第127話 教養授業29限目。鈴音先生、小早川秀秋を語る➁。

そうこうしている内に9月14日、徳川家康が直率する徳川本隊が

大垣城の北東、赤坂に着陣。その数は約3.2万で、南宮山麓の西軍の倍以上。

同日、西軍では大谷吉継率いる約2千5百の部隊が

関ケ原の西の端にある山中村に着陣。

大谷吉継は小早川秀秋さんをはっきり敵として認識し、三成に対して、

まずは西軍の獅子身中の虫である小早川勢の撃破を要請します。

これを知った秀秋さんは、急遽すぐ近くの松尾山城を攻撃して、

そこを守備していた伊東盛正を追い出し、ここに籠城する構えを取ります。

同時にこの事を東軍側にも知らせたでしょう。

【内通完全にバレた。もう持ちません!】…と。


同日夕刻、大垣に籠城していた西軍の石田、宇喜多、小西、島津、

合計約2万数千は大垣城を出て、南宮山の南を迂回して関ケ原に向かい、

9月15日早朝、関ケ原の西の端、山中村に着陣。

この時大垣城に居た少数の小早川勢は追い出され、

バラバラになりながらも、三々九度、松尾山の小早川本隊にはせ参じました。

一方、大谷吉継は9月14日夜に関ケ原方面に前進し、

小早川勢が東軍と合流出来ない様に、

南宮山へ通じる隘路への蓋の役目を果たそうとします。


この9月14日の夜時点での三成の戦略は、まず関ケ原方面において大谷隊と協力し、翌朝早々に小早川勢を撃破、返す刀でその日南宮山を攻撃するであろう

東軍主力に対し、南宮山の西軍部隊と協力してこれを撃破する…

であったと思います。兵力的には東軍優位なので、かなり虫の良い話なのですが、

それまでに築いた南宮山の陣地と、南宮山麓から関ケ原へ抜ける隘路も生かせば、

何とかなると思った…いや、そうするしかなかったという事だと思います。


そして決戦当日の9月15日早朝、深い朝靄の中、

関ケ原に布陣する大谷吉継の部隊の眼の前に最初に現れたのは、

雲霞の様な徳川の大軍でした。

あろう事か、家康の本隊が南宮山の麓を素通りして、

大谷勢の前に現れたのです。この光景に吉継は驚愕します。

「南宮山の毛利はいったい何をしておるのだ?」


実はこの前日の9月14日、南宮山麓の吉川広家は、

東軍に対して休戦交渉…事実上の降伏交渉をしており、

井伊直政、本多忠勝との間で起請文を取り交わしています。

通説では前々から徳川に内通していたと言われる広家さんですが、

実際はそうではありません。内通話は全部後世の創作です。

ここまでの西軍の動きは基本、吉川広家、安国寺恵瓊等、

毛利の首脳陣が描いたもので、西軍は毛利輝元が総大将ですから、

それはおかしな話でも何でもないのです。

9月14日に赤坂に徳川本隊が到着した時点で、もう勝ちはない…。

毛利の首脳はそう考えたのですね。

そして三成を初めとする大垣の西軍の諸将に、それは知らされませんでした。


さて、眼前に現れた徳川の大軍に驚愕した吉継さんですが、

それでも必死に突撃し、一時は徳川勢を押し返す程の奮戦を見せます。

しかし、その日の朝、東軍との合流を急ぐため、松尾山城を下った丘の上に

布陣していた小早川勢にとって、眼の前に現れた徳川の大軍は、

まさに救援…後詰の兵でした。

「それ、直ちに大谷勢を叩け、粉砕せよ!東軍に合流するぞ!」

当時19歳の秀秋さんの号令一下、

小早川勢は一気に丘を駆け下りて大谷勢に横槍を入れ、

これをきっかけに大谷勢は瓦解、吉継さんはあえなく討ち死にします。


その状況は山中に陣を敷く、三成以下の西軍の諸将からも望見出来ました。

大谷隊を救援しようにも、既に彼らの眼前には、福島正則、黒田長政、

細川忠興、加藤嘉明、藤堂高虎らの東軍先鋒緒隊が迫っており、

どうする事も出来ません。

