第80話 教養授業19限目。鈴音先生、孫子の兵法を語る。

こんにちは。如月雪音です。

今週も水曜日の3限目の授業が終わりました。

短い休憩時間の後、4限目開始のチャイムが鳴ると、

母上が教室にやって来ます。

「起立!」「礼!」

今週の教養授業の始まりですね!

いつもの様に母上様の優しい声が教室に響きます。


「今日は皆さんの様な高校生の時代に、是非知っておきたい世界的名著、

【孫子の兵法】に関してお話したいと思います。

この書物は今から約2500年前の春秋戦国時代、

中国の呉の国にいた孫武によって書かれたと言われています。


この書物が今日でも尊ばれ、愛読されている理由は、

ビジネス、スポーツ、受験、株式投資やギャンブル等、

人生のあらゆる勝負所で応用が利く基本原則を網羅しているからです。

これから人生の勝負所に進むであろう皆さんには、

是非知っておいて欲しいなぁ~と思います。


さて、孫子の兵法は、始計編から全13篇の構成であり、

ひとつずつ解説するととても長くなってしまうので、

重要な7つのパートに分けてお話します。


それでは重要パートその①です。

ここで孫子が述べているのは、

【勝つ事よりも負けない体制の確立】です。

野球の名監督、故野村克也さんの名セリフに、

『勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし』

というのがありますが、この言葉はまさに孫子の

考えそのものだと言えます。


これは実力の伯仲したスポーツチーム同士の試合を見ていると

良くわかりますが、大抵ミスをした方が負けるのですね。

つまり多くの勝負事は勝因ではなく、敗因…ミスで決まるのです。

勝つかどうかは相手次第の所もありますが、

負けは大抵自分自身に原因があるのですよ。

なので孫子は出来るだけ努力して自分側の原因…敗因となるであろう

要素を消込み、まずは負けない体制を作れと言っているのです。

そうすれば、相手のミスに付け込んで勝利出来るのだと…。


その②は【短期決戦を目指せ!】です。

戦いが長引けばその分多くの費用がかかり、民は疲弊し、国力は衰退する。

そうすると今度は新たな敵に付け込まれる事になります。

【兵は拙速を尊ぶ】…多少雑になってでも、短期で勝負を決めなさい!

古来より長期戦で益が出た事などない…と孫子は言っているのです。

これは戦争もそうですが、受験等でも考えるべきことでしょうね。


その③は【勝利の条件を整えよ!】

ここは大きく5つの内容に分かれています。


その1.戦って良い時か悪い時かを見極めよ…。

【己を知り敵を知れば100戦して危うからず】と孫子は言います。

要は自分の状況と敵の状況を良く理解、観察し、戦機を見極めなさい、

闇雲に突っ込むのは駄目だ…そういう事ですね。


その2.大軍と小軍の使い分け。

これは物量戦術でいくのか、少数精鋭でいくのかを見極めなさいと

言っているのです。大軍同士の戦いであれば物量が重要ですし、

敵をかく乱するなら少数精鋭の方が向いています。


その3.組織の心をひとつにせよ!

