第38話 教養授業9限目。真田昌幸…武田信玄を語る…その②

「信玄公がみまかられてから、織田包囲網は力を失い、

その年、元亀4年(天正元年1573年)の8月から9月に

浅井、朝倉が滅んで、完全に崩壊してしまった。

勝頼公が武田の家督を掌握して動き出すのは、

その翌年、天正2年(1574年)の正月の美濃侵攻からじゃな。

その年の6月には遠江の高天神城を落とす。

はっきり織田/徳川を敵として攻撃しだした訳じゃ。

じゃがのう、美濃の山奥の小城や、徳川の拠点を落とした所で、

信長公の力が削がれた訳ではない。

信長公は勝頼公の侵攻を尻目に、奈良で蘭奢待の切り取り等を

行っておる。もはやそれだけの余裕があったと言うことじゃ。


勝頼公は…信玄公に劣らぬという所を国人衆に見せる必要を

感じておったであろう。功を焦っておる様子であった。

これが翌年の長篠の大敗につながるのじゃ。

天正3年(1575年)、この年は信玄公の3回忌にあたっての。

勝頼公は4月12日、信玄公の命日に躑躅ヶ崎で

信玄公の法要を行って三河に向け出陣した。


勝頼公には期するものがあったのじゃろうが、

そもそも既に雪解けの季節、敵対関係にある

越後の上杉に対して備えを置かねばならぬ。

じゃから武田全力での出陣は無理でな、

高坂勢約1万を川中島に置いて警戒させた故、

武田の総勢は1万7千程じゃった。これが冬や晩秋であれば、

もっと動員出来たであろうし、長篠の戦の結果も変ったやもしれぬ。


長篠の戦いに関してじゃがな、あそこで勝頼公が

織田/徳川に乾坤一擲の戦いを挑む必要などなかった。

信長公が考えていた事は、非常に合理的であったと言える。

まず、相手を上回る十分な兵の集中。織田徳川の兵は武田の2倍以上、

合わせて4万もおったのじゃから、信玄公のやり方そのものじゃ。

しかも無理攻めする気は毛頭なく、長篠城からかなり離れた連吾川を挟んで

布陣し、しっかりとした陣城を築いた…これは攻撃というより防御の姿勢じゃ。

だいたい長篠城は徳川の城じゃからな。仮に落ちた所で、信長公にとっては

痛くもかゆくもない。長篠城近辺の小高い丘にしっかりと陣を張った

武田の大軍を無理攻めすれば、織田方の兵も只では済まぬ。

勝頼公が決戦を挑んでくるなら良し、

そうでないのなら、適当な所で引き上げる…。

そう考えていたはずじゃ。兵を出した事で徳川にも義理立て出来るわけじゃし、

そもそも織田は援軍…武田を釣り出すのは本来徳川の仕事じゃ。

信玄公ならとりあえず長篠城を落として織田徳川とにらみ合いを続け、

織田の兵糧が尽きるのを待って、甲斐へと引き上げたであろうな。


儂自身は長篠には行っておらぬから、これは後で聞いた話じゃが、

信長公は極楽寺山…本陣周辺の山々の谷間に兵を隠す様に配置し、

織田勢の数が実際よりかなり少なく見える様に工夫していたそうじゃ。

事実、武田の物見は織田勢を1万5千程と実際の半分以下に見積もった様でな、

これに徳川勢が約5千で、合わせて約2万という報告をしておったらしい。

後はそもそも織田は徳川をまともに支援する気はないとかの流言じゃな。

まあ、その前の三方ヶ原の戦いでの織田勢の体たらく…

無様な実績もあった故。信長公は武田をおびき出す為に

こういう罠を仕掛け、勝頼公がそれに嵌ったという事じゃよ。


結局勝頼公は信長公の誘いに乗る形で、

長篠城の周辺には3千程の抑えを残し、

残る1万4千程で前進し、連吾川を挟んで織田/徳川と対峙した訳じゃ。


前日の軍議では宿老衆の間の意見が割れておってな、

織田徳川の構えを見るに攻め口を失って逼塞おり、

我らが前進して気勢を上げれば、崩す事は容易である…という意見もあれば、

いや、信長自ら出陣して来ている以上、織田勢が小勢であるはずがない。

ここは長篠城を落としたという事で良しとし、一旦撤退して、

頃合いを見て再び徳川領に侵攻して刈田等を行えば、

徳川方の国人衆は離反し、徳川を滅ぼす事は容易であろう…とかの。


国人衆というのは、そもそも損得勘定のみで動くものじゃ。

戦の様に多額の費用がかかり、痛手も被る様な事には、

それ相応の見返りが無ければ動かぬし、

頼りになる兵というのも限られておる。出費は自腹じゃしな。

大敗して一挙に多くの兵を失えば、その補充には長い年月がかかる。

