第156話 教養授業37限目。鈴音先生、徳川家康を語る…その①

こんにちは。如月雪音です。

無事後期の学年テストも終わり、寒い1月も間もなく終わります。

今週も金曜日の3限目の授業が終わりました。

短い休憩時間の後、4限目開始のチャイムが鳴ると、

母上が教室にやって来ます。

「起立!」「礼!」

今週の教養授業の始まりですね!

いつもの様に母上様の優しい声が教室に響きます。


「今日は戦国時代の3英雄のひとり、

徳川家康さんについて語ってみたいと思います。

彼が開いた江戸幕府による長い治世、彼がその初代将軍である事もあって、

その記録には意図的に加えられたり、消し去られたものが多く、

現在、実際の家康さんとは大分異なった姿が伝えられています。なので、

本当の姿はどうだったのか?一緒に痛飲した事もある私がお話しましょう」


母上様、何だかいつにも増して楽しそうですね。


「家康さんは天文11年12月26日(グレゴリオ暦1543年2月10日)、三河岡崎城主、

松平広忠の嫡男として岡崎城に生まれています。松平氏は広忠さんのお父さん…

つまり家康さんのおじいさんにあたる清康さんの時代に、三河一国をほぼ統一する程の大きな国人領主になっていましたが、守山崩れと呼ばれる事件で清康さんが僅か24歳で亡くなった事もあり、家康さんが生まれた頃は、西三河の半分程の国人領主で、松平一族の取り纏め的存在にまで落ちぶれていました。当時の松平氏は西に織田氏、東は今川氏という強大な戦国大名に挟まれた存在で、存続する為にはこのどちらかに与する他なく、結局今川氏の傘下になります。この為家康さん(幼名竹千代)は、今川氏の人質として幼少期を過ごすのですが、当時の今川家当主、今川義元さんは、彼を三河支配の旗頭とする為、家康さんを今川一門として遇し、手厚い庇護を与えました。今川家の重臣、関口氏の娘(瀬名姫)を自らの養子とした上で家康さんに嫁がせていますから、今川家中でもかなり上位の存在として遇していた訳です


近年まで家康さんは、この今川人質時代、非常に不遇で苦労したと言われていましたが、そんな事は全然なく、寧ろ伸び伸びと、学問に乗馬や武芸、そして子作りに励んだ幸せな時代でした。彼にとっても良き思い出だったのでしょう。晩年、隠居地に駿府を選んでいますし、徳川の時代になってから、今川氏真さんも手厚く処遇しています。今川の人質時代の家康さんは、彼の人生の中で一番幸せな時期だったのかもしれませんね。


家康さんの人生における最初の転機は、有名な桶狭間の戦い(永禄3年/1560年)です。この戦いで今川家当主の今川義元が信長さんに討たれ、今川勢は総崩れとなって東へ撤退します。この時家康さんは今川軍の先鋒として出陣していましたが、敗戦に伴い岡崎城まで撤退し、以後は今川氏の西の抑えとして暫くの間奮戦します。当時の家康さんは西三河の一部を支配しているに過ぎず、その動員力は2千人にも満たないものでしたが、今川家に厚遇されていた事もあり、この時はそれなりに高い忠誠心も持っていたのです。


この時今川家を継いだ今川氏真が、家康さん救援の為に兵を出していれば、家康さんが織田と同盟を結ぶ事もなく、歴史は大きく変わっていたかもしれません。ただ氏真にとって間の悪い事に、時をほぼ同じくして、越後の上杉謙信が北条領に進攻して来ました。北条氏と同盟を結んでいた氏真は、結局北条氏への援軍を優先した為、三河への援軍は、極僅かしか送らなかったのです。桶狭間の戦い以降、三河の今川方を纏めて織田方の侵攻と対峙していた家康さんは、三河への軍事支援を後回しにして同盟国の北条氏支援に動く氏真に失望し、援軍を得られないまま織田氏に抵抗を続けるよりも、織田氏と結んで独立を図った方が領国維持の上で得策と判断する様になります。同時期の信長さんも、侵攻方向を一本化し、東の三河より北の美濃攻略を優先する事を考えていた為、両者の思惑は一致、これが織田徳川の同盟…清州同盟(1562年)になるのですね。


