第86話 クレオパトラ、エルヴィン・ロンメルを語る。

水曜日の3限目の授業が終わった。短い休憩時間の後、

4限目開始のチャイムが鳴ってまもなく、

教室に鈴音先生とクレオパトラさんが入って来た。

「起立!」「礼!」

挨拶が済むと、鈴音先生は教壇横にある教師用の椅子に座る。

今日はクレオパトラさんが授業し、鈴音先生は聴講する様だ。

教壇に立ったクレオパトラさんは、いつものなまめかしい、

艶やかな声で話し始めた。


「今日はわらわの知る歴史上の興味深い人物…

ドイツ陸軍のエルヴィン・ロンメル元帥について話してやろう。

それと同時に人間の向き不向き、人材の活用、

合わせて大局観というものについて考えて欲しいと思うのじゃ。


ロンメルは1940年のフランス電撃戦で装甲師団を率いて大活躍し、

その実績により抜擢され、1941年2月に、ドイツアフリカ軍団の司令官として

北アフリカのトリポリに赴任する。今のリビアのあたりじゃな。


もともとこのあたりはイタリアの植民地だったのじゃが、

イタリアは1940年9月、イギリス領エジプトに攻め込み、

逆にイギリスにボコられて惨敗、イギリスから逆侵攻を受けて

トブルク、ベンガジという北アフリカの重要拠点を奪われてしまった。

このままでは政権が持たないと考えたイタリアのムッソリーニは

ヒトラーに泣きつき、これによりドイツは渋々ではあるが、

北アフリカのイタリア軍を救援する事になった。

この為編成されたのがドイツアフリカ軍団という訳じゃ。


さて、この当時の北アフリカは、ドイツにとって戦略的に重要な場所ではないし、

この約4カ月後に開始される独ソ戦に戦力を集中する意味合いもあって、

ロンメルに命じられた任務は極めて保守的な防衛戦を行う事じゃった。

北アフリカに残されたイタリアの拠点、トリポリをイギリスから防衛する事。

たったそれだけじゃ。

イギリス軍が侵攻して来た場合は、トリポリから約400㌔東にある

シルテという場所でこれを迎撃する。

当時のイギリス軍の主要補給拠点であるトブルクから

シルテまでは距離にして約800㌔、トリポリまでは約1,200㌔。

補給の面でもドイツ側が有利で、これなら十分可能であろうと

ドイツ参謀本部は考えたのじゃな。


ところが何を考えたのか、ロンメルはこの参謀本部の命令を無視し、

着任するとすぐ攻勢作戦を開始、2カ月後にはトリポリから

東に約1,000㌔離れたイギリス軍の拠点、ベンガジを陥落させた。

しかもここで留まる事をせず、更に東に200㌔離れた

トブルクも攻撃して、これも陥落させた。

攻撃は最大の防御なり…を地でいった訳じゃが、

ドイツ側の補給拠点であるトリポリからトブルクまでは

片道1,200㌔もの距離がある。この時代の軍隊というものは、

きちんとした補給が継続出来なければ戦い続ける事は出来ない…。

何せ補給物資の90%は武器、弾薬、各種燃料じゃからな。

ベンガジやトブルクには港もあったから、ロンメルはここに輸送船を送って

補給が出来ると考えた様じゃが、両方とも十分な港湾施設がなかった。

いくら船が着いても荷揚げが出来ないのでは意味がない。

埠頭やクレーン、大型船でも入れる十分な海の深さ…

これらがベンガジやトブルクにはなかったのじゃ。


結局ドイツ軍はトブルクから西へ1,200㌔も離れたトリポリからトラックで補給を

行う羽目になる。ロンメルはイギリス軍から鹵獲した武器弾薬、燃料を使って

糊口をしのいだが、その様なものは使えばいずれなくなる。


その上、弱体なイタリア海軍は、地中海に浮かぶマルタ島…

イタリア半島から目と鼻の先にある小さな島のイギリス軍すら撃退できず、

ここに展開するイギリス空軍がドイツとイタリアの輸送船団を攻撃していた。

これではますます補給が届かない。


一方イギリスはスエズ運河経由で本国やアメリカから潤沢な補給を

受ける事が出来た。ドイツとの戦いでの損耗も十分補充が出来たのじゃ。

この様な状況にも関わらず、ロンメルは更に東に向け進撃を継続、

