第77話 教養授業17限目。鈴音先生、ラッセルを語る。

水曜日の3限目の授業が終わった。短い休憩時間の後、

4限目開始のチャイムが鳴ってまもなく、

教室に鈴音先生が入って来た。

「起立!」「礼!」

今週の教養授業の始まりである。


「ここ最近の教養授業で、ニーチェ、フランクルを解説してきましたが、

今日はこれらで学んだ事を前提に知ると、非常に有意義な、

バートランド・ラッセルの幸福論についてお話したいと思います。


彼の著作【幸福論】は、世界三大幸福論のひとつと呼ばれています。

今日、ちまたには様々な幸福に関する本が溢れていますが、

これらを手に取る前に、まず彼の幸福論を知っておく事は、

非常に有意義な事だと思います。


では、前提として彼…バートランド・ラッセルの生い立ちについて

少しお話しておきましょう。

バートランド・ラッセルは1872年、イギリスの名門貴族の息子として生まれます。

しかし彼が2歳の時に母が亡くなり、4歳の時に父も死去した為、

祖母によって養育される事になります。

ラッセルの家系は清教徒…プロテスタントのピューリタンだったのですが、

この祖母は倹約と勤労を重視する典型的なピューリタンで、

大変厳しくラッセルを教育したのですね…。


寒い日でも毎日水風呂に入れるとか、16時までは座る事を禁ずるとか…。

勉強も学校には行かせず、専門の家庭教師を付けて徹底的にしごきました。

ラッセルは優秀だったので、この教育により名門ケンブリッジ大学へと

進学するのですが、祖母のあまりに厳しい教育の為か内向的な性格になり、

一時は自殺願望抱く等、あまり幸せとは言えない青年期を送りました。

【数学に対する好奇心のみが、この時私の唯一の救いだった】

のちに彼はそう語っています。その後は彼は、

第一次世界大戦中に過激な平和運動に走り、投獄されたりします。


さてラッセルはこののち、数学者、哲学者として成功するのですが、

その彼が1930年、58歳の時に満を持して発表したのが【幸福論】です。

それでは、彼の幸福論の中身をお話していきましょう。


ラッセルは、幸福の対極にある不幸に関してまず論じています。

そしてその不幸の原因は、【自己没頭】にあると言います。

自分の事ばかりが気になってしまう…そしてこれには

次の様なタイプがあると言っています。


ひとつは【罪人(つみびと)】

これは犯罪を犯した人と言う意味ではなく、

自分の理想と現状のギャップに悩み、自らを責め続ける人の事です。

理想を達成出来ない自分を、無価値な人間と考えてしまうのですね。

しかしラッセルは言います。

【あなたの理想とは、本当にあなたの心の根源からやって来たものなのか?

こうありなさい、こうあるべきだという幼少期からの刷り込みではないのか?】


その次は【ナルシスト】

これは他人から称賛されたい、承認されたいと過度に思う人です。

この承認欲求は、大なり小なり誰にでもあるものですが、

これが過度になると駄目だと言っているのです。

ラッセルは言います。

【過度な承認欲求は、自信のなさから来ているのではないか?】


最後は【誇大妄想狂】

人に愛されるより、怖れられる事を求め、権力に固執する人です。

しかし、これにはキリがありません。

ナポレオンはカエサルに憧れ、カエサルはアレクサンドロスに憧れ、

アレクサンドロスは存在しないヘラクレスに憧れたでしょうが、

要するに歴史上にはあなたより遥かに成功し、権力を握った者が

山ほどいるのです。

ラッセルは言います。

【自分が神であると妄信し、終わりなき欲に生きるのは、人間の在り方ではない】


次にラッセルは、不幸をもたらす3つの行動を述べます。

最初は【競争】

適度な競争は必要ですが、その競争に勝つたびにハードルは上がっていきます。

ですが次から次へやって来るハードルを越える為に、

人生の全てを犠牲にするのは幸せな事なのでしょうか?

その代価はあまりにも大き過ぎる…。

ラッセルは言います。【競争での勝利は、幸福の極一部の要因に過ぎない…】


次は【妬み】

妬みは人間の情念の中で、最も普遍的であり、かつ最も不幸なものです。

常に他者との比較を行い、その差に妬みを抱く事が幸福に繋がるでしょうか?

