武菱鈴音が浄円寺邸にやってきたのは夕方だった。謠子が夕食に招いたところ、準備を手伝いたいと少し早めの時間の訪問を申し出てきたのだ。客人に手伝わせるわけにはと謠子が言ったのだが、


「だって、もう一人いた方が早く支度ができるでしょう? いつも篤久さん一人で大変なんだから」


 という鈴音のものすごくもっともらしい発言に納得し、了承したのである。

 意外なことに、平田もそれには難色を示さなかった。人手があれば助かるのは事実だ。そして、点数稼ぎのつもりなのだろうが流石に学業に勤しんだ完全無欠のお嬢様も料理の腕前まではさほどでもあるまいと、考えていた、が。


「おいしい」

「これビールが、やばい、ビールが」


 甘かった。武菱鈴音はやはり期待を裏切らない女だった。鈴音が作った大量の鶏の唐揚げは謠子と秀平によってどんどん消費されていく。平田は苦笑いしながら汁椀を持つ。

「そんなにか、よかったな……つか野菜も食えよお前ら……あの、鈴音ちゃん、これ後でレシピ」

「私と結婚すれば覚える必要ないですよ」

 斜め前の鈴音がにこにこ笑う。その輝きは光が強すぎる。平田少し気まずい気分になって、わざとらしくならないように気を付けながら目を逸らし、食事を再開する。

「やっぱいいや」

「冗談ですよ。ちゃんとお教えします」

「ありがと」

「……そうだ、父から預かってきたものが。キッタ製作所の件って言えばわかると」

「あぁ、じゃ後でもらおっかな」


 どうにも冷淡に接しきれない。寄せ付けたくない、何とかして嫌われなければ――と思ってはいるのだが、つい慕って懐いてくれていた小さな女の子を思い出してしまう。

 恐らくそれは、鈴音も計算ずくなのだろう。何と憎らしいことか。謠子とは違った意味で生意気に育ってしまったなと感じる。


「篤久さん」

 鈴音が数個キープした唐揚げの乗った取り皿を差し出した。

「ぼーっとしてると謠子ちゃんと師範代が全部食べちゃいますよ」

「あ、ども……すみませんねぇ……」

 大皿を見ると本当に残り少なくなっていた。視線に気付いた謠子と秀平の箸が止まる。

「お前ら野菜食えっつってんの! 鈴音ちゃんが食う分なくなるだろ!」

 言われた二人は渋々他のおかずに手を付け始める。

「ケチ」

「ケチですね」

「平田くん最近すぐ怒る」

「更年期じゃないですか」

「お前ら今日デザート抜きな、あーあ今日はしらはな堂のいちごゼリーだったのになァ鈴音ちゃんに全部あげちゃお!」

 いきなり振られた鈴音は少し驚いたようだったが、すぐ笑顔に戻った。

「四つは流石に多いですよ」

 確かに幼い頃の面影は僅かに残るが、若く魅力のある女性の表情。


 どう返せばいいのか、わからなくなった。


(女の子はこういうとこあるからずるいんだよなぁ!)


 溜め息をつきながら、唐揚げを口に運ぶ。

「……あ、うま」

「でしょう!」

 また。またこの顔だ。


 くるくるきらきら、サンキャッチャーの光のように表情が変わる。


 合うわけがない。自分は謠子の影として生きているのに。

 

「料理えから嫁になれると思ったら大間違いだぞ」

「つれない人ですね」

「この程度でつれてたまるか」

「参考にします」


 この娘、ごわい。




「トダくんいるから大丈夫だよ、送ってあげなよ」

「戸谷ですけど謠子様は俺ができるだけの全力で守ってますんで行ってらっしゃい」

「お前ら敵だな⁉ 俺の敵だな⁉」

 四面楚歌とはまさにこのこと。夕食後、仕事上の用件を挟んでお茶とデザートを堪能しながら(主に謠子と鈴音、時々秀平の)話に花が咲き、時計はあっという間に二十二時を回った。この辺りは閑静な住宅街、最寄り駅付近に出るまで街灯や自動販売機ぐらいしか明りのない薄暗い道を若い娘一人で出歩かせるわけにもいかないし、必然的に平田が車で送らなければならないことになる。

「やだぁ二人きりとかやだぁ~、付いてきてよォ謠ちゃん!」

「いい歳して駄々こねないでよ伯父様、僕これから明日たかおか製紙に持っていく資料再チェックして手直ししなきゃならないんだからそんな時間ないよ」

「そんなのいつも二日前には済ませてんじゃん!」

「昼間くんから追加情報メールきたんだよ」

「もー! 川羽田くーん!」

 鈴音は苦笑した。

「あの、大丈夫です、一人で帰れますから」

「そういうわけにはいかんでしょ。の大事なお嬢さん、よりによってタケビシの社長の娘をこんな時間にたった一人で歩かせるなんて。こっから駅までだって真っ暗なとこ多いんだしこないだも通り魔出たんだから」

「防犯ブザーも持ってますし私師範代より強いですよ」

「知ってるけどダメ一人では出歩かせません! ……くそ、しょうがねえ……」

 これ以上押し問答していてもらちが明かないし、もたもたしていたら日付が変わってしまう。腹をくくるしかない。

「ちょっぱやで行ってくらァ」

 外出の準備をする為に居間を出ようとすると、

「安全運転だよ!」

「せんぱーい、お土産アイスでいいですからねー」

 謠子と秀平が追い打ちをかけてくる。平田は廊下から吼えた。

「氷でも食ってろ!」




 車内の鈴音は意外にも静かだった。せっかく二人きりになったのだからともっとぐいぐい押してくるのではないかと思っていたが、それは思い過ごしだったようだ。あんしつつちらりと様子をうかがってみると――


