第47話 教養授業10限目、鈴音先生、織田信長を語る…その②

「鉄砲の集中運用は信長さんよりも雑賀衆などが先に行っていますので、

彼はこれを見てより大規模化しようと思ったのだと思います。


あと、良く兵農分離を信長さんがやったと評価する見方がありますが、

あの時代を生きた私に言わせると、それは正しくありません。

この当時の農村には、既に百姓衆と軍役衆という区別が存在していたからです。


百姓衆も軍役衆も、農民で田畑を持っているという点は

まったく同様ですが、百姓衆は基本、戦に出る事はありません。

その代わり、納税とか諸役を負担する義務があります。

稀にこの百姓衆を動員する、非常事態の様なケースもありますが、

その場合でも20日を越える在陣はしない事、兵糧は領主が給付する事、

また給金も支払われる…というのが暗黙の了解として存在していました。

それに、戦に出た事がない百姓衆は前線では戦力にはならないので、

輸送とか陣立ての準備、櫓や堀の構築、後方拠点の警備等が主任務でした。


対する軍役衆は諸役免除(含納税)という特権があります。

代わりに戦の時は出陣する義務があるのですね。

その場合、武装や装備、動員する人数等は事前に掟書きによって定められ、

内容は所領の石高によって変わり、それらの費用は基本自前になります。

無論、場合によって領主が一部費用を負担する事もありますが…。

また、槍、弓、鉄砲などは普段の修練が義務付けられており、

定期的に軍役衆を集めては、その実力を検分するという事も行われていました。


城下に武士達が集中して住んでいるからと言って、

それは兵農分離ではありません。

あれは重臣か親衛隊が城下に住んでいるだけで、

戦で動員される兵力の大半は、実際には農村に住む軍役衆なのです。

そういう意味では織田氏も他の大名も基本的に同じでした。


織田軍が農作業の繫忙期でもそれなりに戦えたのは、

お金にものを言わせた傭兵を随時雇用して動員したからです。

農村からあぶれた若者は当時も相応に存在していましたから…。

但し、お金や略奪目当ての傭兵は、戦いが不利になるとすぐに逃散する

傾向が強い…命あっての物種ですから、その運用には苦労したはずです。

これが軍役衆なら、卑怯なそぶりを見せると村に帰ってから物笑いの

種になるので、勇敢さが一味も二味も違います。

一般的に尾張兵が弱いと言われたのは、織田の軍勢には他国より多くの

傭兵が存在していたという事なのですね。


次は私がこの当時感じた信長さんの短所です。


信長さんは、この時代では突出した合理主義者でしたから、

同じ時代の人とは感覚が合っていませんでした。

彼の織田氏をバイクに例えると、エンジンだけはずば抜けて高馬力なのに、

ブレーキやフレームがそれについていけていない…。

そこまで完成していない…そんな感じです。

なので、彼には周りが皆、莫迦に見えた事でしょう。

自信過剰すぎる為に、自分に足りない部分を理解出来ていなかったと思います。


その足りない所は、彼の人事に見えます。

信長さんは周囲の人の繋がりや、人間の心の感情の有りように関して、

慎重に考えるという事がありませんでした。

彼の裁きの実例を見ると、同じようなミスや失敗に対して、

その時々で裁きが重かったり、軽かったりするのですね。

この時代の武将は、失敗すると文字通り物理的に首が飛びますから、

裁きは慎重に行わないと、皆疑心暗鬼に陥ってしまいます。


下剋上全盛の戦国時代とは言え、

信長さん程、家臣や配下に裏切られた例はありません。

これは彼の部下が如何に疑心暗鬼に陥っていたかの査証になりますね。


それと、彼は潜在的敵性勢力に関する認識が甘い人でした。

浅井長政の裏切り…いくら妹(お市の方)を嫁に送って

浅井長政と義兄弟になったとは言え、

浅井氏と朝倉氏は古くからの同盟…というか、浅井氏は独立大名というより、

