第4話 涙の別れ…。

さて、如月鈴音が早苗実業学校高等部に来て10年が過ぎた。

36歳になったはずの彼女は…相変わらずである。

どう見ても10代後半、高校生くらいの容姿にしか見えない。

その雪の様に透き通る白い肌にはしわひとつなく、髪も艶やかで

美しい。そう、この学校に初めて来た時から何も変わらない。


流石に周りの教師や保護者から妙な噂が流れ始めた。

曰く、元々の年齢や学歴に偽りがあるのではないか?

成形手術やその手の薬に多額の費用をかけているのでは?

妖怪変化の類で、人間ではないのではないか?とかである。

果ては人間の生き血を夜な夜な吸っているという、オカルトチックな

噂まで流れるありさまだった。


鈴音より年齢は高いが、そう歳は違わない大熊野宗茂は、頭も薄くなり、

その外観も年齢にしてはやや老けていたから、その対比は非常に目立った。

当時宗茂は既に鈴音の事は諦め、親戚に紹介されたある女性と見合い結婚をし、

既にひとりの息子にも恵まれていた。

その宗茂も一向に歳を取る様子のない鈴音を見て、不思議かつ

奇妙に思ってはいたが、さすがに理由を本人に聞く気にはなれなかった。

そんなことを聞いて、彼女の不興を買っても意味はないし、

普段怒りそうにない、いや、鈴音が怒った所を見た事など

一度もない宗茂は、いつも出かかる質問を胸に収めてしまうのであった。


そんな秋のある日の事。

如月鈴音が校長室に大熊田宗茂を訪ねて来た。

「大熊野校長先生に、折り入ってお話がございます」

何やら真剣な鈴音のまなざしに宗茂は胸騒ぎがしたが、

「いえ、鈴音先生こそ改まってどうされたのです?」

と、極力明るい声で答えながら、彼女を校長室のソファーに案内した。

鈴音はソファーにゆっくりと腰を下ろすと、少し間を置いてから口を開いた。

「そろそろ、潮時かと思いました」

鈴音は少し寂しそうに、ゆっくりと小さな声で答えた。

「潮時とは何の事でしょう?」宗茂の問いに

「この学校を去る時が来た…という事です」

と、鈴音は答えた。

「この学校を去る…どういう事でしょうか?」


宗茂の問いに、鈴音は窓の外の景色を見つめながら答える。

そこには鈴音と宗茂が丹精を込めて植えた銀杏(イチョウ)が、

美しい黄色に色づいている。

「校長先生も内心ではお気づきかと思います。

私が周りの人とは少しく違うという事を。

そして、それに関して良からぬ噂も流れているという事を…。

私がいっこうに歳を取っている様に見えない、

私が人間ではないのでは?とかという噂です」

鈴音の答えに宗茂は当惑した表情で答えた。

「それは個人差というものでしょう。

この科学技術の時代に、そんな時代錯誤的噂など、

聞く必要はないし、私はその様な事は信じません」


「そうですね」

鈴音は少しの間ソファーセットのテーブルの上に

視線を落とすと、ぽつりと続けた。

「もしそれが事実だと言ったら、校長先生は如何されますか?」

宗茂はその言葉を聞いて、内心驚愕したが、少し考えてから、

真剣なまなざしで答えた。

「それが事実であろうとなかろうと、我が校には鈴音先生が必要です」


それを聞いた鈴音は、少し嬉しそうにほほ笑んだ。

「ありがとうございます。でも、校長先生。

噂に関しては全てが嘘とも言い切れない面があるのです。

無論、それは危険なものであったり、ましてや悪意があるものではありません。

真実を今語る事は出来ませんが、校長先生にはいずれお話出来る時が

来るでしょう」鈴音はそう話すと、宗茂にこう言った。

「これ以上ここに居ては、良からぬ噂がより広まり、学校の評判にも関わる上、

私自身の身の上も危うくなるとお考え頂ければと思います。

それに今なら、生徒達にも笑ってさよならを言えると思うのです」


この言葉を聞いた宗茂は、暫く沈黙したのち、

窓の外の銀杏を見ながらこう答えた。

「わかりました。先生がそこまでおっしゃられると言う事は、

余程の事情があられるのでしょう。但し、期の途中では生徒が可哀そうです。

今年度終了までは是非我が校で教師を続けて下さい。

何卒宜しくお願い致します」

「私の我儘を聞いて頂き、誠に申し訳ございません。

承知致しました。では謹んで今年度終了までは勤めさせて頂きます」

鈴音の眼の奥には光るものがあった。


こうしてその年度の卒業生が学校を去る前日に、

如月鈴音はほぼまる10年の勤務を終え、早苗実業学校を去る事になった。

彼女が学校を去る事を知ったかつての教え子や、在校生が体育館に集まり、

彼女の退任式がこじんまりと執り行われた。退任の理由は【一身上の都合】。

集まった人々は、その詳しい理由を彼女から聞き出そうとし、

翻意を即したが、これからの行先も含め、彼女がそれに答える事はなかった。

彼女を見送る者は皆残念そうに表情を曇らせ、中には涙を見せる者もあった。

それを見た彼女は、悲しそうにほほ笑むと、

春を告げる梅の花の香の中、寂しそうに背を向けて、いずこともなく

静かに去って行った。忘れがたい多くの想い出を残して…。


「鈴音先生がこの学校を去られて60有余年、何処に行かれたのか、

ついに鈴音先生の口から真実を聞く事は出来なかった。

さすがに今では95歳を越えられているはず…。もうこの世には

おられぬかもしれぬ」しばらく瞑目した大熊野宗茂は、

往時を回想しながらつぶやくのであった。

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