第58話 教養授業11限目。鈴音先生、ひらがなについて語る…その①

月曜日の3限目の授業が終わった。

短い休憩時間の後、鈴音先生が教室に入って来た。

4限目、今週の教養授業の始まりである。起立!礼!

いつもの鈴音先生の透き通った優しい声が響く。


「今日は日本のひらがな誕生にまつわるお話をしたいと思います。

合わせて中国から伝わった漢字についてもお話しましょう。

皆さんが普段何気なく使っている文字には大きな歴史とドラマがあり、

そしてそれが如何に日本を作り上げて来たか、一度考えてみる事は

非常に有意義だと思います」


鈴音先生はいつもの良く通る声で、優しく語り始めた。


「漢字の始まりは、紀元前1300年頃、中国で発明された甲骨文字と

言われています。それが中国で発達し、4世紀から5世紀頃、

日本に伝わったとされていますね。


私が物心ついた頃にはもう存在していましたから…。

ただ中国語と日本語は、元々発音や文法が異なっていましたから、

中国の漢字をそのまま使っていた訳ではありません。

万葉かな…これは当時の日本語の発音に中国の漢字を当てはめた、

今で言う当て字ですが、当初はその様に使ったのです。

やま→也麻 はる→波流…とまあ、こんな感じです。


それ以前の日本では神代文字が使われていましたから、

私が若い頃は、神代文字と中国の漢字が併用されていました。

伊勢神宮の神宮文庫で、九十九葉もの神代文字文書が発見されたのは

最近の事ですが、例えば、藤原鎌足、太安万侶、稗田阿礼、舎人親王、

和気清麻呂、菅原道真、平将門…

こうした有名人が神代文字で伊勢神宮に願文を奉納していますから、

かなりのちの時代まで、神代文字も残っていた事がわかります。

今でも神社では使われていますから、皆さんも目にする事があるかもしれません。


皆さんも良く御存知の大化の改新(645年)によって、

日本では仏教が主流となっていった為、その後神代文字は次第に

廃れてゆき、現在では文字として見る事は殆どなくなりました…。

当時最先端の宗教、仏教の経典は全て漢字で書かれていましたから、

まあ、しかたないですね…。


その後暫く文字といえば、漢字が主流だったのですが、

カタカナとひらがながいずれも平安時代、

8世紀後半頃から使われる様になりました。

カタカナは主に男性が漢字の発音を学ぶ為に使い、

これは漢字の一部を切り取ったもの…

ひらがなは主に女性が使い、楷書体の漢字を崩して、

表記を柔らかく簡素にしたものです。

漢字は画数が多い為、速記に向かず、学ぶのも書くのも大変なので、

これをもっと便利に使える様にしようという、

如何にも日本人的な発想から生まれたものでした。


但し、当時公式文書には漢字のみを使う事になっており、

ひらがななどという、女子供の使う文字を公文書に使うなど

もっての他と考える…頭の固い人も大勢いました。

特に徹底的に漢字を学んだエリート層にその傾向が強かったのです。

そしてその急先鋒が皆さん良く御存知の学問の神様…菅原道真さんでした。


醍醐天皇の命によって編纂された古今和歌集全20巻

(延喜5年 西暦905年奉呈)で、初めてひらがなが公式文書に使われるのですが、この古今和歌集でひらがなを使う事に大反対していたのが菅原道真さんです。

彼がこの古今和歌集成立直前に太宰府に左遷された為、

結果としてひらがなが公式文書で使われる様になった…。

道真さんを左遷し、ひらがなを公式文書で使う英断を下したのは、

藤原時平さんです。彼がいなければ、

その後ひらがなは廃れてしまったかも知れません。

色々良くない言い伝えをされている時平さんですが、

彼の慧眼に日本人は感謝すべきでしょう。

主にひらがなで書かれた源氏物語や枕草子などの平安文学は、

時平さんがいなければ成立たなかったと思います。


さて、ひらがなという表音文字を導入した事によって、

日本語は大きな進化を遂げます。

特に大きく効果のあった事のひとつは識字率の向上。

ひらがなは簡素で覚えやすいですから…。

これ以降の日本は、識字率において常に中国を上回ります。

文字で情報を伝達出来る人が多ければ多いほど文化や経済は発展します。


ひらがな、漢字の併用で、同音異義語の理解が瞬時に出来る様に

なり、外来語にカタカナを当てる様になって、

母国語と外来語の区別も容易になりました。

ハリーポッターの英語原作を表音文字しかないハングルで訳すと

13冊くらいの分量になるそうですが、同じ量を日本語で訳すと10冊程度…。

如何に効率的に文章が作れる様になったか、これだけでもわかりますね。

表音文字に比べ、読むのにかかるスピードも日本語の方が圧倒的に早いのです。


さて、万葉かなでの漢字の使い方でもわかる通り、

日本は中国から輸入した漢字をそのまま使った訳ではありません。

中国語と日本語には似て非なる漢字が沢山あります。

勉強→中国語で無理やりを意味する。

丈夫→中国語では夫を意味する。

「油断一秒 怪我一生」→中国語だと、一秒でも油が切れると、一生後悔する。

あげるとこんな感じですが、他にも沢山あります。

この様に漢字の表面の毛皮を傷つける事無く、中身の肉…意味を

すっかりすり替えてしまう…。この日本人の想像力に驚いているのは、

日本人よりも寧ろ中国人です。


明治維新以降、日本には西洋から膨大な新しい

情報や概念、単語が流入したのですが、

その中には従来の日本語にはなかったものが非常に多くありました。

それらを上手く漢字に当てはめて、新しい熟語を創造し、

漢字による新しい概念を創出していった…。

偉大な明治の先人達の懸命な努力によって、

今日、私達はそうした概念を漢字ですぐに理解する事が出来ます。


そうして、現在の中国で使われている語彙の多くに、

この時代の日本が作った漢字が含まれている事…。

前述した通り、この事に一番驚いているのが中国人なのです。


その②に続く…。

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