第六話


 珍しく謠子は日付が変わってすぐに寝た。

 いつもは二、三日徹夜したのちに、休息を取るかのように三時間から八時間程眠るという育ち盛りにあるまじき睡眠の取り方をしており、その日はたまたま「寝る日」だったのだが、昼間からいろいろあったせいで尚更疲れたのだろう。


 午前二時前。篤久が入浴後に翌日の仕事や家事の準備を済ませて自室に入ると、聞こえる小さな寝息に合わせてベッドの上の布団の塊がかすかに上下している。

 本当はその眠りを妨げるのは気が引ける――が。

「もーちょっとそっち行って、入れない」

「んん」

 ベッドのど真ん中で丸くなっている謠子は、一向に動く気配がない。

 謠子が篤久の寝床に潜り込むのは親代わりになってから度々あったことではあるが、それが始まった頃に比べれば謠子も随分と成長している。謠子が施設から屋敷に戻ってきて間もない頃にも同じことをやられて、流石に狭さを感じ少し広いベッドに買い換えたものの、結局毎回この有様である。

「おい、そっち行けっつってんの」

「や」

「『や』じゃないの俺寝れないじゃん」

 どうせ別室で布団を敷いて寝ても、謠子はわざわざ移動してくる。それなら狭いシングルの布団よりも、少しだけとはいえ余裕がある自分のベッドの方がまだましだ。全く退こうとしない謠子の体を無理矢理奥に押しやり掛け布団を被るが、無言で奪い返され体の半分近くが布団から出た。溜め息しか出ない。

「だから嫌なんだよお前と一緒に寝んの」

 呟いた途端、ふわっと体が温かくなる。掛け布団が返ってきた。いで、肩のあたりにごつんと固いものが当たる。鼻先を明るい色の細くやわらかい髪がくすぐった。

 親愛の念を全身でぶつけるようによく抱き付いてきた妹を思い出し、背に手を添えて、とん、とん、とゆっくりリズムを刻むと、また、軽い頭突きを食らう。

「ちっちゃい子みたいなことしないでよ、幾つだと思ってるの」

 完全に起こしてしまったらしい。苦笑いしながらも、その手は止めない。

「十二歳にもなって人んとこ来て寝る奴の台詞じゃねえぞクソガキ」

「ワガママ全部聞いてくれるって言った」

「いやだからそういう…………謠子」

「何?」

「ごめんな」

「どうして謝るの」

「……何となく」


 何となく。

 とは言ったが、それは何に対してなのかきっと謠子もわかっている。ぎゅう、としがみついてきた。


「伯父様」

「ん」

「危ないこと、しないでね」

「お前がそれ言う?」

「アビューザーにならないで」

「ならないよぉ」

「どこにも行かないで」

「行かなーいよー」


 抱き締める、その体は、細くて小さくて。

 何もかもを背負わせてしまっている自分がつくづくいやになる。


 それでも、


「大丈夫、ずっと一緒にいるよ。地獄の底までついてってやるって言ったじゃん」


 こんな自分でも、この子に求められている。



 絶対に、離れない。



     ▼     ▼     ▼



 屋敷からどうにかして抜け出して逃げようとしていた篤久と謠子だったが、あっさり脱出に失敗した。見付かってしまったと思った瞬間、かなり離れた場所にいたはずの彩菜が、いつの間にか目の前に立ちはだかっていたのだ。瞬間移動か、加速か――そういったたぐいのギフトを持っているようだった。


 槍崎彩菜は正気を失っていた。

 呪詛を唱えるように小声で何かを発しているが、何を言っているのかわからない。


「――、――」


 篤久に向ける愛情と疑問。

 謠子に向ける憎悪と怨嗟えんさ


 静かに、しかしぎらぎらと激しく。

 眼の奥で光る。


 異質のものを見ている感覚。背筋にぞくり、と、冷たいものが走る。

 鬼のようだ、と篤久は感じた。

 確かに人間の形をしている、しかしまるで人間ではない〝何か”。


 以前土産物でもらった菓子の包み紙を思い出す。

 描かれていたのは、女が、男を愛するがゆえに蛇の化け物へと転じ、ついにはあやめてしまうという有名な伝説だった。

 愛しさ、怒り、悲しみ、憎しみ、それらが混じり合い、燃え盛り、男を焼き殺す。


(よくない火だ)


