第76話 教養授業16限目。鈴音先生、フランクルについて語る。

水曜日の3限目の授業が終わった。短い休憩時間の後、

4限目開始のチャイムが鳴ってまもなく、

教室に鈴音先生が入って来た。

「起立!」「礼!」

今週の教養授業の始まりである。


「先日の教養授業でニーチェについて説明しましたが、

今日はそのニーチェの哲学を実践的に体現した偉大な心理学者で

精神科医、ビクトール・フランクルについてお話したいと思います。

彼は極限状況においてニーチェ哲学を実践した人物ですので、

ニーチェを学んだ後にビクトール・フランクルを学ぶ事は、

非常に意義ある事だと思います。


ビクトール・フランクルは1905年、オーストリアに生まれたユダヤ人です。

そうして、ユダヤ人である事が彼の運命に大きな悲劇をもたらす事になります。

彼の有名な著作は、【夜と霧】ですが、【夜と霧】とは、

ナチスドイツのユダヤ人連行の作戦名で、夜に発生する霧の中に

人が消える様に、静かに、そして確実にユダヤ人を拘束していく…

という意味なのですね。ナチスドイツによるユダヤ人迫害政策は、

みなさんも良く御存知かと思います。


フランクルは1941年に精神科医を開業するのですが、その翌年、

結婚9カ月目に両親、お兄さん、奥さん共々ナチスドイツに連行されます。

連行の理由はもちろん彼らがユダヤ人だからです。

それから約2年間、テレージエンシュタットという強制収容所に入れられますが、

ここで既に高齢であった彼の父親が、劣悪な環境に耐えきれず亡くなります。


その後悪名高きアウシュビッツの収容所に、4日間だけですが移されます。

この時フランクルは怖ろしいものを目撃します。

アウシュビッツに到着した列車からユダヤ人達が降りる時、

ドイツの将官らしき人物が現れ、列車から降りたユダヤ人達を

ふたつのグループに分けるのです。

フランクルはその時点ではグループ分けの意味がわからなかったのですが、

この時列車を降りたユダヤ人の90%はそのままガス室に送られ、

命を失いました。ここで彼の兄と母親が亡くなります。

実はこれは労働者として使えるかどうかの選別で、

過酷なテレージエンシュタットでの生活で、既に多くのユダヤ人が体を壊し、

やせ細っていた為、この様な結果になったのです。


フランクルは幸いな事に残り10%に選ばれ、ダッハウにある収容所に送られます。

ここで彼は再び劣悪な環境の中、強制労働に駆り立てられます。

ここに来た時、フランクルはある先輩のユダヤ人収容者から

アドバイスを受けます。それは次の様な内容でした。

【いいか、そこらに落ちているガラスの破片を使って髭を剃れ。

身だしなみを整えておくのだ。

そして歩く時はまっすぐ立って歩け。

病気になるな。病気になってもそれを悟られるな。

役に立たないと判断されたら、命を失う事になるぞ!】


ユダヤ人の収容者達は、最初は恐怖や苦しみ、悲しみに喘いでいますが、

やがてその段階を過ぎると、死の恐怖がなくなり、何が起きてもただ黙って

眺めるだけになります。周りは死体や病人だらけなのですが、もはやそれを

見ても何も感じなくなる。人はこの様な環境に閉じ込められると、

精神の崩壊を防ぐ為に、心に無関心の鎧をまとい、

自分の生命維持の為だけに生きる様になるとフランクルは書いています。

 

食べるものと言えば、殆ど具のない水の様なスープだけ。

その様な過酷な環境で朝から晩まで強制労働ですから、

食欲のみが心の大半を支配する様になり、それ以外の事は

心が全てシャットダウンする様になっていくのです。


この様な極限状態の中、ある日フランクルは奥さんの幻を見ます。

フランクルの前に現れた奥さんは、可愛らしく笑い、フランクルに答えます。

この時フランクルは僅か9カ月の結婚生活しか出来なかった奥さんとの

愛を深く自覚し、奥さんの愛と存在を極めて身近に感じます。

フランクルはこの時の事をこう書いています。


【現れた妻は、強い太陽の日差し以上に私を明るく照らしてくれた。

この時は私は、彼女が生きているかどうかもわからなかったが、

私は彼女の面影と言葉を交わした。彼女はきっと傍にいる。

そうだ、人は全てを失っても、愛さえ残っていれば、

希望を持つ事が出来るのだ…】と。

しかし悲しい事に、彼の奥さんはその頃既に別の収容所に移送され、

そこで亡くなっていました…。


さて、ダッハウ収容所で何が一番きつかったか?

