第69話 教養授業15限目。神は死んだ!鈴音先生、ニーチェを語る。
こんにちは。如月雪音です。
4月も半ばを迎え、本格的な春を迎えつつあります。
さて今週水曜日の3限目は国語の授業、
その授業の終わりに漢字の書き取り小テストがあったのですが、
私のすぐ前の席のビル・G君は漢字が苦手な様で、
大苦戦したみたいです。
授業が終わり、休憩時間に入ると、彼は私の席の方に振り返るなり、
「オゥ~ノ~~。ミス雪音…。か、神は死んだ…死にマシタ……」
そう言いながら苦悶の表情を浮かべています。
「まあ、まあ、大丈夫ですよ。ゆっくり練習すれば、
そのうち覚えられますから…」
私が慰めの言葉を掛けている内に次のチャイムが鳴り、
4限目…母上様の教養授業の時間になって、母上が教室に入って来ました。
「起立!」「礼!」
「か、神は死んだ…死にマシタ……」
ビル君はまだぶつぶつ言っています。
「ビル君、その神は死んだ…は誰の言葉か知っていますか?」
母上がビル君に尋ねます。
「オゥ~、ニーチェですネェ~。そのくらいの事は知ってイマスヨ!」
それを聞いた母上は言いました。
「そうですね。では今日は苦悩しているビル君の為に、
少しニーチェのお話でもしてみましょう。
彼の書いたツァラトゥストラという本は非常に有名ですが、
全4巻もあり、文字量が多く、また抽象的な表現が多い事から、
哲学の初心者には少々難解です。ですが、
ニーチェ哲学の本質は非常に肯定的であり、今の時代の皆さんにも
十分有用だと思いますので、それをなるべく分かり易くお話しましょう」
母上はいつもの優しい良く通る声で、ゆっくりと話し始めました。
「まず、ビル君の言っている神は死んだ!という有名なひと言は、
ツァラトゥストラの冒頭、森の中で修行をしていたツァラトゥストラが、
その森から出て最初に出会った人物に、何をしているのか?と、問いを発し、
その人物が、神を称賛する歌を歌ったり、詩を書いたりしている…と
答えた時に、ツァラトゥストラが心の中でつぶやく言葉です。
【何と言う事だ!この男は神は死んだという事を知らないのか!】
ツァラトゥストラは心の中でそう叫ぶのですね…。
この【神は死んだ】の本来の意味は、
当時のキリスト教的価値観を否定し、
絶対的な真理や価値などは存在しない!と言う事なのですよ。
キリスト教は死んだ!と言っているのに等しいのです。
それまでの哲学というものは、善とは何か?悪とは何か?
あるべき理想は何か…その様な内容で語られている…。
そうしてそれらの多くはキリスト教的世界観に基づいている訳ですが、
それを彼は完全否定した…。
故に彼は過去の哲学の破壊者と言われる訳です。
では絶対的な真理や価値などという物が存在しない世界で、
人はどう生きるべきなのか?
ここがニーチェ哲学の本質になります。
ひと言で言ってしまうと、彼は人間は超人になるべきである…
と言っています。ではこの超人とは何か?ですが、ニーチェは
ツァラトゥストラの中でその定義を明確にはしていません。
それは超人の定義とはひとそれぞれであって、
人間は自らその姿を描くべきである…という事であると私は思います。
ただ、ツァラトゥストラの言動からおもんばかるに、
超人とは自ら強い意思を持って、自らの全てを肯定し、
人間としての高みに登ろうとする人物だと言えるでしょう。
ニーチェはこの超人の対極にある存在として、末人(まつじん)という
存在を定義しています。これは自己を否定する…
将来に希望を失い、惰性に生きる、自分は何も出来ない駄目な人間なのだ…
そう言う考えに取り憑かれている人物を指します。
この様な考え方、生き方を、ニーチェはニヒリズムと呼んでいますね。
ニーチェ哲学の本質は、このニヒリズムを脱却し、
如何に超人という高みに登ってゆくか…
その対処方に対する考察であると言えます。
人間は、1本の綱だ。動物と超人のあいだに結ばれた綱だ…。
ニーチェはツァラトゥストラにそう語らせています。
そうして、動物から超人へと進むプロセスには3段階あると語ります。
第一の段階はラクダ…。
この時期は重い荷物を背負い、ゆっくりと歩む…。
我慢しながら様々な修行を行う時期…。
早苗実業学校での学びもこれに該当するでしょう。
第二の段階は獅子。
ラクダの時期に蓄えた力を開放し、独立して自由奔放に走る…。
己の力を試す時期と言っても良いかも知れません。
そして最後の第三の段階は幼子(おさなご)。
