第125話 教養授業28限目。鈴音先生、日本人の脳を語る。

期末試験が終わって授業が平常に復帰した、1月も終わりの寒い日。

水曜日の3限目の授業が終わった。

短い休憩時間の後、4限目開始のチャイムが鳴ってまもなく、

教室に鈴音先生が入って来た。

「起立!」「礼!」

今週の教養授業の始まりである。


「今日は日本人の脳の不思議な特性に関して語ってみたいと思います。

この事は一般的には殆ど知られていませんが、日本人の自然観や文化と

大きく関わっていると思いますので、是非知っておいて欲しいと思います。


東京医科歯科大学の角田忠信教授が、1987年1月にキューバの

ハバナで開かれた、「中枢神経系の病態生理学とその代償」

という国際会議に参加した時の事です。会場では、

キューバ人の研究者がスペイン語で熱弁を奮っていたのですが、

角田教授は周囲の蝉しぐれの様な虫の声が気になって、

中々その研究者の話に集中する事が出来ずにいました。

こんなに虫の声がするとは、流石に熱帯の国だな…

と教授は思い、発表の後で周りの参加者に、

「なんという名前の虫の声ですか?」と聞いたのですが、

誰もそんな声は聴こえないと言ったそうです。

その会議が終了し、夜になってから角田教授は、

車で同僚の2人のキューバ人と車で帰途についたのですが、

静かな夜道では昼間以上に激しく虫の声が聴こえます。

教授はキューバ人の同僚に、再び何と言う虫の鳴き声かと尋ねますが、

彼らにはその虫の声が全く聴こえていない様子でした。

2人の内1人は、3日後にその声に気付いたそうですが、

もう1人は一週間経っても理解出来なかったそうです。


この現象から角田教授は、

【もしかして、日本人と外国人では、虫の声の聴こえ方が違うのではないか?】

と思い立ち、日本に帰国してから研究する事にしました。

そして、その結果は驚くべきものだったのです。


人間の脳は右脳と左脳に分かれており、それぞれ働きが違います。

右脳は音楽脳と呼ばれ、音や雑音を処理します。

対して左脳は言語脳と呼ばれ、言語や論理的思考を処理します。

この働き方そのものは、日本人でも外国人でも同じです。


ところが、母音、泣き・笑い・嘆き、虫や動物の鳴き声、

波、風、雨の音、小川のせせらぎ、邦楽器音等の音に関しては、

日本人は言語を司る左脳で処理、

対して外国人は音を司る右脳で処理していたのです。

つまり、日本人は、音の一部を「声や言語」として認識しているのですね。

考えてみると、英語で人の声は【Voice】、

それ以外の音は【Sound】、と明確に区別されています。

対して、日本語の【声】は、人間の声だけに

限定されているものではないですよね。

世界中の様々な人種でこの脳内処理の特性を調査した所、

この様な脳内処理を行うのは、何と日本人とポリネシア人だけだったそうです。

また同じ日本人でも、幼い頃から外国語を母国語として育った場合は、

他の外国人と同じ脳内処理になる事から、これは人種や遺伝による違いではなく、【日本語】【ポリネシア語】を母国語として

育つかどうかであるという事になります。同時に人間の脳は、

成長する過程で処理系統の変化が起きるという事も示しています。


何故日本語を母国語にすると、この様な脳内処理の変化が起きるのか?

これは現在の科学、医学では説明出来ません。

思うに日本語が出来上がる過程で、日本人の持つ自然観というものが、

大きく影響したのではないかと思います。

生きとし生けるものは全て自然の一部である…人に声がある様に、

全ての生き物や、風、雨、海、空、雲、山、川、波にさえ声がある…。

日本語を学ぶ過程において、日本人は知らず知らずの内に、

そうした自然観を体得しているのでしょう。


そのせいなのだと思いますが、

日本語は擬声語や擬音語が非常に発達した言葉です。

雨がしとしと降る、ザブンと波の音がする、川がさらさら流れる…。

こういう表現は日本語独特のもので、

外国語でこの感覚を伝えるのは大変難しかったりします。

せせらぎ、木洩れ日…こういう日本語独特の表現も合わせると、

日本人の持つ自然観には、非常に奥深いものがあると思いますね。

ちなみに海外では、木洩れ日は以下の様に説明されています。

This word refers to the sunlight shining through the leaves of trees,

creating a sort of dance between the light and the leaves.

【この(木漏れ日という)言葉は、木の葉の間に輝く日の光、

そしてそこに創出されるダンスのようなものを指している】

でも、こういう内容で説明して、果たしてその感覚は

正しく伝わっているのでしょうか?


【閑さや、岩にしみ入る蝉の声】

山形県にある立正寺で、松尾芭蕉が読んだこの名句を

心から味わう事が出来るのは、日本人に生まれた贅沢であると言えます」


ここで授業の終了を告げるチャイムがなった。

世の中の音の一部を声として認識する…日本人なら極当たり前な事が、

世界的に見ると極めて異例で、例外的なものである…。

今日の鈴音先生の授業は、俺(大橋)にとっては、まさに眼から鱗であった。

確かに日本語にある擬声語や擬音語の感覚を外国人に伝えるのは、

かなり難しそうだ。漫画なんかはかなりの擬声語や擬音語が使われるが、

ああいうのをそのまま外国に出した場合、外国人はどう感じているのだろう?

せせらぎとか、木枯らし、わびさび、もののあわれとか、

英語だとどう訳するのだろう?

今度調べてみるのも面白いか、と思う俺なのであった…。

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