第五話


 はっきり言って、好みの外見をしていたし、少し気丈なところも可愛いと思っていた。


 槍崎うつぎざき彩菜あやなは、大学の同じゼミの後輩だった。はきはきとした物言いに見合った凜とした美形で、少しせっかちでそそっかしく意地っ張りなところもあったが、根が素直で裏表がないせいか少々きつい口気であっても感情がわかりやすく、ゼミの他のメンバーとも衝突することはあまりなく、そこそこ仲良くできていた。


 そんな彼女から好意を告げられたのは、大学の卒業が確定した直後のことである。邪魔をしないようにと気遣って待っていたらしい。元々それなりの親しみは感じていたし、好いてもらえていることは嬉しかったので、彩菜との交際を始めた。


 交際は順調だった。


 大学を卒業する少し前に姪の謠子が生まれ、卒業した後は外部企業に就職せずに家業を継いでいた妹の喜久子の補佐をする形をとっていた為、仕事が忙しすぎて相手にできないということはあまりなかった。特に喧嘩という喧嘩をするようなこともなく、何となく将来的にはこのまま一緒になるのだろうと考えていたし、彩菜からそんなふうな言葉を零されたときも笑って同意した。


 その形が崩れ始めたのは、喜久子が夫と共に殺害された直後からだろう。


 それまで通りにあった浄円寺家の家のこと、清海・叶恵夫妻の生活サポートに加え、喜久子が担っていた仕事の引き継ぎ、更に謠子の養育。やらなければならないことが一気に増えた。

 そんな中でも、まだもう少し先になるかもしれないがゆくゆくは、とちゃんと結婚するつもりで、結納も交わした。


 それは悪手だった。

 それで安心しきってしまっていたのだ。


 彩菜は頑張って支えようとしてくれていた。歩み寄ろうとしてくれていた。少なくとも、そう見えていた。

 特に親をうしなってしまった幼い謠子のことも気に掛けてくれたのだが、その努力に反して謠子はなかなか彩菜に懐かなかった。元々外で会うことが多かったせいか、謠子にとって彩菜は「よく知らないお姉さん」であり、人見知りしてしまっていたのだ。

 そのうち慣れるだろうと高をくくっていたそれは、やがてほころびとなり、謠子の保護者になることを決めたときに、決定的な〝亀裂〟となった。



「どうして⁉ 何でそんなことやらなきゃならないの⁉」



 そう言われた瞬間――ダメだ、と思った。

 彩菜は謠子に対してマイナスの感情しか持っていない。

 何より、「そんなこと」などという言葉で片付けられた。


 大事なものを。

 守りたいという気持ちを。


 いきどおりは感じない、ただただ、残念だった。


 このことに関しては、自分も悪い。

 婚約までした相手よりも、これからの人生を共に歩もうと考えた相手よりも、生きる気力を与えてくれる小さな希望の星を手元に置いておきたいと考えてしまった。怒る資格などない。

 だからといって、譲る気にもなれなかった。きっとこの子のそばを離れたら、自分は何者でもなくなってしまう。


 それが恐ろしかった。


 謠子の伯父――浄円寺家の息子である自分。

 浄円寺家の息子であるがゆえに生まれた、預けられて平田家で育ったもう一人の自分。


 謠子と離れてしまったら、どちらも失ってしまう気がした。


 感情的になっている彩菜には、話したところで理解できないだろう。そう考えて、婚約の解消と別れを切り出した。



 それが、事態を悪化させることになるとは知らずに。



     △     △     △



「平田くん」

 聞き慣れた声に、我に返る。のぞき込んでくる顔は日本人のそれでない色彩ではあるが、表情はどんどん妹に似てきたなとぼんやり考える。両手を伸ばして白い頬を挟むと、求肥ぎゅうひのようにやわらかい感触が掌全体に伝わった。そのまま何度もプレスする。

