第126話 教養授業29限目。鈴音先生、小早川秀秋を語る①。

こんにちは。如月雪音です。

さて、2月は毎年恒例の伴久旅館(平家落人村)へ温泉旅行に出かけ、

去年と同じメンバーで再び楽しい想い出を作りました。

3月に入り、間もなく後期も終わりです。

そんな中、今週も水曜日の3限目の授業が終わりました。

短い休憩時間の後、4限目開始のチャイムが鳴ると、

母上が教室にやって来ます。

「起立!」「礼!」

今週の教養授業の始まりですね!

いつもの様に母上様の優しい声が教室に響きます。


「今日は日本史の中でも有名な関ケ原の合戦、その中で裏切り者として、

21世紀の今日まで誹りを受けている小早川秀秋さんについて

語ってみたいと思います。

私は当時の戦いの流れをリアルで見る立場にいましたので、

今日の授業は彼に対する根拠なき誹謗中傷の弁護にもなります。


小早川秀秋さんは天正10年(1582年)、本能寺の変があった年に、

秀吉の正室であったねねさんの兄、木下定家の五男として生まれました。

この時の名前は木下秀俊ですね。

天正13年(1585年)に秀吉の養子となり、

秀吉の後継者候補のひとりとして育てられ、僅か7歳で元服。

この幼い秀吉の後継者候補に取り入ろうと、

周囲の者が接待攻勢を掛けた為、この頃から酒を飲むようになります。

彼はのちに僅か21歳で病死しますが、この様な幼い頃からの飲酒が

大きな原因になっていると思います。


その秀俊さんの人生に大きな変化が起きたのは、

文禄2年(1593年)に豊臣秀頼さんが生まれた時です。

この事によって秀吉の後継者候補から追われる形となった

秀俊さんは、有名な小早川隆景さんの養子となり、

小早川家を引継ぎ、九州の筑前名島33万石の大名となります。


その後、慶長2年(1597年)2月、秀吉の命により朝鮮半島に出陣、

慶長の役に従軍しますが、この年の6月12日に養父の小早川隆景さんが亡くなり、

この時に小早川秀秋と改名します。その年の終わりには秀吉から帰国命令を受け、

翌年、慶長3年の1月末に帰国しますが、

ここで彼は秀吉から、越前北ノ庄15万石への減封転封命令を受けます。

これは朝鮮出兵の為の戦略拠点である筑前を、

豊臣家の直轄地にする為だったのですが、

秀秋さんは大きく減封され結果、多くの家臣を解雇せざるを得なくなり、

これを理不尽に思っていました。

その上、豊臣の直轄地となった筑前名島の代官をしたのは、

石田三成さんですから、三成さんに良い感情は持っていなかったでしょう。

そしてこの年の8月に秀吉が亡くなります。


秀吉が亡くなった後の豊臣政権の運営は、徳川家康さんを中心として行われ、

その結果、慶長4年(1599年)2月5日付で、小早川秀秋さんは、

元々領していた筑前の大名に返り咲きます。

所領も以前の33万石から59万石へ大きく加増されていますから、

秀秋さんが徳川家康に恩義を感じたのは間違いありません。

これまで話したいきさつからもわかる通り、秀秋さんは豊臣直系ではありますが、

自分を追いやった豊臣秀頼さんに親近感などなく、石田三成の事は大嫌いでした。

私は秀秋さんが亡くなるまで、何度かお見舞いに行き、

直接ご本人から聞いていますから、間違いありませんね。


慶長5年(1600年)、6月、上杉討伐の為に徳川家康さんが出陣すると、

秀秋さんもそれに合力すべく、8千の兵を率いて出陣します。

ところが大阪(当時は大坂)に来たあたりで

西軍の挙兵に巻き込まれてしまいます。

当初は伏見城に入城して、

徳川家臣の鳥居元忠さんと一緒に戦おうとした様ですが、

これは元忠さんに断られました。この時周りは全て西軍だらけですから、

小早川勢だけでこれに対抗する術はなく、

やむなく秀秋さんは西軍の伏見城攻めに参加します。

8月1日に伏見城が落城すると、秀秋さんは一旦大阪に戻ります。

その後東軍側についていた琵琶湖の南西の安濃津(あのつ)城攻撃に

