第37話 教養授業9限目。真田昌幸…武田信玄を語る…その①

今週も月曜日の3限目の授業が終わった。

短い休憩時間の後、鈴音先生が教室に入って来た。

4限目、今週の教養授業の始まりである。起立!礼!

今日も鈴音先生の透き通った優しい声が響く。


「以前大橋君からリクエストのあった、

真田昌幸さんに関するお話ですが、

今日は私が真田昌幸さんに伺った、武田信玄公と勝頼公について

お話したいと思います。昌幸さんは関ケ原の戦い以降、

紀州(和歌山県)の九度山という所に幽閉されていたのですが、

これは私が九度山にお伺いした時、昌幸さんから直接聞いたお話の再現です。

この時の事を再現してみましょう…」


………………………………。


「真田昌幸様。今日は兼ねてより一度お聞きしたいと思っていた

武田信玄公、勝頼公についてお聞かせ下さい。

昌幸様はこのおふたりに近侍されておられたので、

誰よりも良くお分かりだと思うのです」


【そうじゃなぁ~。隠居の年寄りのたわごとと思うて聞いて下さるか…】

昌幸様はそう言うと、白くなった顎鬚をなでられながら、

この様に話されました…。


「うむ。ではまず信玄公について話すかの。

信玄公の父、信虎公は、元々信玄公よりも弟の信繁殿を

買っておられた。信玄公は危うく廃嫡されるところだったのじゃ。

そこで信玄公は兼ねてより信虎公のやり方に不服じゃった

国人領主どもに担がれる形で、信虎公を国外追放した。

じゃがそれがそもそも信玄公の不幸の始まりじゃ。


言っては悪いが、信玄公は有力国人領主どもの力を

後ろ盾に武田家当主となった故、

要するにあ奴らの言いなりにならざるを得なかったのじゃ。

元々甲斐の国は国人領主の力が強かったからの。

まあ、戦国大名は大なり小なりそういうところが多いが…。

武田家の当主はその領主どもの御輿役よ。

故に当主が直接使える兵そのものはかなり少ない。

鈴音様が思うより、当主としての信玄公の力はずっと小さかった。


甲斐の国人領主の考える事など皆同じじゃ。

自分の所領を増やす事と略奪しか頭にない。

じゃから甲斐の国や信濃の国の小規模な国人衆の所領に攻め寄せては、

その所領や財産、女を掠め取る…。弱そうな国人衆から順に狙いを定めてな…。

信玄公の妹君、禰々(ねね)様の嫁ぎ先…高遠(諏訪)家ですら

毒牙にかけたのじゃから、酷いものじゃ。

禰々様は夫を自害させられた事を嘆いて、

半年あまりのち、僅か16歳で死んでしまわれたしのう…。


まあ、とにかく四方八方、手あたり次第に弱そうな相手を攻めたのじゃ…

じゃから、当たり前じゃが、四方八方に敵が出来た。

弱い国人衆は武田の攻撃から身を護る為に、

今川や北条、信濃の村上の庇護下に入ろうとしておったの。


この三者を比べると信濃の村上義清が一番弱い…。

じゃから信玄公と国人衆どもは、

村上の庇護下にある国人衆の所領を狙った。

村上とその国人衆との戦いは凄惨なものになった。

砥石崩れなどと呼ばれる大きな敗戦もあったしのう。

信玄公はこの時の敗戦に余程懲りたのであろう。

以後は確実に勝てる戦しかせんようになった。


まあ、そんな訳で散々苦労して村上を追い払ったのじゃが、

あ奴は勝ち目がなくなると、越後に逃げ込んで上杉に助けを求めた。

これは上杉謙信公が信濃に攻め入る口実となってな、

以降、信玄公は川中島という、越後との国境近くにある

小さな場所を巡って、謙信公と10年以上も争う事となった。


まあ、この上杉との争いは碌なものではなかった。

骨折り損の草臥れ儲けとはこの事じゃな。

得た物より出ていったもの、失ったものの方が遥かに大きい。

信玄公の最も有能な身内、弟の信繁殿もここで討ち死にされた。

かの御仁が生きておられれば、武田も滅亡は免れたやもしれぬ。


良く武田は甲斐の虎とかと言うて、強いと思われておるが、

それはのう、信玄公は勝てる相手としか戦をしなかったからじゃ。

信玄公は戦いに臨んで、相手の2倍は兵を集めないと安心しない御仁じゃ。

それに相手の2倍兵があっても、態勢が不利だと戦わない事も多かった。

上杉との戦いが殆ど睨み合いに終始したのはそのせいじゃ。


4回目の川中島の戦いは、そもそも予期しない場所での