朝倉氏の国衆的な存在でしたから、朝倉氏を攻撃すれば浅井氏が

朝倉側に付く可能性がある…

しかし、これを事前に考慮した様な様子は全くありません。


国衆の感情や過去の繋がりに関して、殆ど無頓着でした。

のちの別所氏の裏切りにもこうした要因があった様です。


また軽装且つ少人数での身軽な移動を好む…

これは大大名になってからも変わらず、その為、移動途中に鉄砲で狙撃されたり、

最後は碌な人数も連れずに本能寺に宿泊し、明智光秀に討たれてしまいます。

十分な数の親衛隊を常備して傍に置いておけば、防げたかもしれないし、

その様な体制がしっかりしていてれば、襲撃が成功する可能性は低いですから、

そもそも光秀は謀反を起こす気にならなかったでしょう。


今の時代感覚で言うと、急成長ベンチャーを巨大企業に育て上げた

斬新な発想の超ワンマン社長で、部下の言う事は殆ど聞かず、

自分のみを頼りにした…。政治、戦略、企画力に優れる一方、

人の感情というものに殆ど頓着ぜず、人事も極めて恣意的で、

最後は部下に裏切られて失脚した…


アップルを創業したスティーブ・ジョブズさんは、

信長さんに非常に近い人物だと思います。

あんな雰囲気の人物だったのではないでしょうか?

彼も自分の創業したアップルを一度追い出されていますしね…。

人の感情に頓着せず、気分屋で、部下に非常に厳しい点も似ています。


それではいつもの通り、質問を受け付けたいと思います。

手を上げて、出席番号と名前を言って下さい。

それとこの授業に関係ない質問はしない様に。

ではお願いします」


「出席番号6番、織田信長である。

先生は日本史における織田信長の最大の功績を何と考えておられるか?」


「そうですね。私の想う日本史上における信長さんの最大の功績は、

政教分離を実現した事にあると思います。

当時の日本は本願寺門徒の様に、武装した宗教集団が普通に存在していました。

武力で改宗を強要したり、他の宗派の門徒から略奪したりする事が、

当たり前の様にあったのです。戦国大名並みに武装し、座や市、関所等の

課税権まで持っていましたから、古い既得権益の象徴的存在でもありました。


信長さんは宗教それ自体を否定したりはしていませんでしたが、

特定の宗教が信仰を強要したり、武装したり、政治に口を出したりする事は

絶対に許さない…宗教は文字通り神の教えを説くだけで良い…

そういう考え方でした。


そして強い意思の元、その武力を持って政教分離を徹底的に推し進めました。

信長さんの後を継いだ秀吉さんは、日本人を攫って奴隷として

売りさばいていた宣教師に激怒し、キリスト教を禁止しましたし、

人間の家畜…この人畜という発想を持つキリスト教系西洋人が、

どれ程の害悪を世界人類に及ぼしたかを考えると、

信長さんに始まり、秀吉さん、家康さんと続いた3人による一貫した宗教政策は、

その後の日本に大きな恩恵を与えたと思います。


おかげで今の日本には宗教を根にした断絶が存在しない。

完全な政教分離が出来ている国は実は世界でも稀です。

というか、世界の争いの原因の多くは、今でも宗教です。

その根っこを断つ根本改革を、今から400年以上も前に最初に断行した…。

私はこの一点において、全ての日本人は、

織田信長に深く深く感謝すべきだと思います…」


ここで授業の終了を知らせるチャイムが鳴った。

「それでは今日はここまでとしましょう。起立!礼!」


鈴音先生が教室を出て行った後、俺はクラスメイト…織田信長の顔を見た。

その顔には誇らしそうな喜びが溢れていた。

【信長ってやっぱあの織田信長の子孫なのか?】

後で本人に聞いてみようかなどと思う俺なのであった…。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る