Ⅱ
嵐は突然やってくる。
「おはようございます」
あれから二日経った午前九時五十五分。居間とダイニングの中間にあるインターホンのカメラ映像を確認すると、かの娘・武菱鈴音が日差しに負けぬ輝きの笑顔を見せていた。本当に、
「えっと……どういった、御用で」
予想外の事態に平田は
「謠子ちゃんと十時に約束しているのですが」
初耳だ。思わず居間のソファーでタブレット型パソコンをいじっている謠子を見ると、目が合った謠子はふっと目を逸らした。
「おい、そこのお嬢様。こいつァ一体どういうことなんでしょうねェ?」
「今日はオフでしょ。友人と遊ぶ約束してちゃ悪い?」
「聞いてねえっつってんの! 昼飯どうすんだよ!」
「お寿司取ろう、お金は僕が出す。ほら、お客様待たせないでよ失礼でしょ」
「んぐゥ」
台所で薬缶を火に掛け、門のロックを解除、開門してから、玄関に向かう。
近付くにつれて、少しずつ、気が重くなる。
嫌い、というわけではない。寧ろ親しい間柄といえる。
まず親同士が幼馴染みで仕事仲間、大人になってからもプライベートでの交流があったので、その子らである平田と鈴音もよく顔を合わせていたし、同じ護身柔術の道場に通っていた。初めて会ったのは、鈴音が幼稚園児の頃だっただろうか。明るくよく笑う鈴音は平田によく懐いており、平田自身に妹がいたこともあって構うのは苦ではなかった。
(確か……)
先日彼女は
空白の時間だってなかったわけではない。二年近く前に謠子がキャプターになって帰ってきてからは忙しくなり、その直前にあった鈴音の姉の結婚式に出席して以降は武菱政孝に会う頻度も以前に比べて随分と減った。そしてその間、一昨日再会するまで鈴音とは全く顔を合わせていなかった。
何故。
彼女がそう望む理由が思い当たらない。
身に覚えがない。
等と考えているうちに玄関に到着。ドアを開けて迎え入れる。
「どーぞォ」
「お邪魔します」
何と自然な微笑。何と絶妙な会釈。そしてその名の通り、鈴が鳴るような心地よい響きの声。
武菱鈴音は全体的にハイスペックであった。
頭脳だけではない。キツそうな、もといキリッとした化粧映えのする派手な美人の姉たちと似てはいないが、顔立ちも可愛らしい部類に入る。彼女を幼い頃から知っている平田としてはそういう目を向けるのは気が引けるのだが、見るからに細いようでいてやわらかそうなバランスのよい肉付き、漂う清楚な雰囲気は、世の多くの男が理想的であると述べるだろう。
品行方正、才色兼備の社長令嬢。まさしく手本のようなお嬢様。
それでいて、近付き難いと感じさせない物腰の柔らかさ、あたたかさ。
モテるんだろなこういうの、と平田は観察しながらぼんやり思う。
「あの、これ、どうぞ」
我に返り、差し出された紙袋を受け取る。手土産持参。抜かりない。
「あ、うさぎ野の
「でしょう!」
今一度はっとする。鈴音は
「好物献上したから嫁になれると思ったら大間違いだぞ」
くるりと背を向け、台所へと引き返す。その間にも、鈴音は脱いだ靴を揃えて後に続く。
「知ってまーすよーぅ」
「お嬢、居間にいるから。コーヒーと紅茶とお茶どれがいい?」
「謠子ちゃんが飲むのと同じものでお願いします」
同じ空間にいるのも何やら気まずいので、平田は謠子と鈴音にコーヒーと菓子を出した後、洗濯を済ませてから自室に引っ込んだ。元々個人で受けていた急ぎではない仕事があった。昼食の時間を気にしながら、メールを送ったり資料をまとめたり。ときどき笑い声が聞こえる。片や身内、片や昔を知る者――一体どんな話をしているのか。気になって仕方がない。
「くそッ……小娘どもめ結託しやがって……!」
区切りのいいところで手を止め、思い立って鈴音のことを調べてみる。
車の中で謠子が言っていたことは本当だった。小学校から大学まで有名なお嬢様学校、その中での成績は学年トップ。何と輝かしい経歴か。
「俺も結構頑張った方だけど……昭徳女子でこれかぁ。えっぐいなぁ鈴音ちゃん、こんなん設定特盛り二次元キャラじゃん。中高で生徒会長とか……あ、やっぱり。やってますね。わかるわかる。これ多分卒業式に代表で答辞読むやつじゃんなー……ぅん?」
一点、気になる箇所を発見する。
「……ふーん?」
開いていたウィンドウを全て閉じた後、とある場所に入り込み、確認した瞬間、ページを閉じる。その間一分弱。
「…………これは使える、かな」
謠子はもう引き返せない、仕方がないとしても。
