第46話 教養授業10限目、鈴音先生、織田信長を語る…その①

鈴音先生が教室に入って来た。

月曜日の4限目、今週の教養授業の始まりである。起立!礼!

いつもの鈴音先生の透き通った優しい声が響く。


「今日は戦国の覇者のひとりである織田信長公のお話をしたいと思います。

私は直接お会いした事はありませんが、

当時の時代背景や、私が見た様々な戦国武将との比較を通して、

真実の信長公の姿に迫ってみたいと思います。


まず信長さんの所属した織田氏…これは尾張守護の斯波氏の家来、

織田大和守の家来筋の家系ですが、

尾張の海に面した交通の要衝、豊かな津島を所領としていた事から、

信長さんのお父さんの代、織田信秀さんの時代には、

実質尾張半国近くを所領とする戦国大名化していました。

信秀さん自身非常に有能な人で、

全盛期には今川義元や斎藤道三と互角に戦っていますし、

商売上手でもありました。ただ、実質名だけの存在になっていた

守護の斯波氏を最後まで大切に扱っていた事からもわかる通り、

古い足利幕府の体制も大事に思っていた節があります。

これは彼が特別な訳ではなく、当時の戦国大名は皆似た感覚の持ち主…、

将軍家から得られる官位や地位をありがたく思い、同時にそれで箔を

つけて他家との差を付ける…それを常識として持っていたという事です。


さて、尾張という国は甲斐の武田氏や越後の上杉氏と違い、

尾張全域の支配を織田氏の一族…同族が行っていたという特徴がありました。

皆織田の親戚同士だった訳です。無論、親戚同士それぞれ独立した所領を

持っているし、仲たがいもするのですが、基本信秀さんを中心に、

対外的な敵には一致協力して当たっていました。

ただ信秀さんはその代表というだけなので、支配力そのものは強くなかった…

その為彼が晩年斎藤道三との戦いに大敗し、病気がちになると、

他の織田一族が主導権を握ろうと動き出します。その様な四面楚歌の中、

信秀さんは死に、信長さんが家督を継ぐ事になります。

天文20年…1551年の事なので、信長さんは数え年の18歳ですね。


さて、信長さんが家督を継いで最初にやった事は、

自分に従わない親戚の織田一族を粛清する事でした。

何しろ家督をめぐって実の弟まで謀反を起こしているので、

もうこれでもかというくらい徹底的にやります。

中途半端だとお父さんの二の舞になると思っていたのでしょう。

ほぼ全員殺してしまいます。猜疑心の強い性格は、

こういう背景もあって形成されたのはないかと思います。


この粛清の徹底は、結局のちの織田家の大いなる発展に寄与したと言えます。

武田氏や上杉氏の様に、領内に強力な独立国人領主がいない…

信長さんは徹底した専制支配体制を完成させる事で、戦略的な自由を得た訳です。


この信長さんの専制支配体制が完成した直後、今川義元による尾張侵攻作戦…

桶狭間の戦いが起こり、これに勝利した彼は、その後の領国拡大に明確な

方針を立てました。まず北の美濃攻略に集中する…。美濃以外の地の

大名とは同盟するか、友好関係の維持に努めました。

お父さんの信秀さんが北の美濃(斎藤氏)を攻めたり、

東の三河(松平氏…のちの徳川)を攻めたりと、多方面で戦闘をしたあげく、

どちらも中途半端になって失敗したのを教訓にしたのだと思います。


その為東の隣国、徳川とは同盟を結び、北東の武田氏には漆を何重にも塗った

高価な茶碗を送るなどし、最終的には同じく同盟を締結、

上杉氏にも高価な贈り物をしています。

「尾張の東にはまったく興味ないし、一切手は出しません!」

と猛烈にPRしたのですね。


美濃はこの当時既に大国と言って良い豊かな国で、

当主の斎藤義竜さんも優秀な人でしたから、当初信長さんは苦戦していました。

ところが斎藤義竜さんは永禄4年(1561年)わずか34歳で病没します。

これは信長さん、運が良かったですね。それでも美濃攻略には

足かけ7年もかかっているので、相当手強い相手だったのです…。

美濃以外の他国には一切目もくれず、

戦力を集中したのが功を奏したのですね。


1567年(永禄10年)に美濃の攻略が完了すると、

信長さんは一気に急成長します。そこからは西と南へ進み、

都である京都を抑え、足利将軍や天皇の権威と自身の武力を併用して、

周囲の敵対勢力を服従させて行きます。