偶然の遭遇戦でな、信玄公が陣替えしておる所に、

たまたま退却中の上杉本隊が出合い頭にぶつかった…

まあ、事故みたいなものじゃ。

謙信公というのは、兵数の多寡はあまり気にせず、

戦機があると見れば、たとえ味方が相手の半数しかおらんでも戦をする御仁、

それで生涯無敗じゃったから、名将というのなら、謙信公こそそれであろう。

信玄公は戦下手とまでは言わぬが、名将と言える様な御仁ではなかったの。


まあ、儂に言わせれば武田軍は当時としては平凡な軍であり、

土地も貧しく豊かでなく、国人衆も略奪頼みの所があって、

装備も貧弱じゃった。故に決して強い訳ではなかったが、

勝てる戦しかせぬから、傍から見れば勝ってばかりいる様に見えたであろう。

それを巧妙に言い触らし、無敵武田軍団などと諸国に喧伝したのじゃ。

これは効果があったの。このおかげか、

戦わずに降って来る様な国人衆も出て来たからの。

その上、味方ですらこれを信じる様になっての…。

思い込みとは恐ろしいものぞ。

これが後々勝頼公の代になってから馬脚を現す事になるのじゃ。


まあ、一言でいうと、信玄公の生涯というのは、

国人衆の口車に乗せられて、周囲の弱そうな国人の所領を

ちまちまと掠め取り、略奪する事に殆ど費やされたと言うわけじゃ。

信濃は生涯をかけて8割程は物にしたかの。

後は上野の一部…ここは上杉/武田/北条の草刈り場での。

儂の所領の沼田もここにあった。


後は今川を滅ぼして得た駿河じゃが、

これも信玄公の失敗のひとつじゃな。

桶狭間で死んだ今川義元の後を継いだ氏真という嫡男が阿呆での。

それまで今川に従っておった国人領主…飯尾や井伊谷の輩に

謀反を起こされ、その国力が大きく落ちたのじゃ。

それでここぞとばかり、信玄公とそれを担ぐ国人衆は、

今川領を掠め取ろうとしたのじゃな。

まあ、とにかく弱い奴から所領を掠め取る、いつものやり口じゃ。


ところがこれに信玄公の嫡男の義信殿が反対された。

義信殿の嫁は今川の姫じゃからという事もあるが、

非常に頭の切れる御仁でな、信玄公のやり方の問題が分かっておった。

信玄公とそれを担ぐ国人衆というのは、とにかく目先の事ばかりに

心を奪われる傾向が強かった。だから東西南北色々な所に

侵攻したのじゃが、これは兵力の分散以外の何物でもなかった訳じゃ。

侵攻する領域正面が限定されておらぬから、ひとたび戦が

終わって武田が去ると、一旦制圧した国人衆がまた蜂起したりしての…。

いたちごっこで埒があかぬ。上野などは良い例じゃな。

中途半端な事をすると、碌な事にならぬと言う手本の様なもんじゃ。


故に義信殿は今川と北条との同盟を継続し、上杉とも和を結んだ

上で、西…美濃/飛騨方面への侵攻を考えておったのじゃ。

今川を攻めたとて、今川は北条と同盟を結んでおるから、

北条までも敵に回す事になる。ならば武田の全力で豊かな

美濃の制圧を考えるべきじゃとな。


しかし結局信玄公は義信殿を自害に追い込み、

今川領駿河へ侵攻する。予想通りこれには北条が激怒し、

武田対今川/北条で大戦(おおいくさ)をする羽目になった。

非常に手こずった戦での…それから何年もかけてようやく

駿河をものにした頃には、織田信長公の力が大きく伸長して、

武田単独では手に負えない程の巨大な勢力になっておった。

こうして八方塞がりとなった後は、浅井、朝倉、本願寺、三好等、

当時信長と敵対しておる大名供と同盟を組み、信長包囲網を形成、

三河の徳川を制圧しようとした所で信玄公の寿命は尽きたのじゃな。

義信殿の言う通りにしておれば、織田が美濃を取る前に、

武田の物に出来たであろう。さすれば織田もあそこまで

急激な伸び方はせぬであったろう。


義信殿の戦略と命、その代償が駿河1国では、

これも到底割に合わぬと儂は思うたのう。

信玄公が亡くなる頃には、武田が織田に対抗する為の

戦略的枠組みは崩れつつあって、

勝頼公が武田家家督を掌握した頃には、既に勝機は完全に去っておった。

本来ならここで戦略を見直す必要があったのじゃ…


その②に続く…。

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