全てを肯定し、想像力に身を任せ、思うがままに戯れる…。
何物にも縛られず、子どものように軽やかに歌い踊り、
この地上での生の喜びを日々感じながら、
自分の意志をなにより大事にする生き方に達する段階です。
禅宗の仏教における、悟りに近い境地かも知れません。
ツァラトゥストラの中で、牧人の口に大きな黒い蛇が潜り込み、
牧人が苦しみあえいでいるシーンがあります。
ここで言う牧人とは、羊や牛の放牧を生業としている人の事です。
ツァラトゥストラはその蛇を引き抜こうと悪戦苦闘しますが、
どうしてもその蛇を除く事が出来ません。
それで最後にツァラトゥストラは、
【蛇の頭を噛み切れ!】と牧人に向かって叫びます。
それを聞いた牧人は、渾身の力で蛇の頭部を噛み切って蛇を吐き出し、
その後、ツァラトゥストラがこの世で見た事もない様な、
美しく高らかな笑いをあげます。
蛇を体内に宿し、七転八倒し、最後は自らの意思と力でこれを噛み千切る…。
すなわちこれは現世で苦悩にあえぐ人間が超人に進化する瞬間の
描写なのですね…。不安や恐怖、怖れや苦しみ…この黒蛇はその象徴なのです。
ニーチェ哲学のもうひとつの大きなテーマに永遠回帰という考え方があります。
これはニーチェの仮説ですので、
実際に存在するかどうかという事ではありません。
これは同じ人生を何度も何度も無限ループの様に経験するとどうなるか?
という事をニーチェなりに考察したものです。
当り前ですが、生きていれば苦しい事が多々あります。
無限ループする訳なので、同じ苦しみを何度も味わう事になります。
ここでネガティブな思考に落ちてしまうと、苦しみは永遠の苦しみになります。
しかし、そのループも心の持ち方次第で
ポジティブなループにかえる事が可能である…。
今…この瞬間から自らの全てを肯定する。良いものも、悪いものも、
全てが自分の生の一部分であり、全てを肯定する事によって、
永遠に肯定できるのだ…
その瞬間、永遠回帰はポジティブのループに変わる。
ニーチェはそう言っているのです。
この世界には絶対的な善も悪もない。
全てを肯定し、自分の運命を愛する…この運命愛が非常に重要である。
そうして人生の中でたった一度で良い、魂の震える様な喜びを得る事さえ
出来れば、その人生は十分生きる価値がある…
と、ニーチェはツァラトゥストラの口を借りて述べています。
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェは、1844年にドイツに生まれ、
20代半ばにしてスイスのバーゼル大学で教授をするなど、大変早熟な天才でした。
しかし、その後は鳴かず飛ばず、友人、女性関係も上手くゆかず、
病気に悩まされ、必死に書いたツァラトゥストラもまったく売れませんでした。
孤独と苦悩と病の中、彼は44歳の時、ついに発狂します。
ところが彼が発狂してまもなく、彼の哲学は次第に評価される様になり、
ツァラトゥストラも非常に売れる様になります。
しかし、ニーチェはもはやその事を認識できなくなっていました。
しかし、発狂する数カ月前、彼は次の様に語っていたそうです。
【私は私の生涯に…感謝せずにはいられない】…と。
発狂したニーチェは回復することなく、1900年、55歳の生涯を閉じます。
しかし彼の哲学は、今日でも十分通用する人類の普遍的なバイブルとして
愛され、学ばれている事は疑いようもありません。
特に重要な事は、西洋世界において絶対視されていたキリスト教的
世界観を否定し、他律よりも自律を重視した事でしょう。
あなたを救うのは神ではない。あなたを救うのはあなた自身なのだ…。
私はここにニーチェ哲学の神髄がある様に思います…」
母上の教養授業の時間はいつもとても静かです…。
ビル・G君はこの母上の授業に何を思った事でしょう?
さて、授業終了後、ビル・G君は早速私の方に振り返ると言いました。
「オゥ~、ミス雪音~。ミーはユーのマザーの授業にトテモ感動シマシタ!
考えてミレバ、漢字が出来る出来ないなんて、ミーにはあまり関係ナイネ!
想像力に身を任セ、何物にも縛らレズ、ユーと軽やか踊り、戯れタイネ~!」
う~ん、何か勘違いしている様に思うのですが…
【あ、天音ちゃん…助けて下さい…!!!】
私は思わず心の中で叫ぶのでした…。
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