 しおらしく、黙って、うつむいている。


(えぇー⁉)


 おかしい。知る限りでは、彼女はそんなキャラではない。

 常に明るくれいで社交的、優等生だが固すぎず柔和、それでいてしっかり芯のある、異性からはもちろん恐らく同性からもどうけいせんぼうの眼差しを受けるだろう存在。それが武菱鈴音という人物のはずだ。


 いつもと違う様子に少し心配になり、声を掛ける。

「あの、鈴音ちゃん、眠いなら寝てていい」

「あ……いえ、違うんですそういうんじゃないです、大丈夫です」

「えっ、何、調子悪いの? シート少し倒して」

「ちがうんですぅ」

 鈴音は顔を覆いながら足をばたばたさせた。明らかにおかしい。

「何、どしたの」

「だって! こんな時間に好きな人と二人きりで車の中なんですよ⁉ どきどきしちゃって仕方がないんですよ! 私! もう! こんなはずじゃなかったのに!」

「えっ……」


 武菱鈴音は困惑していた。想いを寄せる異性と狭い空間で二人きりになった――ただただ、それだけのことでひどく緊張していたのである。

 そしてまさかの反応に、平田もまた困惑した。計算高い才女、そのとりでの崩壊。その程度のことで、こんなに簡単に崩れてしまうのか。


「あ、のさ、えっと」

「こっち見ないで下さいぃ! 恥ずかしい! 前! 向いて! ちゃんと前向いて運転して下さい!」

「あ、はい……あの」

「ちょっと落ち着くまで喋らないで下さい! お願いします! 声! ダメ! 刺激が強いんですっ!」

「あっはい」


 もう何がなんだか、どうしていいのかわからない。

 自分の一挙一動にときめき照れに照れまくる乙女がすぐ横にいる、この状況の何と気恥ずかしいことか。


(何だこの地獄は……!)


 嫌なわけではない。それがかえって妙なくすぐったさを感じさせる。耐えられない。どうにかして抜け出したい。このままでは流されていい雰囲気に――


(いやいやいやいや待て待て待て待てねえよ! 幾つ離れてると思ってんだ……あ、)


 ふと気付く――現在鈴音は混乱しているといってもいい。自分のペースに持ち込めば、上手いこと丸め込めるのではないか? 考えてみれば手に入れている情報も、第三者がいる中では出しにくいネタだ。


 できるだけ、傷付けないように、言葉を選んで。


「……鈴音ちゃん」

「喋らないでって言ってるじゃないですか!」

「いや、あの、ちょっとね、聞いて。真面目な話。……少し、寄り道していいかな。このままだと多分話し切る前に着いちゃうから」

 ゆっくり、さとすように言うと、鈴音も少し調子が戻ってきたようだった。

「……はい」

「ありがと」

 同時に平田自身も冷静さを取り戻した。これならば、彼女も聞き入れてくれるかもしれない。

「……ところでさ。さっき『こんなはずじゃなかった』って言ってたけど、俺が送ってくの、計算に入ってた?」

「当たり前じゃないですか」

 即答。が、声からはまだ僅かながらに緊張が感じられる。平田は鈴音を刺激してしまうような言動は避けるべきだと断じ、視線も向けないようにした。理由はわかっていても普段と違う様子の彼女が少し、本当にほんの少しだけ心配で、何とかしてやりたい気持ちはあるのだが、きっと今は何をしても逆効果になってしまうだろう。


 自分の精神状態も


 婚約までいった恋人と破局して以来、特定の誰かと特別な関係を築かないようにしてきた。謠子の件もあるが、そういう存在が出来ることに抵抗があった。


 今、彼女の顔を見てしまったら、流石に少し。


「はは、こえぇ」


 「可愛い」だなんて、思ってしまったらおしまいだ。




 何しろ少々込み入った話をするのだ。できれば知った顔に遭遇しない、静かなところで、と考え抜いた末に辿り着いたのは、海沿いの公園の駐車場だった。


(完全にクソロマンチックデートコースじゃねえか‼)

 平田は己の思考を憎み恨んだ。しかし今を逃せば次に二人になれるのがいつになるのかわからない。鈴音の為にも、早いうちに話をしておいた方がいい。

 季節的にエアコンを付けていなくても支障はない。エンジンを切って、ひとつ、息をついてから、切り出す。

「……早速なんですけども」

「は、い」


 やや上ずった返事を聞いた瞬間、「あ、ダメだ」と平田は思った。


「お願い、落ち着いて下さい鈴音さん」

 このままではいけない。まずは鈴音のときめきモードをしずめねば、話が進められない。平田は焦った。が、

「だってぇ!」

 手遅れだった。また顔を手で覆いながら、激しく左右に首を振る。

「だって、じゃねえよこれじゃ俺なんも喋れねえじゃんえてよ!」

「じゃあ何でこんなとこ連れてきたんですか⁉ すごくきれいじゃないですか! こ、こんな、こういうのって、まるで、すごく、で、デー」

「言うなよ絶対そっから先言うなよ! 全然違うしそんなんじゃねえし!」

「じゃあ何でこんなとこ来ちゃったんですか⁉」

「しょーがねえじゃんファミレスで話せるようなことじゃねえんだから!」

 思わず、肩に手を掛ける。

「頼むから、聞いて」

 びくりとして顔を上げた鈴音と目が合う。

「……………………はい」


 激しく波打っていた彼女の感情は、一気に静まり返った。




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