Tinkle! J-record detour

半井幸矢


 その日平田あつひさは朝から死んだ目をしていた。いつもなら独り言を呟いていたりうたに話し掛けたり歌を口ずさんでいたりと何かと口数が多いのだが、「ああ」とか「うん」などといったあいづちしか出てこない。朝食を終わらせて席を立った謠子が、少し呆れたような顔で溜め息をつく。

「そんなに嫌なら車で待ってていいよ」

「……や、行きます行きます。ビジネスの話だし、『二人で』来いって言われてるわけだし。………………はあぁ」

 ようやく出てきた言葉らしい言葉。食事が終われば速やかに片付けを始めるはずの彼は、立ち上がろうともせず、テーブルに両ひじついてうなれて、謠子以上の大きな溜め息をついた。これは滅多に見られない珍しい光景である。謠子は平田のかたわらに立ち、緩やかなカーブを描く背を摩った。

「行くの、やめようか?」

「や、行きます行きます。こないだの依頼、出費のが多かったから取り返さないと」

「貯金充分あるでしょ」

「お前の金はそうかもしれんが俺の金はそうでもない……来月車検あるし時計も両方オーバーホールと修理だし新しいの買っちゃったし出費……出費……あぁ、仕事しなきゃ……」

 とはいえ、平田も貧乏というわけではない。寧ろ謠子には及ばないながらも、一般的な目線で見れば充分裕福と断言できるレベルで個人資産を有している。これはこれから行かなければならない場所に行く為に己を鼓舞しているのだ。

「嫌なら行くことないよ」

「嫌じゃないですぅちょっと苦手なだけですぅ」

「嫌なんじゃないか」

「だから嫌じゃねえっつってんじゃん」

 椅子を引いて、テーブルの上に頭だけで突っ伏す。

「だってあのおっさん、会う度恋人はとか結婚はとかいい話があるとか言うんだもん! もーほっといてくれよ俺結婚する気ねえんだからさァ! 何でオブラート包まないで何度も言ってんのにそういう話すんの⁉」

「仕方ないよ、向こうもコネがほしいのさ。特にこの家は事業内容しごとのせいでそういう標的になりやすい。僕もいずれそうなるんだろうけど」

「させませーん絶対そんなことさせませーん!」

 急に顔を上げる。この男はとかく謠子のこととなると己のこと以上に心血を注ぐ。本当はこの人にこそ平凡で平和な家庭を築いてもらいたいのだけどな――謠子は苦笑しながら、食器を下げ始める。

「いざとなったら僕が援護するよ」

「お願いしますよお嬢様、俺の砲撃はダメージ通らんからな」

 ようやく立ち上がると、テーブルの上に残った湯呑みと急須をシンクへ運んだ。




 タケビシECは大企業というわけではないが、情報・通信系ではそこそこの規模の商社である。電子機器や通信機器を取り扱う等の事業内容、また現社長のたけびしまさたかが謠子の祖父・じょうえんきよと幼馴染みであったことも関係し、恐らく現状浄円寺データバンクとの繋がりが一番強い(少なくとも、「他社と比較して」ではあるが)企業ともいえる。


 そして運がいいのか悪いのか、武菱政孝は平田が浄円寺清海の実子・“浄円寺篤久”であることを知っていた。

 ある程度気心が知れている分、仕事相手としては非常にやりやすい。反面、その親しさは厄介でもあった。


「……と、まぁね、あちらさんも実際会って話したいってことだったから検討してみてもらえると嬉しいんだけど、どうかな謠子ちゃん」

「海外企業か。あいにく僕は上から許可をもらわないと国外に出られない。顔を合わせるのはそっちが来るならそのときに、ってことになるかな」

「大変だねキャプターは。ギフトが出るのも良し悪しってやつか」

「確かに不自由は多いけど、その分与えられてる権限も大きいからね。お陰で僕も好き放題できる」

「清海に似てきたなぁ、おっかないお嬢さんだ。……ところで、あっく~ん」

 きた。平田は紅茶を飲もうとした手を止めて、目線だけを政孝に送った。

「……何すか」

「結婚しない?」

 単刀直入。いつもはもっと遠回しな言い方をしてきていたのだが、平田が付き合っていた恋人と婚約解消になった直後からかれこれ十年程、十回以上言い続け、都度断られてきたせいでいい加減に痺れを切らせたか。