「びゅ、ちょっ、ぶ」

「風呂もうお湯溜まったろ、入ってこい」

 ソファーに横になっていた篤久が身を起こすと、謠子は隣に腰を下ろした。

「顔色、悪いよ」

「うっそん、肉モリモリ食ったばっかだぞ」

「……思い出しちゃった?」

 今度は謠子が篤久の顔に手を添える。小さくて、あたたかい。

「んー、……少しね。って、お前はだいじょぶなんか?」

「大丈夫、もう、彩菜さんは怖くない。僕は、平気。でも、ねぇ、」

 ぎゅう、と力一杯抱き付く。

「さっきからずっと顔怖いよ」

 思い出したのは自分だけではない。この子の方が余程よほど恐ろしい目に遭ったのだから――不安が消えるのを願うように、抱き締め返す。

「生まれ付きだよ悪かったな」

「問題は彩菜さんより、彩菜さんのお母様の方だね。彩菜さんは奥の方に収監されているからそうそう出てはこられないけど……彩菜さんのお母様は心を病んでるだけのディプライヴドだからなぁ。僕じゃ手が出せない」

「何かあったら、また禁止命令出してもらえばいいさ。行き過ぎれば再入院にも持ち込める。アヤみたいな厄介なギフトがねえだけまだマシだ」

「万が一、彩菜さんがまた来たら」

 回す腕に更に力が入る。

「今度は、私が貴方を守るからね」


 ああ、そうか、この子がキャプターになった理由は、祖父母のことだけじゃないのか。つくづく不甲斐ない。

 しかし反面、随分ずいぶんと頼もしくなったとも思う。少々言動が過激に育ってしまったことは否めないが。


 『貴方が、謠子さんを、こんなふうに』


 以前関わったアビューザーに言われた言葉がぎる。

 その通りだ。こうなってしまったのは自分のせいだ。本来なら普通の中学生だったはず――いや、この子の性格を考えるとどうだろうか。通学していたとしても、学校で上手くやっていけたかどうか。


「んんん」

 逸れていった思考の先、あり得たかもしれない非現実をつい想像し、思わずうなると、謠子が不満そうな顔をした。

「何、信用できないの? これでもあの頃より具現化できるものいっぱい増えてるんだから」

「いや、そうじゃない、ごめんそっちじゃない。うん、頼りにしてるよお嬢様」

「何なの」

 頬を膨らませるその表情は、まだまだ幼い。大人と肩を並べざるを得ない謠子にもちゃんと子どもらしさが残っているのを見ると、篤久は少し安心できた。ゆっくり大人になってほしい――手が離れるそのときが、できるだけ遅くなってほしいと願うのは身勝手だとは理解しているが。

「何でもねえよぉ~ィ」

 抱いていた謠子の体を担ぎ上げるようにして立ち上がる。小柄で痩せているのでそんなに重たくはない。そのまま風呂場へ向かう。

「早く風呂行けつってんの、髪焼き肉くせェんだよ」

「ねぇ、ねぇ、バスボム入れていい? 秀平くんが買ってきてくれたの」

「えぇーあれラメ入ってんじゃん」

「だって折角せっかくだから使わなきゃ」

「あいつ何で後で俺が入るってわかっててあんな社畜のOLが週末に自分へのご褒美に使うようなやつ買うかな……三十過ぎのおっさんが甘い匂いさせながらキラキラの体洗い流す虚無感絶対理解してねえだろ」

 ぼやくと、謠子がくふふと小さく笑った。

「一緒に入る?」

「……お前それ秀平に絶対言うなよ」

 洗面所まで搬送して下ろす。次は着替えを持ってきて、風呂上がりの飲み物の準備をしておかなければ。

 一緒に暮らしているとはいえ通常の伯父と姪の関係ならここまではしないが、この家の主人は謠子で自分はそれに従属する者という形を世間に見せておく必要があるので、一応このようなところから徹底するようにしている。謠子に家事をさせないのも「お嬢様」でいさせる為だ。

 謠子は精神的な幼さはあれども頭脳は篤久よりも優れているし、ギフトを持つキャプターであり、名実共に浄円寺データバンクのトップでもあるが、やはり若年の女子であることがあなどられやすい要因となっている。それなりの力を持っているということを示すには、それなりのはくをつけておいた方が何かとやりやすい、と二人で決めたことだった。

「ねぇ、今日、一緒に寝ていい?」

 洗面所を出ようとしたところに、姪が呼び掛けてきた。振り返った篤久は、悩む。

「お前布団取るからやだ。布団敷いてやるから和室で」

 本当は甘やかしてやりたいが断腸の思いで断ろうとした矢先、

「一緒に寝る」

 言葉を遮られる。溜め息が出た。

「決定かよ」

「ワガママ全部聞いてくれるって言ったもん」

「こういう方向のことで言ったんじゃねえんだけどなァ」

「あ、お風呂出た後に飲むの、この前鈴音さんがくれた桃とライチの紅茶がいいな。、アイスでね」

「イエスマイレディー」


 確かに、もう収束していることだ。

 彩菜は、捕らえられてエリュシオンにいる。厳重な警備を突破してこない限りは安全だ。それでも謠子は不安なのだろう。


 ふと気付く。



 先程、「また彩菜が来たら」どうしようと考えていた?