一旦主が頼りにならぬと思えば、国人衆などすぐに離反する。

故に戦国大名というものは、

大負けだけは絶対してはならぬというのが鉄則じゃ。

織田信長公の様に短期間で領国を大きく拡大し、

増えた領国から補充する様な事を武田は出来ぬでな。

この時の状況を見れば、危険な要素がかなり大きいにも関わらず、

無謀な決断をしてしまったと言う事じゃ。


この時の判断に、信玄公の時代に作られた、【無敵武田軍】という、

誤った印象が大きく効いた様に儂は思うのう…。

それと信玄公は臆病なくらい慎重じゃったから、宿老衆の中には

もっと大胆に戦を行いたいという想いもあったであろう。

その臆病さ故に多くの魚を逃がしたという者もおったからな。

それに勝頼公は初陣して以降、負ける戦に参加した事がのうてのう。

加えてあの当時は30歳程で若いしの…。

長篠の合戦の負けひとつで勝頼公を酷く悪く言う輩が多いが、

同じような失敗は信玄公も信長公も若い頃しておる。

勝頼公は相手が悪かったというだけじゃ。


武田勢は天正3年(1575年)5月20日の昼から移動を開始し、

滝沢川を渡って、30町(約3.2㎞)前進し、

その日の夕刻前に連吾川を挟んで織田徳川軍と対峙した。

これを見た信長公は、酒井忠次と金森長近約4千の別動隊を

南側から迂回機動させ、決戦当日5月21日の朝、

戌刻(午前8時頃)に長篠城を包囲しておる鳶ノ巣砦を急襲させた。

これが長篠の戦いの号砲になったのじゃ。

鳶ノ巣砦等、長篠城包囲の留守居役…武田信実殿は奮戦したが、

何せ織田方には5百を超える鉄砲があったからの…火力で圧倒されて、

信実殿は討ち死にされ、長篠城の包囲は崩れた。

これはのう、織田徳川と対峙しておる勝頼公には大きな衝撃じゃったはずじゃ。

戦意が低いはずの織田方から先制攻撃された上に、退路を断たれた

格好になったからの。戦端を開く前に籠の中の鳥状態に陥った訳じゃ。


血路を開く為には、後方に陣取る酒井忠次と金森長近、

長篠の城兵、4千余りを叩く必要があるが、

軍を返せば前面の織田徳川が押し出して来る事は

火を見るよりもあきらか…一旦前方の織田徳川軍を叩いて

押し返し、しかるのち、返す刀で後方の酒井忠次と金森長近を叩く…

この時に取れる手立てはこれ以外になかったのじゃ。

そう判断して武田勢が動く直前に、前面の徳川軍が陣を出て向かって来た。

更に物見から酒井忠次と金森長近も後ろから

進撃して来るとの報告が入った。もはや時間がない。

勝頼公は前方に出て来た徳川勢に向かって攻撃の下知を下された。


それからはのう、3刻(約6時間)近く、血みどろの戦いが続いた。

織田徳川は陣城の中に大量の鉄砲を備えておってな…。

山縣、内藤、馬場、真田、小幡、武田の錚々たる衆の必死の攻撃で、

いくつかの柵は破り、徳川本陣にも迫ったが、そこまでじゃった。

大体、あの様に大量の鉄砲を集めて戦をするなど、誰が想像出来よう?

雑賀衆の様な鉄砲主体の傭兵など存在しない東国では、

鉄砲をあの様に大量使用するなど、それまで例がなかったはずじゃ。

これも勝頼公には不幸であった。武田にも鉄砲はあったがの、

織田と比べては数が比較にならん。


当時の武田家では鉛玉や玉薬(鉄砲用の火薬)も不足しておって、

鉛玉の代りに悪銭を鋳つぶして、それで玉を作ったくらいじゃ。

激闘は長く続いたが、兵は次第に無人となり、昼を少し過ぎた頃には、

もはや敗軍とはっきりわかる様な状況になった。

勝った事しか知らぬ軍というのは、こういう時、脆い。

総崩れとなった武田勢は織田徳川の主力に猛烈な追撃を受けてな、

結果その時膨大な死者を出す事となった。

儂のふたりの兄、信綱、昌輝もこの時討ち死にしたでの…。

馬場美濃が、死に花を咲かせよとばかりに殿軍(しんがり)を務めて

見事に戦い、散ったのもこの時じゃ。


この時受けた莫大な損害は、結局武田家が滅ぶ時まで埋める事は出来なんだ。

勝頼公はこの時、戦国大名が絶対にしてはならん事…

大負けを喫し、這う這うの体で甲斐へと逃げ戻ったのじゃ。

そしてこれ以降、武田は織田徳川に対して、

常に受け身の戦を強いられる事になる…」


その③に続く。

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