第七話



 嬉しくても楽しくても、どんなに辛い過去があっても、何をどれだけ背負っていても、世界というのは相変わらずで、時間は容赦なく進んでいく。



 篤久は、幼い頃からそれを知っている。正確には悟らざるを得なかったわけだが、だからといってそれを悲観することはない。一時的に、また、たまに思い出してそういう感傷に浸ることはあれど、いつまでも悲しみ嘆いたところで何が変わるでもない。

 自分にはやることが山程あるし、何故だか――いや、本当は理由はわかってはいるが、それにはえて目をつむろう――だんだんそんなことを考える暇もなくなってきているし、目の前にあるものの処理でいっぱいいっぱいになっているうちに、いつの間にやら結構いい歳になってしまった。


 大事なものを守りつつ、己の不具合を、何とか、どうにか誤魔化しつつ。

 それでも前に進むしかない。



 それだから、プライベートな方面では特に、できるだけ厄介なことには関わりたくないのだが、現実というのはときに無駄に厳しいもので、そんな彼の意志など完全無視して災厄をぶちまけてくる。



「ね、お願いむこ殿~」

「誰が聟だよ絶っ対嫌だ」

 篤久ははしを止めて、正面に座る男を睨み付けた。しかし渾身こんしん睨視げいしも効果が全くないようで、男――武菱たけびし政孝まさたかは、にやにや笑いながら膳の小鉢を取る。

「うわぁ、清海怒ったときそっくり。あっくん叶恵ちゃん似だ思ってたけど、ちゃんと清海にも似てるんだな~」

 イラッとする。相手は実父が親しくしていた実父の幼馴染み、自分のことも子どもの頃から知っている。どんなにすごんだところで、親の面影を感じ取られて終了なのだ。

 特に今日は、よそおいのせいもある。

 待ち合わせが高級料亭で、「いつもの黒ずくめじゃない格好で」と指定された。ドレスコードの指定は、表向きの『平田』ではなく本来の〝浄円寺篤久〟に会いたいという意味合いを含んでいるのは明らかだった。

 それならばいっそのこと、誰かに見られても「普段は浄円寺の謠子お嬢様に従っている自称執事の男」とはわからないくらいに別人になってやろうと、清海が日常的に愛用していたつむぎ羽織はおりを借りてまとい、髪も軽く整えてみたのだが――それがあだとなったか。こんなことなら、要望を無視していつもの黒ずくめのスリーピーススーツで来ればよかった。

 そんな篤久の苛立いらだちを察したか、それでも武菱は構わず続ける。

「そう言いなさんな、せっかくニイダの会長と会えるんだよ? ニイダシステム、今アジアでブイブイいわせ始めてるからね、少しくらい顔合わせておいても損はないと思うけどなぁ?」

「そうかもしんないけど。浄円寺データバンクの代表は俺じゃなくて謠子。そんな企業トップの集まりにお嬢様の下僕が行ってどーすんの」

「確かに代表は謠子ちゃんだけどきみだって一応専務だろう、浄円寺篤久くん」

 篤久は顔を顰めた。

 一応長子ではあるが、そういうのは向かないからと跡は継がずにずっと両親や妹の補佐をしていたし、謠子がキャプターになって帰ってきてこの家の力が必要なのだと言われたときも、きっと己の立場は邪魔になると裏方に徹しようと決めた――それを表に引っ張り出そうというのか。

「謠子のスケジュール空いてないから無理だよ。今日だって、施設参りあるから俺一人でここ来れたんだぞ、それに行ったらあんた俺のこと聟って言うだろ絶対やーだ」

「言うに決まってるじゃん鈴音もらってくれるんだろ?」

「何でだよ貰わねえよこっちはまだ承諾してねえだろが」

「『まだ』?」

 にやぁ、と笑われてはっとする。つい口をついた言葉だが、これでは認めたと取られてもおかしくない。

「ちっ、ちがっ……そうじゃ、なくてっ、しないっ、『まだ』じゃなくてこれからもっ!」

「まぁまぁ、そのことは追々ってことで、ちょーっと頼まれてくれないかなぁ」

 空になった小鉢を置いて、武菱は篤久を見ながら微笑む。

「あそこの家の男ども、商才はあるけど会長以外は――息子も孫も、どうもあまり評判がよくなくてねぇ。……一昨日、鈴音が大学出てすぐのところでニイダの社長の息子を名乗る野郎に声掛けられたんだそうだ」