 これは、しずめねばならない炎。

 自分が死ぬ分には構わないが、謠子だけは何としてもまもらなければ。


 篤久は彩菜から見えない位置で、すぐに引き寄せて抱き上げられるように、少しでも恐怖が和らげられるようにと謠子の手を握った。そして自身も冷静さを失わないように静かに、ゆっくり問いかけ、さとそうと試みたが、彩菜は全く聞く耳を持たなかった。いや、聞こえてすらいなかったのかもしれない。何を言ってもまともな言葉が返ってこない。

 話が通じないとなると、本当に逃げるしかない。しかし、彩菜は瞬時に距離を詰める能力を持っている。キャプターである両親がここに到着するまで一体どのくらいかかるのか。せめて、一瞬だけでも気を逸らすことが、謠子を逃すことができれば――


「使うしかねえか」

 小さく放たれた言葉に、ギフトのことを言っているのだと気付いた謠子がそでを引く。

「おじさま、ダメ、バレちゃう」

「今のあいつは正気じゃない。ここはうちの敷地内だし、お前の力ってことで誤魔化すこともできる」

「わたし火なんかだせないよ」

「火を出す何かを出したってことにすりゃいいさ」

「おばあさまにおこられちゃうよ!」

「お前の分も俺がしかられるから」

 小声で言い合っていると、


「なに、こそこそやってるの」


 少し離れた場所にいたはずの彩菜がすぐ目の前に現れた。驚いて硬直していると、謠子と繋いでいる手を取られる。

「謠子ちゃんばっかり、ずるい」

「……アヤ、」

「ずるい」

 彩菜の手に力が入った。咄嗟とっさに、潰されないようにと謠子の手を離したが、骨がきしむような痛みに篤久の顔が歪む。とても若い女の細腕から出ているとは思えない力。

「離して、アヤ、俺このままじゃ手ェ折れちゃう」

「嫌」

「彩菜」

「嫌、嫌、嫌、いや、なんで、どうして、ぜったいいや、だって、わたし……あ、あぁ、」

 にこ、と笑う。

 手を握る力は少し緩まったが、離してはくれない。そのまま、ぐいっと引き寄せられる。


「あっちゃん。すごいの、持ってるんだ」


「え」


 嬉しそうに、愛おしそうに、握ったままの篤久の手を右頬に寄せて微笑む。整った顔立ちゆえにか、尚更人間離れした存在のように見える。


「そう、火を。そっか、私とおんなじ、ギフト持ちかぁ。嬉しい。うれしい。うれしい」

「あ、や、何、言って」

「おそろいにしちゃおー」


 彩菜の右頬全体に紋章が浮かんだ。触れている手に静電気のような痺れが走り、同時にうなじが――篤久の紋章の出る部位が熱くなった。能力ギフトを使ったときの反応だ。


 何故? 

 火を操っていないのに?


「これで、あっちゃんと一緒ね、ふふ」


 『おそろい』。

 『一緒』。

 まさか。


「アヤ、お前、すげえ能力ちから持ってんじゃん……」


 角のない美しき鬼女は、愉悦ゆえつの微笑を浮かべた。



     △     △     △



 頭より少し上の位置で鈍い音を出し振動を始めたそれを、素早く手に取り停止させる。薄く目を開けて画面を見ると、起床時間。そういえば、謠子を起こさないようにとスマートフォンのアラームは消音にして、バイブレーションでセットしてあったのだった。

 そろりとベッドから出る。

 篤久は夜何時に寝ても、朝七時には起きる。それから身支度を整え、朝食の準備をし、仏壇に炊いた白飯と水、線香を供えるのが毎日の日課。正直なところ神仏など信じていないのだが、「家族と挨拶・対話する時間」と考えて欠かさないようにしている。