戦いの意義が指揮官から末端の兵士に至るまでしっかり浸透しないと、

高い士気にはなりません。生きるか死ぬかの戦いにおいて、

兵の士気が低いというのは致命的です。指揮官は兵士に背中を見せ、

自ら率先する姿を示す必要があります。


その4.戦いの準備を整える。

これは常日頃からいつでも戦える準備をしておきなさいという意味です。

敵が隙をみせたのに、自分の準備が整っていない為に戦えない…。

これでは駄目だと言っている訳です。


その5.余計な干渉をしない。

これはと思う人物に任せたのであれば、余計な干渉をするなと

孫子は言っています。なんでも自分で決済する様な社長がいると、

その企業は成長が難しい…良く言われる話ですね。

受験でも親が子供に必要以上に干渉すると、良い結果にはならないでしょう。


重要パートその④

【相手を欺け!】

【兵は詭道なり】…戦いは相手との騙し合いであると孫子は言っています。

出来るのに出来ないふりをする、仲が良いのに悪いふりをする。

近づいているのに、遠ざかっている様に見せかける…。

相手に自分の実力を過小評価させ、自分を相手の視界から消し、油断させる。

これが大事なのですね。はったりなんかは相手に自分を大きく見せる行為ですが、

こんなものは何の役にも立たない…。孫子はそう言っているのです。


重要パートその⑤

【数学的思考を取り入れよ!】

敵の各種生産力、人口、兵士の数、馬の数…要は

事実と数字を持って現実を見なさい…と言っているのです。

孫子の書かれた時代は、おまじないや占いで戦争の是非を

決めていた頃です。この時代に客観的数字で勝敗の見込を付けろ…と

言っているのですから、かなり革新的な考え方だと言えます。

孫子が厳に戒めているのは、

【やってみないとわからないだろう?】的な考え方。

国家の存亡がかかる戦争という危険な行為をするのに、

客観性のない思い込みでは駄目だと言っているのですね。

これが出来ていない企業経営者は今日でも沢山います。


その⑥【行動選択の幅を広げる】

味方が相手の10倍いれば包囲し、5倍なら正面攻撃を仕掛け、

2倍なら分断し、互角なら必死に応戦する。

相手より劣る場合は退却し、そもそも勝つ見込がないのなら、

初めから戦わない。自分と相手の状況によってどう対応するのか、

行動の選択肢を予め広く用意しなさいと言っているのですね。


その⑦【情報に投資せよ】

情報を得るのにお金をケチってはいけない。

戦いにおける情報の圧倒的重要性を説いています。

相手の情報を盗み取り、自分の情報は漏らさない…。

今の日本の様なスパイ天国では駄目だと言っているのです。


以上7つが【孫子の兵法】の基本的考え方です。

そうして孫子は纏めとしてこう言っています。

【100戦100勝は善の善なる者に非ざるなり】

100戦100勝は最善手ではない…と。


相手を叩き潰す…プライドも何もズタズタにして降伏させる。

この様な誰にでもわかる大勝は、相手の恨みを買う上に余計な費用が掛かり、

相手がズタボロになるので賠償金も取れず、将来的にも碌な結果を生まない。


【戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり】

つまり真の名将とは、戦わずに相手を屈服させる者だと…。


勝利を得る者は戦う前から勝利を得て戦う。

敗れる者は戦いを始めてから勝利を得ようとする。

故に真の名将の戦いというものは派手さもなく、目立つ事もない。

髪の毛が持てると言っても誰も力持ちだとは言わないし、

月や太陽が見えるからと言って、誰も眼が良いとは思わない。

この様に極めて自然に勝利する者こそ、真の名将なのだ…。


さて、ここまでの話で、皆さんは何を思われたでしょう。

孫子の兵法全体に流れる思想は、兵法書として書かれたにも

関わらず、全く好戦的ではないという所と、

そして当時としては信じられない、

現代でも通用する徹底的な合理主義です。


負けると思えば恥も外聞もなく逃げなさい。

36計逃げるに如かず、どこまでもどこまでも逃げて生き延びて、

いつか巡って来るチャンスに備えなさい。

常日頃、いつチャンスが来ても良い様に備え、準備をしなさい。

臥薪嘗胆、自己研鑽、そして決して希望を失ってはいけない。

最終的に戦いに勝利する姿勢とは、そういうものなのです…。


それでは、ここから先は質疑応答の時間にしたいと思います。

手を挙げ、出席番号と名前を言って質問して下さい。

それから授業に関係のない質問はしない事。では宜しくお願いします」


「出席番号20番、レイモンド・スプールアンスです。

先生は20世紀のアメリカの戦略を孫子から見て如何に考えられますか?」


それを聞いた母上は、少し考えられてから答えました。


「20世紀のアメリカは、純軍事面において概ね孫子の兵法に忠実です。

恐らくは世界中の国の中で、孫子に最も忠実だったと思います。

ですから、殆どあらゆる戦争に勝利しました。

朝鮮戦争やベトナム戦争、アフガニスタンでは中途半端な結果に

終わっていますが、アメリカが本当に本気を出せば、

最終的な勝利はやはりアメリカのものだったでしょう。


ただ、政治面においては孫子に忠実とは言えず、

大小の失敗をいくつもやらかし、

今日の世界の混乱の大きな原因を作っています。

最大の失策は、第二次世界大戦でソ連に肩入れし過ぎた事と、

日本を完膚なきまでに叩き潰した事です。


ナチスドイツとソ連がもっと長く戦っていれば、

ソ連は史実より疲弊し、戦後の冷戦を回避する事が出来たでしょうし、

日本をあそこまで叩き潰さなければ、今日これ程までに中国が歪な発展を

遂げる事もなく、故に極東方面にかかる軍事費用も大きく削減出来たはずです。


相手を叩き過ぎた事…特に日本との戦争は、その後の朝鮮戦争や

ベトナム戦争、中国の膨張、北朝鮮の核開発等を考えると、

全く意味がないどころか、大きなマイナスでした。

話が通じる相手とそうでない相手を見誤ったのです。

今となってはもはや取り返しがつきません。


アメリカは孫子で言う所の、100戦100勝型を目指し過ぎ、

相手を徹底的に叩き潰す事を好む軍産複合体を巨大化させてしまいました。

今や世界中から相当な恨みを買っていますから、これから先は心配ですね…」


ここで授業終了を告げるチャイムがなりました。

「起立!礼!」母上様が春風の様に教室を出て行きます。


と、ほぼ同時に前の席のビル・G君が、私の方に振り返って話し始めました。


「オゥ~ミス雪音~。今日のミス鈴音の話は非常に参考にナリマシタ!

今、世界征服研究会で開発中のAIソフト、【ミスター・スポック】ニモ、

ゼヒ孫子の思考ルーチンを取り入れたいとオモイマス。

より完璧なものに仕上がるデショウ」


はて、【ミスター・スポック】って、どんなソフトなのでしょう……?

私は首をかしげるのでした…。

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