 評判ねぇ、と呟いて、篤久は刺身を一切れ口に運ぶ。

「そういや去年だっけ? ニイダの末の息子が女癖悪くて大学で問題起こしたって騒がれてたのに、すぐなんも聞こえなくなったな」

「金って便利だろ?」

こえぇこと言うなァおっさん」

「きみがそれ言うかねぇ」

 視線が合った瞬間、同時ににや、と笑う。かと思えば、すっと笑いが消える。

「ってこたァ、何だ? 俺に虫除むしよけになれってか? 必要ねえだろ、鈴音ちゃん滅茶苦茶つええじゃん」

「でも女の子だ」

「……ま、そこは、確かにねェ」

 くだんの家の子息の素行の悪さを考えれば、確かに心配ではある。複数人に囲まれて車に連れ込まれたりなどすれば、性別関係なくどんなに武に長けていても抵抗するのは難しい。ギフトを持っている謠子でさえ誘拐されたことがあるのだ。(もっとも、謠子の場合は半分は自ら虎穴に入っていったようなものではあるが。)

「他の野郎に頼みなよ。表向きでそういうことするんなら、お嬢に掛かり切りの俺よりいいのわんさかいるじゃん」

「他の野郎じゃ鈴音が納得しないよ。後々破談になったってことにもできるだろ?」

「よく言うわ、破談にする気ねえくせに。……そうだな、こっちの頼み聞いてくれたら、考えてもいいけど」

「えっ、何、怖いなぁ」

 言う割に、笑っている。どうせこの切り返しも織り込み済みなのだろう。

 篤久は舌打ちしながら天ぷらがきれいに盛られた皿に箸を伸ばし、つまんだ海老天をオレンジジュースで流し込んだ。飲酒ができないからと頼んだものだ。武菱は呆れる。

「こういう席なんだから酒くらい飲みなよ」

「車で来てるしお嬢のお迎えもあるし。ってか、酒なんて十年以上飲んでねえもん、体が受け付けねえよ」

「徹底してるなぁ、お嬢様の犬」

っせえあいつが命張ってんのにいい大人の俺がぬくぬく生きてるわけにもいかないんでね。……そうそう、こっちの頼みなんだけどさ、銀杯ギンハイの画像解析システム最新のやつ。一式仕入れてくれる?」

 すっかり泡の消えたビールを飲もうとしていた武菱はせ込んだ。

「な、えっ⁉ 一式⁉ シルバーカップ製のを⁉」

 想定外の要求だったらしい。しかし無理難題を吹っ掛けたわけではない。にっこり、篤久はわらう。

そろえて、小父おじさん♡ 何も買ってよこせって言ってるんじゃねえんだからさァ。たーだし、売値は格安でね♡ 大事な大事な末娘の身の安全を〝浄円寺篤久〟を使って確保するんだぜ、やっすいもんだろ?」

 武菱は、引きった笑顔で、グラスを置いた。忘れていた。あの浄円寺清海の息子だった。


「……謠子ちゃんもだけど、ほーんと、清海そっくりになっちゃったね、あっくん」

「へへ」



     △     ▼     △



 槍崎彩菜との間にあった出来事以来、篤久は特定の異性と特別な関係を持つのを避けるようになった。その方が謠子の面倒を見るのに都合がよかったし、自分は相手よりも謠子を選び、場合によってはあっさりと切り捨ててしまうというのを理解していた。


 そもそも篤久自身、そういうことに関して比較的淡泊であった。


 好意を寄せられれば勿論嬉しいし、人並みに性欲もある。が、手放したくないと思う程の感情を抱けなかった。

 最初に交際した相手も彩菜も、いざ別れるとなった際には全く未練はなかったし、かつては幼い頃から付き合いのある世利子に執心していたこともあったが、素気すげなくされ続けて諦めはついていて、今では友人であり同じ年頃の子どもを持つ(篤久の場合は実子ではなく姪だが)相談相手としての側面が大きい。