 りんを鳴らし、合掌。

 目を閉じると、彩菜の姿がちらついた。

 すぐ目を開ける。いつもよりだいぶん早い。


「は~、余計なこと聞くとすーぐ夢見が悪くなる。嫌ンなっちまいますよねェ」

 並ぶ位牌いはいに呼びかける。

「……だんなさま、とうさん」


 二人の父。蝋燭ろうそくの火が応えるように揺れる。


「焼かれるって、どんな気分なんですかね。…………死んじゃったらわかんないか。ってか、ふきんし~ん☆」

 苦笑いが漏れる。


 それでもきっと、話すことができたなら、清海も忠通も笑いながら、父として、師として、真面目に答えてくれただろう。

 忠通のことで覚えているのはほんの少しだけ、ほとんど忘れてしまってはいるが、そんな気がした。破損してしまって断片的にしか残っていない記憶が確かであれば、彼が使っていた火は暗がりを照らしてくれるようにあたたかく、安心をもたらしてくれるものだった。実父である清海も、母はよく「顔はにこにこしているが怖い男だ」と漏らしていたが、少なくとも篤久にとっては穏やかで優しい人だった。


 ふと、蝋燭にともった火を見る。

 少し念じるだけで、形が自在に変わる。

 二股に割れ、ねじれ、ぐるりと回って渦を巻き、宙に浮き、トカゲの姿になって、篤久の周りをひゅるひゅると舞う。

「……お前、俺の味方、だよな」


 目の前のそれに、手を伸ばす。


「ぅあっち!」


 熱と激痛が走った瞬間、相棒はふっと消えた。慌てて立ち上がり、洗面所へ向かう。

 深いことを考えずにやってしまった行為に我ながら呆れる。何故触ろうとしたのか。自分は火を自在に操ることができるというだけで、肉体そのものが火に強いわけでもない、生身の人間なのに。


「いってェ……」


 流水で冷やす指先が、じんじんと痛む。

 軽く触れただけでこれなのに、それに焼かれれば。



 身も、心も。

 それどころか、



 ■■■■■■



     ▼     ▼     ▼



 篤久のギフト能力をコピーしたせいか、彩菜の動きから敏捷さはなくなった。どうやら、能力をコピーすると元々持っている能力を使えなくなる――つまり上書きされるらしい。

 とはいえ厄介なことに人体の神秘というやつか、たがが外れた人間は常軌を逸した力を生み出すようで、篤久の手を掴んでいる彩菜の手は未だ力強いままだった。簡単に振りほどけそうにない。謠子を後ろにかばいつつ、一歩、二歩、後退して、間合いを取りながら、仏間との距離を確認する。確かまだ火のいた線香が立っていたはずだ。


(こいつは……どこまでわかってる?)


 力を複製されたとき、炎を操る能力であることはバレてしまった。が、どう使えばいいのか、何が使えるのか、欠点は何なのか――篤久が養父から教えられたことまでは、


(流石に知られないようにしないとな)


 焦るな。冷静に。


「アヤ。お願い、離して」

「あっちゃん、行こうよ、楽園。また一緒にいられるよ?」

「もう一緒にいられないんだよ。話し合って、そう決まったの」

「だって、おかしいよ、おかしい。何で、謠子ちゃんがあっちゃんの傍にいるの? いやだ、わたし、が、いっしょがいいの、いや」

 空いている方の手を謠子に向けて伸ばす――のを、掴んで、強く払い除けないように、それが刺激とならないように、そっと宙へと放つ。

「謠子に触るな。お前が怒っていいのは、俺だけだ」

「どうして? あっちゃんは、悪くないでしょ? 謠子ちゃんが、いなければいいの。それで全部、よくなるでしょ?」

「いなくなればいいなんてことはないよ。謠子は俺の家族。大事なもの」

「わたしより?」

「彩菜」

「嫌、いや、いやいやいやいやいやいやいや!」

 彩菜は腕を激しく前後左右に振り出した。言葉にならない、人間が発しているとは思えぬ号哭ごうこく。暴れようとする彩菜を何とか抑え込みながら、篤久は後ろでおびえて固まっている謠子を振り返った。このままでは謠子が危ない。

「逃げろ、早く!」

「でも、おじさま」

「俺はだいじょぶだからっ、いいから早く行け!」

 そう言い放った瞬間、ヒトの形をした異形と化した彩菜に振り払われた。逃げる謠子を追うそれに向けて、僅かだけでも足止め出来るようにと仏間から火を呼んで目の前で弾けさせる。と、彩菜が笑った。