これに対してフランクルはこう述べています。

【何が辛いといって、それはこの収容生活の終わり…

出口がまったく見えない事だった。

これは周りの収容者も同じ意見だった。6週間後には戦争が終わり解放される…

そんな噂が何度も飛び交っては消えていった…。

1944年のクリスマスから翌年の1月1日にかけて、それまでにない程の

大量の死者が出た。これは環境や疫病によるものではなかった。

多くの者が、今年のクリスマス…

来年の新年までには解放されると信じていたのだ。

そしてそれが誤りであった事を知った時、

もはや自分の人生には何の期待も出来ないと絶望し、

それによって自らの寿命を縮めたのだ…】


この極限状況の中で、フランクルはニーチェの哲学を思い出します。

それはニーチェの、自分の運命を肯定するという考え方です。

【この様な苦しさ、辛さに耐える為には、意義が必要だ。

人生の意義とはなんだろうか?

それは自分の人生から発せられた問いに対して答える事だ。

この苦しさ、厳しさは、人生から私に向けられた問いかけであり、

人生はこの問いに正しく答える事を私に期待している。

『さあ、君はこの私の問いにどう答えるのだ?』

そうしてこの問いに答える事こそ、自分以外の何者でもない、

自分にしか達成出来ない、唯一無二の成果なのだ。

私は今まさに人生に試されているのである】


フランクルはこう考え、自らの運命を肯定し、

何としても生きのびようと心に誓います。

考え方を180度変え、自らが人生に問うのではなく、

人生からの問いに自ら答えようとしたのです。


またフランクルはこうも考えます。

この先の未来には、きっと私を待ってくれているものがある。

人は未来で何かが自分を待ってくれていると思う事が出来れば、

それだけでも人生の意義を感じる事が出来る。

それは愛する人でも良いし、仕事でも、趣味でも何でも良い。

とにかく何かが私の事を待ってくれていると信じるのだ…と。


1945年5月のナチスドイツの降伏により、

ようやくフランクルは開放されます。

開放されたフランクルは、体調が回復すると、

僅か9日でこの【夜と霧】を執筆、出版して世界に衝撃を与えました。

その後のフランクルは心理学者、精神科医として復帰し、

ロゴセラピーと呼ばれる、生きる意味を見出す精神療法を

世界に広め、マザーテレサからノーベル平和賞に推薦される程の

活躍をしたのち、1997年、92歳で大往生を遂げます。


では最後に、ナチスドイツのブーヘンヴァルト強制収容所で、

ユダヤ人達によって歌われていた、有名な行進曲の歌詞を

皆さんにお教えして、今日の授業の締めにしたいと思います。

フランクルはこの歌詞の一部、【それでも人生にYESと言おう】を

タイトルとした本も出版していますので、今日の授業で

関心を持った人は、是非これも読んでみる事をお薦めします。


【ブーヘンヴァルトよ、私はお前を忘れる事が出来ない。

ここに来たのは、私の運命だったのだ。

ブーヘンヴァルトよ、お前を去った者だけがわかる。

自由がどれほど素晴らしいかという事を。

そうして、それはいつかきっと来る。


ブーヘンヴァルトよ、私はお前を忘れる事が出来ない。

ここに来たのは、私の運命だったのだ。

だがしかし、私はそれでも人生にYESと言おう。

なぜなら、それはきっと来るから…】


ここで授業の終了を知らせるチャイムがなった。

教室はみな無言でシーンとしている。

極限の状況を耐え抜く精神力はいかなる源から生まれるのか…。

ニーチェと合わせ、この【夜と霧】も読んでみるか…

そんな風に俺(大橋)は思うのだった…。

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