 いくら親しくなって、一緒にいたいと思っても。

 養父母のように、妹と親友のように、両親のように、突然消えてなくなってしまうのではないか。


 それならば、誰かと共にある未来など最初から考えない方がいい。


 どうせ自分も、謠子のことを一番に考えてしまうのだ。「謠子がいなくなったら生きていけない」とは、よく口にしている言葉である。しかし、冗談のように使ってはいるが、あながち間違いというわけでもない。謠子がいることで己を保っている、その自覚はある。

 そしてそれは、謠子もよくわかっていた。

 篤久が幼い頃に記憶を失い、アイデンティティが揺らぎっぱなしのまま生きていることは知らない(もしかしたら、さとい彼女のことだから、篤久が記憶障害であることは既に知っているのかもしれない)が、自分が篤久の生き甲斐であること、自分に危険が及んだ際に篤久が正気を失うことを知っている。そして謠子自身も、篤久を失うことを恐れている。だから何も言わないのだ。


 「沼」という表現があるらしいが、まさしくそれだと篤久は思う。


 心の拠り所だった妹の遺したものを、傍に置いて、甲斐甲斐しく面倒を見る。

 妹によく似た声が、「平田くん」と、「伯父様」と呼ぶ。

 それは、甘くてあたたかくて心地よく、中毒する。


 本当は抜け出さなくてはいけない、いずれ離れていくだろう謠子の為に。

 それでも――このままでありたいと、そうあり続けたいと、心が訴える。



 やはり、ずっと壊れたままなのか。



 治らないならいっそこのままでいい。

 壊れたままで生きていくしかない。



     △     △     △



栢嶋かやしま建設の記念パーティー、一緒に来てくれるんですね」

 台所に並んで立ち、茶を入れる若い娘が満足げに笑う。その所作と湯呑みの中の透き通った萌黄色の美しさが、手慣れていることを示している。

 漆塗りの菓子鉢の、最中が並べられた横の空いているスペースにかりんとうを詰めながら、篤久は、ふ、と一つ息をついた。

「まー、取引しましたからねェ」

 それだけではない。得るものもそれなりにあると考えて、謠子と相談した末に決めたことだ。

仁井田にいだ瑛翔えいと千山ちやま国際大文学部四年、テニスサークル所属。だそうです」

「千山でテニサー? うっわ、絵に描いたようなチャラ男じゃん」

「と、思うでしょう? ところがところが、パッと見は真逆でした。顔立ちはまぁまぁ整っている方だとは思いますけど、明るい感じではなかったですね。テニスやりそうな体付きでもなかったし」

「へー。そんなのが強姦致傷容疑を金で揉み消した、ってか」

「それもありますけど、一応英語弁論大会で何年ぶりかに優勝してる人なので、大学側も何とか隠したかったんじゃないかな」

「一芸に秀でたボンボン、か。ま、腐ってもニイダシステムの孫だし、千山レベルの看板としちゃ上出来……」

 さりげなく、じわじわ、距離を詰められているのに気付く。一歩、横にずれると、合わせてまた一歩分詰められる。

「何で逃げるんですか」

「いや何で近付いてくんのよ」

「いいじゃないですか」

 頬をふくらまし口を尖らせるその表情、何とも可愛らしいのだが、先日会食した男とは全然似ていないなと思う。ただし人のよさそうな顔の割に狡猾こうかつなところはそっくりだ。

「……鈴音ちゃん」

「はい」

「ちょっとやり方が強引なんじゃねえの」


 武菱鈴音は浄円寺データバンクとほぼビジネスパートナーのような関係にあるタケビシECの社長・武菱政孝の末娘で、少し前に政孝から持ち込まれた縁談の相手だ。

 篤久としては、謠子の養育のこともあるがやはり槍崎彩菜の件が少しトラウマとなっており、結婚はしないと決めているので断ったはずなのだが、幼少期からずっと篤久に好意を持っていたという鈴音が諦める気配は全くなく、挙げ句大学を卒業したら浄円寺データバンクで働きたいと謠子に直接持ち掛けて内定しており、たまに研修という口実で浄円寺邸にやって来る。断る際に、詳細でないとはいえ彩菜とのことと――篤久が隠し持っているギフトのことを打ち明けたにも関わらず、だ。