「そうやって使うんだ」


 消えかかった火の粉が今一度燃え上がり、今度は謠子に襲い掛かる。


 篤久はその火に命じた。



 『跳ね返れ』



 一瞬で、炎が大きくなり、彩菜を包む。

 髪に、服に、燃え広がっていく。


 鬼女は叫びわめきながら転がり回った。火の手は弱まらない。炎を自在に操る――火の勢いを上げることは勿論、抑え込む、つまり鎮火も容易にできる篤久のギフトをコピーした彩菜自身、それが可能なはずであるにも関わらず、火を消すことも考えられない程に自我を失っているようだった。


 篤久はというと――それを、ただ、見ていた。


 その火を消すことはとても簡単だ。そう念じればいい。


 しかしその気にはなれなかった。


 彩菜は、謠子に危害を加えようとしたのだ。

 よりによって、自分から写し取った力を使って。


 ゆるせるものではなかった。


 このまま燃え尽きてしまえばいい。

 そうすれば、二度と自分たちの、謠子の前に現れることはない。


 火の手が全く弱まらないことをおかしいと思ったのか、謠子が篤久の元に戻ってきて手を引いた。

「おじさま、なんで、消さなきゃ、おじさま! あやなさん死んじゃう!」

「……こいつは、お前を、殺そうとした」


 赦せない。


 燃えろ。

 もっと強く。


 炎の勢いが増す。

 いやにおいが風に乗り、鼻をついてくる。

 紋章の出ているだろう後頸部こうけいぶが、体が熱い。汗もき出てきた。

 このまま力を使い続ければ体温調整がきかなくなり、命の保証はない――わかってはいたが、そんなことよりも。


 自分がたおれてしまう前に。

 目の前のを、全て、全て、跡形もなく、燃やし尽くしてしまわなければ。



「やめて! 殺しちゃダメ、人殺しにならないで!」



 人殺し。

 言われて我に返り、謠子の顔を見る。

 そういえばこの子は両親を――


 喜久子。

 ウィリアム。

 二人の顔が、謠子に重なる。



「謠、子」


 名を口にしたそのとき、頭がくらりとして、意識が落ちた。




 目が覚めたのは四日後。謠子がずっと泣きながら傍を離れなかったらしいが、届け出ていた外出の期限が迫った為に一旦エリュシオンに戻ったのだと、枕元に付き添っていた叶恵が静かに言った。

「彩菜さんのことは、清海が『どこかの火炎操作能力者の力をコピーして、それを上手く扱いきれなかったようだ』と報告した。心配はいらん。彩菜さんも…………辛うじて、ではあるが、生きている」

「でも、奥様、あいつは、彩菜は、俺が」

「何も間違ったことは言ってない。お前も、謠子を守ろうとした。それだけだ」

「……いいんですか、そんなふうにしちゃって」

 キャプターは本来ならば能力者をエリュシオンへと連行しなければならない。それなのに、父も、母も、ギフトを持つ篤久のことを〝持たざる者〟ディプライヴドとして施設外に留めようとしている。これは法にそむいている行為だ。

 しかし叶恵は笑った。

「あんなところに愛しい息子をやるわけにはいかんからな。それに私たちもここを空けることが多い、謠子が帰ってきたときに誰もいないんじゃ寂しがる。篤久、お前はこちらで生きろ。ここに、いるべきだ」

 度々エリュシオンのことを「あんなところ」だとか「おり」だとか、まるで悪いもののように言う叶恵のその言葉を、篤久は気にしていた。世間はギフテッドになることを、あの施設に入ることをほまれとしているのに。

「あの……エリュシオンて、悪いとこ、なんですか?」

「追々教えてやる。……さて、お前の看病を理由に無理矢理休みをもぎ取ったからもう少し構ってやりたいところだが、清海から帰ると連絡があった、飯を作ってやらねば。お前は粥でいいな」

「あ、はい、ありがとうございます」

「全快したらデートするぞ」

「はい」


 結局、施設についての思うところを、知っていることを何も教えてくれないまま、両親はこの世から去ってしまった。

 しかし、父も母も、それが最善の選択であるとして、篤久の能力をひた隠しにし続けて、エリュシオンへ入れようとはしなかったのだろう。



 ゆえに、施設外で生きなければならないのだ。


 能力を持ちながらそれを隠して生きる〝放浪者ワンダラー〟として。




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