しかも前夜、大雨の中を徒歩で20㎞も移動し、山中に陣を敷いた

西軍将兵は殆ど一睡も出来ず、疲れ切っています。

そこに予想もしない東軍の大軍が雲霞の如く迫って来る…。

これで彼らの兵の士気は地に落ちてしまいました。


大谷隊の瓦解から暫くして…朝の10時頃から始まった山中村の戦いは、

もはや戦いと呼べる様なものではなく、一方的なものでした。

島津勢を除く西軍諸隊は瞬く間に総崩れとなり、

彼らと一緒に布陣していた亀井茲矩も裏切ります。

島津勢のみは何とか堪え、敵中突破を行って戦場を離脱しますが、

そこまででした。この日、西軍は東軍に完敗したのです。

これは島津家の家臣が戦後に残した覚書から、

今日でも裏が取れますね。


以上が関ケ原の戦いの実相です。

小早川秀秋さんは、元々徳川家康に恩義があり、心情的には初めから東軍でした。

たまたまタイミングが悪くて、西軍の中の取り残されたに過ぎなかったのです。

その為、西軍の部隊として振舞わないと、孤立した彼らに生き残る術はなく、

止む無くそうしたに過ぎません。

つまり、彼は土壇場になって裏切った訳ではなく、

関ケ原では最初から最後まで東軍側として戦っており、

当時の常識からしても、裏切り者と扱われる様な行動は取っていません。

関ケ原はある意味、東軍による小早川秀秋さんの為の後詰決戦だったのです。

土壇場での裏切り者は、亀井茲矩さんの様に実際に居たのですが、

彼の軍勢は5百人程度の小勢であり、

大勢に影響なしという事で、歴史家からは無視されていますね。

その亀井さんは戦後家康から加増されています。


これらの事実を後世の歴史小説家が面白おかしく改ざんしたものが、

今日、関ケ原合戦の通説となって流布しているのですから、やり切れません。

小早川秀秋さんは、あの世で血涙を流しているのではないでしょうか?

【ふざけんな!俺が日本史上最大の裏切り者だなんて!

俺は裏切りなどしていない!】


小早川秀秋さんは、前述の通り、僅か7歳で元服し、

その後の接待攻勢でアルコールを過剰摂取…

関ケ原の合戦の頃には、既に重度のアルコール依存症になっていました。

小さな子供に酒など飲ませれば体に良くない事など、

当時でも経験則上わかっていたのですが、

周りの大人達の権謀術数の犠牲になっていたと言えます。

私の知る幼い頃の秀秋さんは、蹴鞠や舞など芸の道に才を見せ、

貧者に施しをするなど優れた少年でした。

周りの大人が全てを狂わせた…と言っては言い過ぎでしょうか?


慶長7年(1602年)の10月18日、秀秋さんは僅か21歳の生涯を閉じます。

死因は肝硬変を原因とする多臓器不全でした。

子供がいなかった事から、小早川家は断絶してしまいます。

以上の様に、彼の人生は当時から全く幸せではなかったのですが、

何百年経った今でも裏切り者の代表格の様に言われるのは、不憫でなりません。

実際に実在した人物に対して、

確たる証拠もなしに裏切り者の様な不名誉なレッテルを貼る。

歴史小説の作家は、これを絶対にしてはならない。

人の名誉を汚してはならない。私は心からそう思います」


ここで授業の終了を知らせるチャイムが鳴りました。

歴史の通説というものは、必ずしも事実に基づき作られているものではなく、

時の権力者や歴史小説の作家などによって、面白おかしく捻じ曲げられている

事が多い。それで何百年も不名誉なレッテルが貼られる事がある。


いついかなる時も、確かな根拠もなしに人を貶めてはいけない。

母上はきっとこの事を私達に伝えたかったのでしょう。

私もこの事を、しっかり心に刻み込んでおきたいと思うのでした…。

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