たとえ彼女の父親が、ある程度こちらの仕事を理解しているのだとしても。
「こっち側で生きるべきじゃねえんだよ、お嬢さん」
何とかして破談にしなければ。
時計を見ると、頃合いだった。たまに利用する寿司屋には既に出前の予約をしてある。到着のタイミングに合わせ茶を入れる時間も計算済みだ。
平田は満足げにノートパソコンのディスプレイを閉じ、湯を沸かすべく台所へと向かった。
「謠子様の執事たる者、完璧にいかなきゃな!」
話を聞いた
「年貢の納め時ってやつですねぇ、おっさん」
「黙れ酔っ払い。絶対
「いいじゃないですか、武菱の姫様の中じゃ末のお嬢さんが一番扱いやすいでしょ。余りものには福っつーか
「余りものってお前な。鈴音ちゃんまだ大学生」
「じゃあ武菱娘くじラストワン賞」
「だからそれ失礼だっつってんの」
「四人の中じゃ一番おっぱいでけーし」
「そういうこと言うのやめろお前は全く!」
秀平も武菱家の面々とは面識がある。鈴音たち武菱の娘らが通っていた護身柔術の道場主は秀平の父方の祖父だった。
「しっかし、みんな性格難アリなのによく結婚できましたよね、ねーちゃんズ。特に
「俺も
「他の二人もいいとこに嫁に行ってますからね、多分そうなんでしょうね。それじゃあ浄円寺の息子も妥当っちゃ妥当か」
「いーや、うちそんなでかくねえし。俺継いでねえし」
「商売相手が大体でかいでしょー。こないだの何なんです外人いっぱいいたじゃねーですか、俺英語喋れねーのに」
「あぁすまんな俺が行けばよかったな、デザート頼んでいいから許して」
「やったぁパフェ頼も」
ご機嫌な秀平は、片手で薄い生地のピザを摘まみ、もう片方の手を羽織っているロングパーカーのポケットに突っ込んで、取り出したメモと小さなボイスレコーダー、そしてレシート数枚を平田に差し出す。
「はいこれ、キッタ製作所周辺の聞き込みと、あと三日間張り込んだ結果。と、領収書。……
「飲み込んでから
ピザを飲み込み、数秒、思案。
「今日夕飯何ですか? 謠子さん施設参りだからお肉でしょ」
「唐揚げ」
「行きます!」
「あー、いや、その、ちょっと」
いつもなら呆れて文句を言いながらも迎えてくれるのだが、そうできない事情があるようだ。秀平はグラス半分程にワインを注ぎ、飲まずにテーブルに置いたままぐるぐるとグラスを回す。
「噂の鈴音さんが来るとみましたね」
「……鈴音ちゃんはお前がランナーだって知ってる可能性がある」
「そうだとしてもあの人は通報しませんよ」
「何で」
秀平は、に、と笑ってグラスから手を離し、また一切れ、ピザを手に取る。
「俺があんたに使われてるって知れば、ね。あの人はあんたのことだぁい好きだから、あんたが困るようなことは絶対しねーですよ」
「
「邪魔はしてねーでしょ」
言われてみればそうだ。彼女は幼い頃も、ちょろちょろと付きまとってきたときにやめてほしいと言えばあっさり引き下がっていた。今考えれば子どもらしくない子どもだった。
ふと、破談の為の切り札を思い出す。
あれを使ったら、彼女はどう思うだろうか。自分がどう思われるかはさしたる問題ではないが、傷付けるのは気が引ける、しかし。
「とりあえず付き合っちゃえばいいじゃねーですか」
「やだよあんな小娘」
「あれ絶対Dありますよ、先輩胸ある方が好きでしょ元カノ二人結構な大きさだったじゃねーですか」
「だからそういう言い方やめてくれませんかね、たまたまだしね?」
「おっぱい好きなくせに! 俺も大好物です!」
「うるせえ黙れそしてもう飲むな。つーかそんなに言うならお前が付き合やいいじゃん、逆玉憧れてンだろ」
「えー、ヤですよ俺あの人に嫌われてますもん」
「マジかよお前のそのツラで落とせねえとか」
「落とすも落とさないもそんな気ねーし」
ピザを一口食べてから、
「あの人昔からあんたのことしか見てねーんですけどね」
「は? 何て?」
「何でもないでーす。……同じ逆玉だったら当たりが強い鈴音さんより優しい謠子さんのがいいので姪御さんに嫁がせて下さいおじさん」
「ふざけんなぶっ殺すぞってかお前が嫁ぐんかい!」
「俺女子力ハンパねーですからドレスも白無垢も似合いますよどうですか」
「『どう』じゃねえよバカ着てえんなら自分で作れ」
「ミシン買って下さい」
「息するようにねだるのやめろ」
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