第157話 教養授業37限目。鈴音先生、徳川家康を語る…その②
この後、元亀2年(1571年)10月に、北条氏康が亡くなった事がきっかけで、流れが変わります。氏康の死で実質的な権限を握った北条氏4代目の北条氏政が、武田氏との同盟関係を復活させる事にしたからです。これによって信玄は駿河を完全に武田領として組込み、領国東側を安全なものとし、時を同じくして信長さんと反目している朝倉義景・浅井長政・石山本願寺ら反織田勢力を糾合します。こうして万全の準備を整えた信玄は、元亀3年(1572年)10月、3年前の家康さんの裏切りによる屈辱を晴らすべく…【3年の鬱を散ずる】と宣言して、徳川領侵攻作戦を開始します。
この徳川領侵攻作戦は非常に慎重に、大胆且つ丁寧に練られており、信長さんが浅井・朝倉勢/本願寺勢と対峙して身動きが取れない時期を狙って行われた為、遠江と奥三河から同時侵攻した約2.7万の武田軍は破竹の勢いで徳川の諸城を落とし、三方ヶ原でも徳川の主力を撃破、家康さんを浜松城に追い込み、身動きが取れない状況にしました。この時の家康さんは、浜松城への補給路を殆ど武田方に抑えられ、動かせる兵も5千程に減り、風前の灯だったのです。3年前に信玄にやらかした不義理が10倍になって返ってきた様なもので、この時点で徳川氏は滅びても全くおかしくはない状況でした。後の武田勝頼さんの滅亡と極めて似ていたと思います。では家康さんと勝頼さんの違いは何か?と言えば、単純に【運】だと言えます。なぜならこの直後に信玄の持病が悪化し、元亀4年(1573年)4月12日に亡くなってしまうからです。
信玄の病死で武田軍は甲斐へと撤退、家康さんは九死に一生を得る事になります。自分より強い相手にはったりをかまして強気に出た挙句、逆襲されて滅亡寸前まで追い込まれる…。これで懲りたら良かったのですけどね。
武田信玄の死去に伴い、武田勝頼が後を引き継ぎますが、代替わり伴う所領安堵状の発給等の事務仕事に忙殺され、勝頼さんが再び動き出すのは、翌天正2年(1574年)の春先の事になります。この隙を突く形で信長さんは浅井、朝倉氏を攻撃、元亀3年(天正元年)9月初めまでに両者を滅ぼしてしまいました。信玄が作り上げた信長包囲網はこれで完全に瓦解し、以降、戦略的に武田氏は劣勢になってしまいます。
これに焦りを感じていた武田勝頼さんは、翌天正3年(1575年)4月、1.7万程の軍勢を率いて徳川領に侵攻、信玄に鍛えられた武田の精鋭は未だ健在で、徳川軍は押されて苦戦します。ただこの時は信長さんに余裕があり、彼はこの機会に大軍を投入して、武田勝頼を徹底的に叩こうと考えます。これが有名な長篠の戦いになるのですが、詳細は以前の教養授業で語っていますね。結論だけ言うと、この戦いで武田軍は壊滅し、這う這うの体で甲斐へと逃げ帰りました。武田氏の力が大きく弱まった事で家康さんはひと息つき、同時に遠江に残る武田領と駿河を狙って攻勢をかけますが、この頃、椿事が徳川家中で起きます。
天正6年(1578年)のお話ですが、家康さんの嫡男の信康さんが不穏な動きを強め、これが親子の激しい対立になります。信康さんは長篠の戦いの時も勝手に帰陣する等、それまでも家康さんに反抗する事が多い…今でいう中二病系ドラ息子だったのですが、脳筋武闘系の血がより濃く遺伝したのでしょうか?彼を中心に不穏な家臣が集まり、家康さんから当主の座を奪おうとする様な動きを始めたのです。色々謀議を交わしている…そんな情報が目付(監視役)を通じてやがて家康さんの耳に入ります。
親子での直接の話し合いも結局大喧嘩になり、思い余った家康さんは、謀反の疑いで信康さんを切腹させました。弁明しようとした正妻の築山御前(瀬名姫)すら同罪として殺してしまいますから、もしかしたら彼女もこの件に関わっていたのかも知れません。家康さんは元々肉親に対する情が薄く、何年も前から言う事を聞かないドラ息子を体よく処分し、ついでに息子にすり寄っていた不逞家臣達も処分しています。この頃には他に子供も大勢いますし、側室も沢山いましたから、家康さん、替えはどうとでもなると思ったのでしょう。家中に溜まった膿を一気に出す方向に舵を切ります。戦国時代の事とて、他にも似た様な大名は大勢いますが…。