ラッセルは言います。

【その様な感情を持っていても不幸になるだけだ。

今すぐ妬みの感情を捨てなさい。それから過度な自己謙遜や嫌悪をやめなさい。

必要以上に自分を卑下してはいけない。自尊心というものは、人間にとって

必要なものであり、過度な謙遜は良い事でも勧められる事でもないのだ】


最後は【世評に対する怯え】

周りからの評判を気にし過ぎると、本来の自分を見失う事になります。

世評というのは犬と同じだ…。

あしらう者にはすり寄るが、怖れる者には牙をむく。

ラッセルは言います。

【世評に無関心になりなさい。これは幸福になる為の大事な技能のひとつなのだ。

それから世評によって自分の夢を諦めてはいけない。

夢は結果として実現はしないかもしれないが、それは世評ではなく、

いずれあなたが自身で自覚すべきものなのだ】


続いてラッセルは、幸福をもたらすものについて論じます。

まずひとつ目は【好奇心】

ラッセルは言います。

【好奇心が強く多くの興味の対象を持っている人間は、

ひとつの事物を失っても、別の事物に目を移すことができる。

あらゆる事物に対し興味を持つには人生は短すぎるが、

毎日の生活を満たすに足るほどの多くの興味を持つことは幸福なことである】


ふたつ目は【愛情】

ラッセルは言います。

【心から愛する人を持ち、それを自然に発露出来る人は幸福な人である】


三つ目は【仕事】

仕事は1日の退屈な時間を潰してくれるという面もありますが、

ラッセルの勧める良い仕事というのは、終わりのない進化、あるいは

その仕事の為の技能的向上が常に必要で、それが楽しめるものであると

言っています。優れた芸術作品を創るとか、他の誰にも出来ない様な、

技術の粋をこらしたものを作ったり、終わりない成長が出来る類のものです。

ラッセルは言います。

【最も大きな満足を与える目的とは、一つの成功から次の成功へと、

いつまでも死せる終点に達することなく、

限りなく導いてくれるところの目的のことである】


四つ目は、【私心のない趣味】。

・この趣味は私に何を持たらしてくれるのか?

・これをすることでどんなメリットがあるのか?

・趣味の先に何か別の目的がある。

この様な要素が一切ない、純粋に没頭できる趣味は、

人を幸せにし、辛い悲しみを癒してくれるとラッセルは述べています。


そして最後は諦め。

努力をしたからといって、全てが達成出来る訳ではありません。

幸福になるには、諦めも必要なのです。

ラッセルは言います。

【賢い人間とは、自分で防げる不幸は防ぎ、

自分ではどうしようもない不幸に対しては、

貴重な時間と感情を浪費しないように努める人間なのだ。

絶望から来る諦めは何も生まないが、仮に今は駄目であったとしても、

後に続く者が必ず未来に成し遂げてくれるであろうと言った、

不屈の希望から来る諦めは、決して否定されるべきものではない…】と。


そして最後にラッセルは老いてからの心の在り方に触れています。

【老いてからのち、人が注意すべき点、ひとつは過去への不当な執着である。

記憶に生きること、昔のよき時代を惜しみながら、

あるいは死んだ友を悲しみながら生きることはよくない。

決して易しい事ではないが、人の思想は未来へ、

それについてなすべきことのある事物へ向けられなければならない。


ふたつ目は子供達に執着する事ある。

彼らの自由や自由意志を奪ってはならない。


死の恐怖を征服するもっともよい方法は、

諸君の関心を次第に広汎かつ非個人的にしていって、

ついには自我の壁が少しずつ縮小して、諸君の生命が次第に

宇宙の生命に没入するようにすることである】


過去や子供に執着することなく、生ある限り成すべき事を考え、

夜空を見上げて宇宙の大きさを感じ、人の存在の小ささを感じ、

そして大宇宙に、その中に同化しなさい。ラッセルはそう言っているのです。


ラッセルはかなり過激な平和運動家としても知られ、

生涯4回結婚し、最後の結婚は80歳の時、

最後に投獄されたのは89歳の時です。

自由奔放に生きたラッセルだからこそ、

彼の著作には重みがあります。

彼は幸福論を書くだけではなく、自ら実践していたのですね…」


ここで授業の終了を知らせるチャイムが鳴った。

『起立!礼!』

挨拶が終わると、春風の様に鈴音先生が教室を出て行く。


鈴音先生の話を聞いた俺(大橋)は、1年の夏と冬に天体望遠鏡で見た

星々の事を思い出していた。あの色とりどりの星々の中に消えて行き、

それと同化するというのであれば、確かにそれも悪くない…。

それはその時に生まれた、自然で率直な感情だった…。

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