少しだけ参加しますが、途中で離脱し、その後は琵琶湖の南の石部に向かい、

更に鈴鹿峠を越えて、伊勢の関まで向かいます。

しかし8月25日には安濃津が落城し、

南近江と伊勢方面がほぼ西軍側に抑えられた事、

相前後して黒田長政、山岡景友等の東軍側の使者により、

家康本隊の美濃着陣が近い事を知った事から、

秀秋さんはUターンして琵琶湖の南の日野に向かい、

琵琶湖の東、高宮から、さらに東の柏原に向かいます。

この柏原から北東へ向かって中山道を7㎞進むと関ケ原に出ます。


ここまでの秀秋さんの動きが意味不明で、

西軍に付くのか東軍に付くのか決めあぐねた上での右往左往であるとする説が、

今日でも有力視されている様ですが、

私に言わせればこれは東軍への合流を如何に果たすか?という目的の為の

動きであったと言う事になります。当初は伊勢方面から尾張に向かって

東軍合流を目指していたが、伊勢が西軍に抑えられた為、琵琶湖の南から

東岸を目指し、中山道から関ケ原経由で東軍に合流を目指したと見れば、

極めて自然ですから。


当初西軍側は、小早川勢を伊勢方面軍に組入れるつもりだったのですが、

小早川勢が反転して琵琶湖の東へ向かった事から、その動向に疑念を持ちます。

戸田重政を詰問の使者として送っていますね。

これに対して秀秋さんは、東軍側に付くつもりはない、その証拠として、

先鋒隊を大垣城に派遣すると回答し、約8百人の部隊を大垣へ先行させました。

8月29日付の保科正光(遠江城在番)の書状によると、大垣城籠城部隊の中に

小早川勢がいる事がわかりますから、この頃はまだ言い訳が通じていた様です。

何しろ小早川勢は、この時点では西軍勢力内で孤立していますから、

下手をすると西軍諸隊に袋叩きにされかねません。

西軍の大きな問題のひとつは、この秀秋さんの様に、心情的に初めから東軍側に

付こうとしている部隊を、無理やり西軍側に編入する様なやり方を取った事です。

これは軍事的にはタブーです。敵か味方かはっきりしない部隊を戦力として

カウントするくらいなら、はっきり敵として認識して早期に排除する…。

これが出来ていませんね。


さて、柏原に着陣し、成菩提院というお寺を本陣とした秀秋さんは、

ここで東軍合流のチャンスを伺います。この時の成菩提院は、

天海上人の兄弟子にあたる裕円さんが住職でしたから、

徳川家に縁の深いお寺に来ているあたり、

東軍と密接に情報のやりとりをしていたのでしょう。

この少し先の関ケ原には、伊東盛正の守る松尾山城、

その先の南宮山の麓に毛利方の毛利秀元、安国寺恵瓊、吉川広家、

長宗我部盛親、更にその先の大垣城には石田三成、宇喜多秀家、

小西行長、島津義弘…。

西軍に属する部隊が沢山展開しており、家康の本隊が来るまでは

西軍側である事を偽装しておかないと、小早川勢は悲惨な事になります。


この頃小早川勢がどう見られていたか…これは関ケ原合戦当時、

大垣城の在番衆をしていた南九州の小大名、

相良(さがら)頼房、秋月種長、高橋元種の動きを見ているとわかります。

元々彼らは、西軍の最終防衛ラインである瀬田橋の在番をしていたのですが、

石田三成の大垣入城要請により、

8月25日に瀬田橋を出発、9月3日に佐和山城に入ります。

瀬田橋から佐和山城までは52㎞くらいの距離なので、

普通に行けば2日もあれば到着するはずなのですが、

実際の到着が9月3日なのは、そうならざるを得ない理由があった…

つまり得体の知れない小早川勢を警戒しながら進んだからなのですね。

彼らは3部隊合計でも千人余りしかいなかったので、これは仕方ありません。

この後佐和山城を出発した彼らは、

南に大回りして白瀬峠という鈴鹿山脈の険しい峠を越え、大垣城に入るのですが、

常識的に大垣に向かう経路として中山道を利用しなかったのは、

その中山道の途中の柏原に小早川勢が居たからに他なりません。

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