以後の家康さんは、今川氏に完全に敵対し、東に向かって領国を広めていく方針を取ります。この頃軍資金の不足を解決すべく、それまで免税権を認めていた寺社の権益をはく奪しようとした為、三河一向一揆が起こりますが、これは迅速な機動戦で一揆側を数カ月で撃破、西三河の支配を確実なものにします。この頃の家康さんは、猪武者というのが相応しい、体育会系、脳筋バリバリの武闘派で、歯向かう奴はボロボロのギッタギタにする猛将、神影流の剣術も学び、実力もかなりのものでした。信長さんも尾張統一の頃まではあまり策を弄せず、同じ様な力任せの戦いをする事が多かったのですが、このやり方は美濃の斎藤氏には通用せず、負けが込みます。この中で信長さんはそれまでの脳筋一筋の戦いを改め、それ以降は調略と兵力の集中に注力する様になります。少数兵力での力押しは効率が悪く、費用対効果も低い…。彼は実戦を通じてそれを学んだのだと思います。でも、家康さんはそれに気付くのが遅かったですね。相手が策を巡らせていても平気で正面から戦いを挑み、結果、手痛い敗北を何度も喫していました。彼の配下の本多忠勝、榊原康政等も筋金入りの脳筋揃いで、勢いに任せて戦うのが大好きでしたからね。その中では年長者で冷静だった酒井忠次さんが、毎度顔を真っ赤にして諫めていたシーンは、今も鮮やかに浮かんできます。


永禄10年(1567年)5月、家康さんは、長男竹千代(後の信康)を信長さんの娘である徳姫と結婚させ、信長さんとの同盟をより一層強固なものにしますが、翌年の永禄11年12月、次の大きな転機が訪れます。甲斐の武田氏が、力の弱った駿河の今川氏へ侵攻したのです。この侵攻前、武田信玄は、同盟を結んで今川氏を一緒に攻略しないか?と家康さんに持ち掛けます。信玄にとっての今川進攻作戦は、今川と同盟している北条氏との戦いも意味し、武田単独では荷が重いと思っていたのでしょう。家康さんには西から遠江に進攻して貰い、今川の兵力を分散させる事で、確実な勝ち戦にしようとした訳です。


家康さんはこの信玄の口車に乗り、武田家との同盟と今川領侵攻を快諾するのですが、信玄にひとつ条件を付けます。それは【武田の援軍】を遠江に派遣する事です。信玄も背に腹は代えられないと考えたのか、秋山虎繁に5千の兵を預け、遠江に進出させます。


実際の信玄の今川領侵攻は、対今川氏に対しては調略が功を奏し、今川軍を早々に崩して駿府へと一気に雪崩れ込むという戦果を挙げるのですが、北条氏の救援軍の到着が殊の外早く、その戦いも理にかなったものだった為、信玄は甲斐への退路をあやうく封鎖されそうになります。要するに信玄さん、かなり危機的な状況に陥った訳です。


この時、【信玄危うし】と見た家康さん、思い切りが良いと言うか、風見鶏なのかはわかりませんが、武田信玄との同盟をあっさり破棄し、今川氏真/北条氏康と和議を結ぶ方向で舵を取ります。この時の徳川軍は合計で1万弱いましたから、信玄にとって西から徳川軍に攻勢をかけられるのは、北条軍との挟み撃ちで、死を意味する可能性すらありました。更にこの時家康さんは、信玄が家康さんの援軍として遠江に派遣していた秋山勢を、直ちに撤退させる様要求、信玄は家康さんに翻意を促しましたが、結局それは成功せず、信玄は渋々秋山勢を撤退させます。この武田信玄相手に徹底的に強気に出た稚拙な外交は、のちに大変な危機となって家康さんに降りかかる事になります。この事は最近まで信玄が家康さんとの盟約を破ってして遠江に侵攻したと理解されていた様ですが、事実ではありません。徳川の時代になってから家康さんに都合良く書き換えられていますね。


その②に続く。

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