濫が非常に多かった事もあって、それにかかる経費を考えると割にあわないものでした。


若い頃の家康さんなら、間違いなく秀吉と一戦交えていたでしょうが、この頃は流石に経験を積んでいた事もあって、無謀な戦を控え、憤る家中を抑え、おとなしく関東移封に従っています。はらわたは煮えくり返っていたと思いますけどね。


でも、後になって考えてみれば、これも幸運だったと言えます。関東平野は日本で一番広く肥沃であり、人口も多く、治水さえしっかりやれば豊かな実りが期待出来、通商に使える良港も多く、交易にも有利でした。それに武田の遺臣を多く抱えた徳川家には、治水/土木工事のプロが大勢いましたから、その能力を最大限に生かす事が出来たのです。何より、その後に起きた秀吉の朝鮮出兵に対し、遠国である事、国替えによる多額の出費を理由に、徳川軍の参加を辞退出来た事は大きかった。朝鮮出兵は文字通りの骨折り損のくたびれ儲けで、何の成果も得られず、参加した大名は皆疲弊しますが、徳川はそれを逃れる事が出来たのです。そんな事になるなど、国替えした当時の家康さんは思ってみなかったでしょうけれど、結果オーライという事でしょうね。

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