第39話 教養授業9限目。真田昌幸…武田信玄を語る…その③

「天正3年(1575年)5月に長篠で勝頼公が破れてのちは、

徳川が完全に息を吹き返しての、

三河にあった武田領は全て徳川に奪われ、

遠江の武田領も徳川に攻められて縮小し、

海路駿河まで徳川勢の焼き討ちに合う始末。

美濃にあった武田領も全て織田側に奪還された。


勝頼公も何度か遠江に出陣して徳川とやり合いはしたものの、

もはや徳川に対抗するのは難しかった。

長篠の大敗で大量の軍役衆を失なったからの。

本来は15歳以上35歳までが軍役衆の年齢制限であったはずが、

下は12~3歳、上は50歳近くになっての。

無理やりの動員で数合わせなどしても勝てる道理がない。

何度かの槍合わせで武田の実態を知った徳川は、

もはや武田を怖れなくなった。その上武田の重要な財源…

甲州金山も底を突いて、金策も極端に苦しくなった。

それからは北条から新たに正室(桂林院殿)を貰って関係を強化してな、

北条と共同して徳川に当たる…

そうして後退した戦線の維持をするのがやっと…

これが武田の実態であった。


この後天正6年(1578年)の3月に上杉謙信公が亡くなられ、

その跡目争いが起きる。世に言う御館の乱じゃ。

謙信公の養子の景勝殿と景虎殿が争った訳じゃが、

景虎殿は北条当主氏政殿の実弟、北条にしてみれば同盟している

武田家は当然景虎殿を支援するはず…そう思ったであろうな。

ところがのう、何を思うたか、勝頼公は景勝殿と景虎殿との和睦に

動いた。それが上手くいかぬとわかると、

今度は景勝殿を公然と支援し始めた。

北条から見れば完全な裏切り行為じゃな。


翌天正7年(1579年)3月24日に景虎殿が追い詰められて切腹し、

御館の乱が景勝殿の勝利で終わると、

武田と北条の仲は決定的に悪化した。

この年の9月に武田家と北条家は同盟破棄を行うのじゃ。

勝頼公にしてみれば、御館の乱で景虎殿が勝てば、

越後は実質北条の属国となる。そうすると伊豆/武蔵/上野/越後を有する

北条と武田の国力が大きく乖離する事になる。

北条が武田の風上に立つ事を良しとしなかったのであろうな。

しかし、結局これが武田を滅亡させる最大の要因になってしまった。


その後の武田はのう、西と南で織田徳川と戦い、東で北条と戦った。

東西両方で戦う余裕がないのは、勝頼公もわかっておってな、

故にこの頃織田と和睦しようと動いたのじゃが、

信長公にしてみれば、力の弱った武田などもはや眼中にない。

積年の恨みを晴らすつもりであったのであろう。

のらりくらりとしながら返事を先延ばしにするだけで、

和睦には一切応じようとはしなかった。


南での戦いは終始徳川に押され、高天神城も再び徳川に奪われた。

城兵は降伏も許されず全滅した故、後詰出来なかった勝頼公への

国人衆の信頼は地に落ちた。何しろ高天神城の守備兵は、

武田領国の全てから派遣されておったからな。


東の北条領ではやや優勢ではあったが、

局地戦で大局に影響を与える程の物ではなかった。

こうして武田は、織田/徳川/北条に包囲される形となったのじゃ。

北の上杉とは同盟を維持しておったが、その上杉も西から

織田の北陸方面軍…柴田勝家に攻められておったから、

武田救援どころの話ではない。


天正10年(1582年)1月末、西から織田の重圧に晒されておった

親類衆の木曽義昌が織田方に寝返ってからは、あっと言う間じゃ。

西から織田、南からは徳川、東から北条が一斉に攻め込んで来ての、

ひと月あまりで武田は滅んだ。武田を守るべき国人衆がこれことごとく

織田に靡いたゆえな。意地を見せたのは勝頼公の実弟、

仁科信盛殿くらいじゃ。親類衆の小山田信茂に裏切られた

勝頼公は、天目山の麓で織田の滝川勢に捕捉されての、

最後は嫡男の信勝殿共々打って出て、切り死にされたそうじゃ。

ここに名門武田家は完全に滅んだ。

哀れなのは北条から腰入りされておった桂林院殿でな。

まだ19歳の若さじゃったのに、

最後まで勝頼公と共にあって、儚く…自害された。


これが儂が見て来た武田信玄公と勝頼公じゃ。

信玄公とそれを担いだ国人衆は、孫子の兵法の…

戦術的な部分ばかりに拘泥して、戦略というものを顧みなんだ。

四方八方の弱い者虐めをし、弱い者が逃げ込んだ先に兵を進めて

強敵にぶつかり、その都度侵攻が頓挫、頓挫するとまた方向を

変えるという事を繰り返した。

これが信長公との一番大きな違いじゃな。

いきあたりばったりと言えば良いのかのぉ。

まあ、その様なものじゃ。あの時代は同じような大名が多かった。

そういう意味で信長公は、まったく毛色の違う漢であったな。


勝頼公はのう、戦国の当主としては決して悪くはなかった。

寧ろ優秀な部類じゃろうて。

只、時期と相手が悪かったの。

勝頼公が当主となった頃には、織田と武田の実力は既に隔絶しつつあった。

織田はもはや武田単独で戦える相手ではなかったのじゃ。


故に生き残りをはかるのであれば、たとえ北条の風下となっても

それを忍んで共同で織田徳川に立ち向かうか、

あるいは織田に降るかしか選択肢がなかったのじゃが、

名門守護武田の誇りがそれを邪魔したのであろうな。

さすがに東西両方に強敵を抱えてしまってはどうにもならん。

信玄公が嫡男の義信殿を殺さず、その意見を取り上げておれば、

まったく違っておったであろうが、ここでそれを言っても詮無い事じゃ」


真田昌幸様はここまで言うと、暫しの間遠い眼をされて、

外の景色を見つめられました。


「勝頼様の時代に昌幸様が武田家当主であったら、

如何されましたか?」私がそう尋ねますと、

昌幸様は、カッカと笑ってこう申されました。


「儂ならば、信玄公が亡くなったのを機に織田徳川と和するであろうな。

あの時期であればまだ信長公も周囲に多くの敵を抱える状況じゃったから、

それが成る可能性はあった。それが成れば上杉と結んで北条を攻めれば良い。

さすれば武田は東に向かって領国を広げられたであろう。

名門の誇りなど一文にもならぬ。戦国大名など勝ってなんぼの世界じゃ。

名門当主と単なる国人では、そういったあたりの意識が違うかものう」


ここで授業の終了を告げるチャイムがなった。

俺は鈴音先生の話を聞いている内に、

まるで真田昌幸が目の前で語っているかの様な錯覚に陥っていた。


俺は前の席のアレックス岡本に言った。

「おっさん、やっぱこの授業凄いわ…」

「しかり…しかり…」

奴も変な日本語で頷いていた…。

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