トリポリから1,800㌔…実に北海道から鹿児島までの距離に相当…

も離れたエルアラメインに侵攻、

1942年10月~11月の第二次エルアラメインの戦いで

ついにイギリス軍に完敗し、退却する。

潤沢な補給…しかも補給拠点から戦場が近いイギリス軍。

対するドイツ軍はイギリス軍の真逆、これでは結果は明らかじゃな。

以降、ドイツアフリカ軍団は良い所なく敗走を続け、

1943年5月に降伏して、北アフリカからドイツ、イタリアの枢軸国は駆逐された…。


以上がざっくりした北アフリカでのドイツアフリカ軍団、ロンメルの戦いじゃが、

ロンメルがエルアラメインで敗れるまで、不十分な補給、

相手よりも劣勢な戦力を持ってイギリス軍を撃破し続けたのは事実じゃ…。

これを詳しく語ると何時間もの話になるので省くが、

野戦軍の前線指揮官としてのロンメルが、常に的確に戦況を分析し、

自ら率先垂範指揮するタイプの名将であった事は疑いなく、

故に敵味方から【砂漠の狐】と呼ばれ、怖れられると共に大いに尊敬された。


しかしのう…。この戦い程、人材というものの活用の仕方、

大局観というものの持ち方…を考えさせてくれる例も少ない。


ロンメルはかつて上司である陸軍参謀総長ハルダーから、

『命令違反の常習者で、気の狂った将軍』と評された事がある。

当時のドイツ軍は、前線指揮官に大きな権限が与えられており、

ある程度の独断専行は許される…その様な組織であったが、

ロンメルのそれは度を越したものだった様じゃな。


実際、アフリカでのロンメルは、参謀本部の命令を殆ど無視しておる。

北アフリカはドイツにとって戦略的に重要な場所ではなく、

大戦略的には防衛に徹しておれば良かったのじゃ。


しかし、ロンメルの行った攻勢の為、本来防衛の為だけなら必要は

なかったであろう、莫大な戦力、物資を、ドイツは追加で

北アフリカに補給しなくてはならなかった…。

これらの戦力や物資は、本来ドイツにとっての最重要作戦で

あった独ソ戦にこそ回されるべきであったろう。

もっと言えば、この様な作戦は凡庸で命令に忠実なタイプの将官を

充てるべきであり、ロンメルも独ソ戦に投入してこそ、本来の才能を

発揮し、より活躍したのではないかと思うのは、わらわばかりではあるまい。


ロンメルは野戦軍の前線指揮官としては、世界史に名を残す

レベルの名将じゃが、大きな大局観…戦略眼を持つ人物ではなかった。

そうしてその様な人物を上手く評価し、使いこなす能力が

当時のドイツ陸軍にはなかった…という事になろうのう。


ひとにはそれぞれ向き、不向きというものがある。

優れた才能も使いようによっては生きも死にもする。

お主達も社会に出て後、その様な立場になった時、

今話した内容を思い出すべきと余は思うのじゃ…。


エルヴィン・ロンメルは、1944年10月14日、

ヒトラー暗殺計画に加担した事を理由に、服毒自殺を強要される。

自ら命を絶てば、国家の英雄として国葬を行う…。

逆らえば反逆罪で家族共々死刑…。

あ奴は家族の命を守る為に、自ら死を選んだのじゃ…。

人間的には尊敬に足る、偉大な漢であった。

恵まれた環境において戦えば、ナポレオンやカエサル、

スピキオとも互角に戦ったであろう、

偉大な軍人に敬礼して、今日の授業を終えるとしよう」


ここで授業の終了を知らせるチャイムが鳴った。


砂漠の狐…神出鬼没で敵を翻弄し、機略を持って

劣勢を跳ね返す…そういう事ににおいては

まさに天才といって良い、偉大な戦術指揮官…。

俺の中でのロンメルはそういう人物だった。

彼には確かに足りない部分があったのだが、

そういう部分も含めてロンメルの魅力だと思うのは、俺だけだろうか?

一芸に秀でた天才というものは、皆、彼の様なタイプの様な気がする。

その悲劇的な最後も含め、改めてロンメルの伝記でも読んでみようかと

思う俺(大橋)なのだった…。

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