 しかし平田はこれまで通りに突っねる。

「え、やだ、俺そういう趣味ねえですよ」

「誰がおっちゃんとしようなんて言ったよ! ちゃんと女の子だよ!」

 わざと少し音を立て、カップを置く。

「お断りだ!」

「いいじゃん!」

「よくねえよ! 何度言ったら理解すンだよあんた! 俺は! 結婚しません‼」

「ほぉう……これを見てもそう言えるかな……? 入っといで」


 応接間のドアが開く。


 そこにいたのは、歳の頃は二十を少し過ぎたくらいの若い女性。

 彼女は、平田と謠子に一礼して顔を上げると、にこりと微笑んだ。


「お久しぶりです、篤久さん、謠子ちゃん」


 穏やかで優しく響く声。部屋の中の空気が一気にやわらかく変化する――


 ただし、一部を除いて。


「す、ずね、ちゃん……?」

 真顔になった平田の周囲のみ、硬質化した。ゆっくり、政孝に目を向けると、政孝は何も言わずに目を逸らす。

「……あんた、どういうつもりだ?」

「どうって?」

二十歳はたちそこそこの自分の娘を十以上歳の離れた野郎に差し出すとか何考えてんだよ!」

 娘がつかつかと近付いてきて抗議する。

「二十歳じゃないです二十二です!」

「たいして変わんねえし!」

「それに、私差し出されたわけじゃないです」

「はァ⁉」

 政孝の娘・武菱すずは、張った胸に手を当て、声高らかに宣言した。


「私が! 貴方に嫁ぎたいと言ったんです!」


 平田はぜんとし、謠子は額に手を当て目を閉じた。政孝は勝ち誇ったような顔をしている。

「ま、そういうことだ」

 言葉を失ったままの平田の横で、謠子が嘆息しながら弱く笑い、平田だけに聞こえるように小さく放った。

「ごめん、ちょっとこれは僕でも援護が難しい」



 謠子が「難しい」と言い切ったのには理由がある。


 まず一つ。今は亡き家の主・浄円寺清海によると、武菱家は浄円寺家と結構長く――それこそ清海が生まれる前から――付き合いがあるらしい。数代にわたって親しい間柄の家だ。

 そして二つ目。家同士の付き合いだけでなく、“仕事仲間”としての側面もある。浄円寺データバンクは情報を売買する商売をしており、一方のタケビシECは情報提供者であり同時に得意先でもある。近年では、タケビシ製品の機材を利用したり、タケビシを介して他社に渡りをつけたりもしている。

 ギブアンドテイクという意味ではお互い様ではある。が、武菱政孝は友人亡き後も関係を切ることなく、その息子や孫娘にまで良くしてくれているのだ。

 そんな彼が、直接縁を結ぼうと申し出てきた。しかも娘は乗り気。


 断りにくいことこの上ない。


「どうするの?」

 帰りの車中、助手席の謠子はタブレット型パソコンを操作しながら言う。平田は答えないものの、タケビシのビルを出てからずっと考えていた。持ち掛けられた縁談を断りながらも家同士の繋がりを断つことなく、今後も上手く付き合っていくにはどうすべきか。


 平田が結婚しないと決めていることにもまた、理由がある。


 まず一つ。姪の謠子の存在がある。

 ちゃんと法的認可を受けた未成年後見人、つまり保護者である今、謠子のことはないがしろにはできない。謠子が浄円寺データバンクのトップとキャプターを兼任しているから尚更だ。いくら才があるとはいえ、中学生相当の少女一人に何もかも背負わせるわけにはいかない。キャプター云々の件は、謠子が知らないうちに勝手に試験を受けて合格してしまったので仕方がないが、彼女の覚悟を受け入れ浄円寺データバンクの――本来自分が継ぐべき浄円寺家の財産や権利のほとんどを謠子に譲渡してしまったのは平田自身である。その時点で一生謠子のサポートに徹すると決めたのだ。

 そして二つ目。平田は特殊能力『火炎操作』のギフトを隠し持っている。それを知る者が誰もいないというわけではなく、謠子や古くからの友人知人の何人かには知られているが、彼の置かれている状況や能力を悪用する危険性はないという信頼から、何とか見て見ぬふりをしてもらえている。事情を知らない他の誰かに知られれば、通報されて能力者を収容する施設に入ることになってしまう。そうなれば謠子のサポートはできない。


 平田は父の友人のおじさん・武菱政孝に対して、一つ目の理由を八割薄めたようなことしか伝えていない。「多感な年頃の少女の保護者」――両親とは死別し経済的に安定しているものの、三十半ばの未婚コブ付き、しかも実子ではなく妹の娘の面倒を見ているという点は、結婚相手としては大きなデメリットだ。縁談を遠ざけるにはこれだけでも充分効き目はありそうなものだが、政孝はそれを知っていながらとうとう自分の娘という最強のカードを切ってきた。それ程繋がりを強化したいということか。


「どう、しよう、なぁ」

 あまりにも、分が悪い。

「ダメな奴に見せて向こうから断るように仕向けられれば……」

「できるの?」

 手を止めた謠子が横目でちらりと見る。

「口で言う程いい加減じゃないし出来る人だからなぁ、私の伯父様は」

「そんなことないもん俺不良壮年だもん」

「鈴音さんは顔見知りだしなぁ。冷たくできないでしょ」

「そんなことないもん謠ちゃん以外には冷たくできるもん」

「ふぅん?」

「頑張るもん!」

「そう。じゃ、頑張って」

 援護すると言っていたはずの謠子の冷たい言い草に、平田は絶望したような顔をする。

「何⁉ 協力してくれるんじゃないの⁉」

「平田くん、きみ、武菱鈴音という人物について何も知らないの?」

 タブレットの画面を平田の方に向け、指先でトントンと軽く叩く。勿論平田は運転中なので見ることはできないが、調べていたことが何なのかを示すにはわかりやすい行為だ。

しょうとく女子大学卒業見込み。成績も優秀、ほぼ間違いなく卒業はできる。資格もいろいろ持っているみたいだけど、中でも目を引くのは秘書技能検定試験準一級合格。きみに負けないくらいに実に有能な才女。正直、僕が個人的に雇いたいぐらいだ」

「なん」

 手早く開いていたウィンドウを閉じ、電源を落としてタブレットをバッグにしまうと、謠子は頬杖をつきながら窓の外に目をやった。

「幸い彼女もきみに対して悪い印象は持っていないみたいだし、この際だから身を固めちゃってもいいんじゃない? 今後うるさく言われることもなくなるよ」

 信じていた姪のまさかの裏切り通告――平田、否、浄円寺篤久は、最悪の事態に陥ったことを察した。


「何でだよォ!」




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