「手段を選んでいられないと思ったので」

 にこにこしながらさらりと強気な発言。苦笑いを禁じ得ない。


 鈴音は可愛い顔をして気丈な娘だが、篤久は彼女を小さい頃から知っていて、慕ってくれているのはやはり嬉しくないわけではないので、どうにも突き放しきれない。

 己の〝存在〟について自信がない分、他人から、特に見目のよい異性から好意を持たれるということに関しては、つい受け入れてしまいがちになってしまうのだ。そのせいで過去に痛い目を見たりしたわけだが、そういう傾向があると自分でもわかっていても改めることができないという点については、情けなくもあり、反面自分も人間であると少し安心できるところでもある。


 この状況と、『自身が』という事実が、篤久の現在の悩みの種になっていた。何しろ身内ではない分、謠子よりも扱い難い。


 しかも、


「でも、仁井田瑛翔がろくでもないことしてる人間だというのは間違いないですよ。私、話し掛けられたとき友達二人と一緒にいたんですけど、私が素っ気なくしたらすぐそっちに乗り換えて――いるように、見せかけてましたからね」


 鈴音は頭がよく、補佐役としては優秀な人材だった。謠子が是非雇いたいと喜んで採用した所以である。尚更遠ざけにくい。


「見せかけてた?」

「後で聞いたら、私のこといろいろ探ってきたそうです。それから、がどうとかとも……多分あの人、違法なものに手を出してるんじゃないかなって」

「クスリやってんのか、ろくでもねえバカ息子だな」

「だから、『守ってほしい』っていうのは、貴方の近くにいる口実ってだけじゃないんですよ。狙われてるのは流石に私も怖いですし、揉み消されたってこともあるけど、一般人からのこの程度の情報じゃ、警察はなかなか動いてくれないですからね。相手はニイダだし」

 自分は浄円寺家と縁のある人間だと表明しておけば牽制になるし、万一の場合、業務の特性上警察の捜査にも協力することがある浄円寺データバンクを通してリークできるということか。

「ふゥん……ま、いいよ、こっちも銀杯の最新機器ねだっちゃったし。その分は遠慮なく利用しな」

「ありがとうございます。ギンハイ……吹っ掛けましたね……」

「浄円寺の息子なんて激レアコースご希望じゃ、まぁこのくらい当たり前ですけど?」

「じゃあ金額分フルに活用させてもらわなきゃ」

ただし仁井田瑛翔が絡んでこなくなったら終わりだかんな」

 鈴音はまた、不満そうに頬を膨らませる。

「つれない人ですね」

「残念でしたー絶対つれませーん」

 菓子鉢と、入れた茶と急須を乗せた盆をそれぞれ持って、謠子の私室兼仕事部屋に向かう。

「悩ましいとこだよな。そういうしてる人間がいるとこの方が、うちにとっては役に立つんだもんな」

「謠子ちゃんにも話しておいた方がいいですよね」

「そうねェ。あいつ喜ぶぞォ、ニイダの弱み握ったっつって」

「ふふ」


 彼女は、彩菜とは違う。

 力になろうとしてくれる。

 謠子のことも、篤久の大事なものだと言ってくれる。

 その上何故か、しぶとく生き残るような気がしてしまう。


 考えては、それを振り払う、その繰り返し。


 ようやく壊れた状態でもいいと諦めがついたというのに、どうやらそのままではいさせてもらえないらしい。

 それならそれで生きていくしかないか。



 世の中ままならないものだ。彼は常々思っている。



 しかし、



「謠子様~ァ、おやつの時間だよ~」

「丁度よかった平田くん、今すぐ調べてほしいことがあるんだ。これ、お願い」

「は?」

「早くして」

「……あぁ、くッそ! 三原屋の栗最中くりもなか久しぶりだったのに!」



 これはこれで、なんて考えてしまう自分は結構楽観的なのかもしれないと、浄円寺――平田篤久は思うのだ。




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