こういう発想を持った戦国大名は当時いなかったと私は思います。

信長さんがそれをやったのを見た周囲の戦国大名は、

「ちくしょう!してやられた!」と思った事でしょう。

反発して信長包囲網を形成していく様になります。


さて、信長さんはこれら反信長勢力に対抗する為に、様々な施策を打ちます。

彼の長所のひとつは、経済感覚が非常に優れていた事。

まずは堺を始め、経済的な要所の権益を握り、

貨幣経済から得られる税金の増収策を徹底的に進めます。

信長さんは楽市楽座を推進した事で知られますが、

要は貨幣経済と流通市場の拡大策を行って、

その中から頂くピンハネ…じゃない税収の増加を重視したと言う事です。

戦争というものはお金がかかりますからね。

大量の鉄砲が整備出来たのも、お金あっての故です。

信長さんが戦争で強かったのは、これら実入りの多さが大きな理由です。

最初から最後まで農本体制から抜け出せなかった他の戦国大名との差は、

非常に大きかったと思いますよ。


お次は街道の整備ですね。街道の整備は他の戦国大名も行っては

いましたが、基本自国領内だけで、他国との国境線にある街道は、

わざと通りにくくするのが普通でした。

他国の侵略を防ぐ為ですが、信長さんは自軍の進行速度を上げる為、

幅6メートルもの街道の整備を徹底的に行います。

織田の支配下にある全領土で徹底的にそれを行い、

更に連絡拠点や物資備蓄用の拠点も設けました。

3度に渡る織田包囲網を打ち破れたのは、こうした街道や備蓄拠点の

整備と、徹底的な信長さんによる専制体制で、他国より迅速な軍の

集結と機動が行えたからなのです。


相手が集まる前に機動して、敵を各個撃破する…。

内線の利…信長さんが当時それを意識していたかどうかは分かりませが、

のちのナポレオンを彷彿とさせる、内線を利用した迅速な機動防御という

斬新な戦略に、当時の戦国大名はついていく事が出来ませんでした。


こうして信長包囲網を切り抜け、所領を大きく拡大した信長さんは、

新たな制度…方面軍制度を立ち上げます。

これはそれぞれの戦略方面に独立した軍団を充てる事で、

効率的な所領拡大を目指したものですが、

その為には、その様な方面軍を任せるに足りる有能な

人材の育成と、大幅な権限移譲が必要です。


信長さんというと、何でも自分で決めないと気がすまない、

非常に独裁的な専制君主というイメージがありますが、

実は彼くらい徹底的な権限移譲を行った戦国武将はいません。

何しろ電話も何もない時代ですから、遠い戦場の細かな指示を

いちいち信長さんが出す事は出来ないし、現実的でもない。

だから信長さんは大まかな方針のみ与え、後は自分が見込んだ

部下に全面的に権限を委譲する…という事をやったのですね。


このあたり、太平洋戦争の時代、東京の大本営が現地軍に非常に

細かい指示を出し過ぎて失敗した日本軍よりも、寧ろ優れて

いたと言えるでしょう。当時の戦国大名では一門衆、言ってみれば

身内にすら与えない様な、大胆な権限移譲をしています。


下剋上の戦国時代にこれは大変勇気のいる事です。

何しろ、権限を与えた部下は大兵力を独自運用出来る訳ですから、

反乱でも起こされたら、信長さん自身の命が危うくなりかねません。

事実、彼は後に本能寺の変で部下の明智光秀に殺されます。

この大きな権限移譲があだになったとも言える訳です。


創設された方面軍は、信長さんの示した大まかな大方針に従い、

独自の戦略でそれぞれの目標に侵攻して行きます。

柴田、羽柴、明智、滝川、佐久間,…

当時信長さんの下に居た軍団長で、譜代の家臣は柴田と佐久間のみで、

それ以外の3人は信長さんが低い地位から大抜擢した人材です。

譜代ではなくてもこれはと思う人材を大抜擢し、

大きな権限を与える事で、多方面に同時進行するという、

それまでの戦国大名には出来ない芸当が出来る様になったのですね。

これは思い切った人材登用と権限委譲によってなされた訳です。


さらには非常に好奇心が強く研究熱心で、

斬新な新兵器の開発(鉄鋼船等)を積極的に推進しました。

装甲した軍艦がヨーロッパに登場するのは19世紀ですから、

彼の発想はヨーロッパの数百年先にあった事になりますね」


その②へ続く…。

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