ただこの椿事も外聞が悪いと思ったのか、のちの時代に信長さんが命じた様に改ざんされています。信長さんの娘の徳姫さんと信康さんの仲が悪い云々というのも後の世の作り話です。だって、徳姫さんは信康さんと仲が悪いなんて事はなかったし、事実、徳姫さんは信康さんが切腹してからも半年以上徳川家に留まり、晩年には家康さんから2千石の扶持を与えられています。私の知る徳姫さんはおっとりされた優しい姫君で、自分の夫を貶める文を書く様な人ではありません。まあ、戦(いくさ)に忙しくて息子をほったらかしにしていたら、周囲が甘やかし放題にしてしまい、脳筋武闘派の血もあって、親父を隠居に追い込む…かつての武田信玄の様に…みたいな夢想を持ち始めたので、とっとと処断した…という事だった様です。信長さんに報告したのも、信長さんの娘婿を処断するので、一応事前に報告して、了解を得ただけの事です。私はのちに御本人から直接、子育て失敗の愚痴を聞かされました…。
同じ年、3月に越後の上杉謙信公が中風で亡くなり、この結果、その後継者を巡り、以前教養授業で説明した御舘の乱が起こります。これは謙信公のお姉さん、仙堂院の息子で、謙信公の養子になっていた上杉景勝と、同じく養子になっていた北条氏政の実弟、上杉景虎(旧名 北条三郎)との争いですが、武田勝頼が北条側を裏切る形で景勝を支援し、最終的に景勝が勝利、景虎が自害した事から、武田/北条の同盟が手切れとなり、その翌年、これに危機感を感じた北条氏は信長さんに臣従します。これをチャンスと見た信長さんの調略で、天正10年(1582年)1月末、武田親類衆の木曽義昌が織田方に内応し、これをきっかけに織田/徳川/北条の大軍が武田領内に乱入、武田氏はあっという間に滅びます。家康さんは滅びた武田氏の領土の内、駿河一国を信長さんから拝領しますが、これで徳川領は周りを織田領ないし、織田に臣従した北条氏の領土に完全に囲まれる事になり、以後発展する可能性がなくなってしまいました。見かけ上は独立大名ですが、実質織田氏の属国…。事実、当時の文のやり取りの中で、徳川家中の者まで信長さんを【上様】と書いているくらいです。脳筋武闘派の家康さんがこの事をどう思っていたかは、この年の6月に起きる本能寺の変に家康さんが一枚噛んでいた事から明白ですね。
本能寺の変は、この年の5月15日、武田征伐の褒美として安土城を訪れた家康さんと、その接待役だった明智光秀さんの直接の謀議によって最終的な計画が纏まりました。変の成功の為には、信長さんと家督を継いだ信忠さんを同時に討つ必要がありますが、この内、信忠さんを京都に誘引する役を家康さんが引き受けたのです。この詳細も以前の教養授業でお話しましたね。
皆さんは徳川家康と言えば、律儀で誠実な人物だと思っているかも知れませんが、これも後の徳川幕府が作った虚像に過ぎません。戦国武将の中でも、彼くらい同盟や約束事に不義理だった人物は珍しいのです。幼~青年期に大きな恩を受けた今川家への裏切りに始まり、三河一向一揆の時の和議もすぐに反故にしていますし、武田信玄との同盟もすぐに破っているし、信長も裏切ったし、秀吉の北条征伐の時も、簡単に北条との同盟を打ち切っています。秀吉の死後は秀吉との約束もすぐに破って、有力大名と婚姻を結びまくるし、大坂冬の陣や夏の陣でも難癖をつけて和議の中身をすぐに反故にし、最終的に秀頼も殺し、その息子、国松も殺しています。真田昌幸さんの事を【表裏比興の者】という人がいますが、私に言わせれば、徳川家康こそ表裏比興の者だと思います。
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