第91話 走れメロス!…じゃなくて坂口安吾!

坂口安吾は激怒した。

必ず、かの邪知暴虐の魔王を除かなければならぬと決意した。

安吾には政治がわからぬ。

安吾は、街の猥褻(わいせつ)な作家である。

湯豆腐をつつき、猫と戯れて暮して来た。

けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。

きょう未明安吾は東京の街を出発し、

新線線に乗り、300㌔はなれたこの尾張名古屋の街にやって来た。


安吾には父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。

この妹は、街の或る律気な作家を、近々、花婿として迎える事になっていた。

結婚式も間近かなのである。安吾は、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の

御馳走やらを買いに、尾張名古屋にやって来たのだ。先ず、その品々を買い集め、それから名古屋の大路をぶらぶら歩いた。安吾にはひとりの悪友があった。

太宰治である。今は此の尾張名古屋で、卑猥な作家をしている。

その悪友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。

彼が好む清酒、【玉川上水】も購入済みだ。

久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。

歩いているうちに安吾は、街の様子を怪しく思った。ひっそりしている。

もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、

夜のせいばかりでは無く、街全体が、やけに寂しい。


猥褻(わいせつ)な安吾も、だんだん不安になって来た。

街で逢った二十(はたち)の美女をつかまえて、何かあったのか、

二年まえに此の街に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、

まちは賑やか且つ卑猥(ひわい)であった筈だが、と質問した。

二十の美女は、無言のまま安吾の頬を激しく叩くと、立ち去って行った。

暫くすると、もう少し若い十六(じゅうろく)の美少女の出逢った。

こんどはもっと、語勢を強くして質問した。美少女は答えなかった。

安吾は両手で美少女のからだをゆすぶって質問を重ねた。美少女は、

あたりをはばかる低声で、わずか答えた。


「第六天魔王は、人を殺します」

「なぜ殺すのだ」

「悪心を抱いている、というのですが、

誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ」

「たくさんの人を殺したのか」

「はい、はじめは第六天魔王様の弟さまを。それから、妹さまの旦那様を。

それから、多くのなまぐさ坊主さまを。

それから、一向宗の門徒を。それから、賢臣佐久間信盛さまを」

「おどろいた。魔王は乱心か」

「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。

このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました」


聞いて、安吾は激怒した。「呆れた魔王だ。生かして置けぬ」

安吾は、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、

のそのそ清洲城にはいって行った。

たちまち彼は、巡邏の警吏に捕縛された。調べられて、

安吾の懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。

安吾は、魔王の前に引き出された。


「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」

第六天魔王、織田信長は静かに、けれども威厳を以て問いつめた。

その魔王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。

「街を暴君の手から救うのだ」と安吾は悪びれずに答えた。


「おまえがか?」魔王は、憫笑した。

「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ」

「言うな!」と安吾は、いきり立って反駁した。

「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。

魔王は、民の忠誠をさえ疑って居られる」


「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。

人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。

信じては、ならぬ」暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。

「わしだって、心から天下統一を望んでいるのだが」


「なんの為の天下統一だ。自分の地位を守る為か」こんどは安吾が嘲笑した。

「罪の無い人を殺して、何が天下統一だ」


「だまれ、猥褻(わいせつ)の者」魔王は、さっと顔を挙げて報いた。

「口では、どんな清らかな事でも言える。

わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。

おまえだって、いまに、磔になってから、泣いて、

もっとストリップが見たかったと詫びたって、聞かぬぞ」


「ああ、魔王は利口だ。己惚れているがよい。

私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、魔王は足もとに視線を落し瞬時ためらい、

「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。

三日のうちに、私は街で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます」


「ばかな」と暴君は、しわがれた声で低く笑った。

「とんでもない嘘言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか」


「そうです。帰って来るのです」安吾は必死で言い張った。

「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。

妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、

よろしい、この街に太宰治という作家がいます。私の悪友だ。

あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、

三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、

あの悪友を川に放り込んで下さい。たのむ、そうして下さい」


それを聞いて魔王は、残虐な気持で、そっとほくそ笑んだ。

生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。

この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。

そうして身代りの男を、三日後に川に放り込んでやるのも気味がいい。

人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、

その身代りの男を、川で入水刑に処してやるのだ。世の中の、

正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。


「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。

三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、

きっと川にぶち込むぞ。ちょっとおくれて来るがいい。

おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ」


「なに、何をおっしゃる」


「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。

おまえの心は、わかっているぞ」

安吾は口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。


悪友、太宰治は、深夜、清洲城に召された。

暴君織田信長の面前で、悪友と悪友は、二年ぶりで相逢うた。

安吾は、悪友に一切の事情を語った。太宰治は無言で頷き、

安吾の首を絞めた。安吾は、死んだ。


直後、太宰治は、さも残念そうに、ボツリ…と呟いた。

「嗚呼!哀れなりし、坂口くん。もし君が絶世の美女であつたなら、

僕は入水もいとわぬと言ふのに。

せっかくだから、この清酒、【玉川上水】は、僕が貰ってあげやう。

グッド・バイ!」


                       おしまい!


「うむ、次の早苗祭の演劇用に1本原作を書いてみたが、

走れ安吾!というタイトルの割に、安吾はちっとも

走っておらぬではないか。これはもう少し推敲がいるのう…」


真っ赤な夕日が照らす国際堕落研究会の部室では、

三島由紀夫がひとり呟きながら、再び筆を走らせ始めた…。




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