 謠子に怖い思いをさせてしまったのは、彩菜だけではない。

 篤久自身もまた、そうだったのだ。


「……そっか、ダメ、だよな。あんなこと、またやっちゃ」



     ▼     ▼     ▼



 とにかく、自分のことよりも謠子を守らなければ、と思った。


 連日やって来てはうらみ言を述べられたのが苦になり、お互い弁護士を通して婚約を解消し、交際も取りやめたというのに、彩菜は何度も復縁を迫ってきた。彩菜だけではない。篤久が本当は浄円寺家の息子であることがわかったのと、婚約を解消したときに高額な慰謝料を一括で支払ったからか、彩菜の母親までもが何かと接触を図ってきた。

 金に目がくらんだ人間というのは、篤久自身も仕事上何度も目にしてきていたので、そういう人間は世の中には多々いるのだと理解はしていた。なので彩菜の母親に対しては特に嫌悪感を催したりすることはなかったが、それでも行く先々で待ち伏せされてわめかれればうんざりする。しかも外出する際はほとんど謠子を連れていたので、怒りの矛先が幼い謠子に向けられることもあった。

 このままでは謠子に危害を加えられかねない――流石に警察と、更に再度弁護士を通すことになり、彩菜と彩菜の母親には法的措置が取られた。


 これでひと安心だ、と思った。


 それから数ヶ月後、彩菜にギフトが出て収容施設・通称エリュシオンに連れていかれたという話を、担当してくれた弁護士の息子だった六路木誓から聞いた。益々安堵した。

 エリュシオンには、中に入ったギフテッドは許可なく施設から出てくることはできない決まりがあるのだが、精神的に不安定になっている彩菜には簡単に許可は下りないだろう。キャプターである篤久の父母の目も届く。


 更に時が経過し、今度は謠子にギフトが出てエリュシオンに行ってしまったが、幼い子どもで大人が付き添い、更に祖父母がキャプターであり逃走の恐れはないという点を考慮されてか、謠子の場合は外出許可は比較的すんなり通り、月に一、二回は浄円寺邸へと帰って来ていた。



 事件は、その謠子の帰省時に起きた。



 仕事は昼前に終わらせ、午後は謠子と二人で和室でごろごろしながら百科事典や図鑑を開き、明日は動物園に行こうかと話を弾ませていたのだが、そんなのんびりとした時間は一本の電話で急変した。


「彩菜ちゃんが脱走した。僕たちもすぐそちらへ向かうから、戸締まりを……いや、謠子を連れて逃げなさい。あの子は今精神状態が正常じゃない。くれぐれも、気を付けて」


 実父の緊迫した声に、緊急事態が発生したのだと察した。彩菜の持つギフト能力がどんなものなのかは知らされなかったが、施設からの脱走を可能とし、なおつ心を病んでいる状態で行使するのは危険とみなされる力――篤久も強力なギフトを持ってはいるものの、いざというとき対抗できるか。しかも、施設外で自由に生きられるようにと両親があれこれ手を尽くして隠してくれたのだから、能力を使うとなれば誰かに見られてしまうようなことは避けなければならない。謠子にも無から物質を作り出す『具現化』のギフトがあるが、いくら賢い子とはいえ六歳の子どもに何ができよう。ここは素直に逃げるべきだ。

 謠子に、怖い人が来るかもしれないから大事なものを持っていけるように言った、


 そのときだった。



 庭から、玉砂利を踏む音が聞こえた。


 女の声。

 名前を呼んでいる?



 声の主が誰なのか謠子が名前を出しかけたその口を手で塞ぐと、庭の方に注意を向けながら、ゆっくり、謠子の体を抱き寄せつつ部屋の隅に身を潜ませる。

「謠子。さっきお爺様から電話がきた。彩菜お姉さんは、ランナーだ。もしかしたらアビューザーかもしれない。多分、見つかったら危ない目にう。だから、これから見つからないように逃げる。で、後でお爺様とお婆様と合流する。いいな?」

 静かに、簡潔に状況説明すると、口を塞がれたままの謠子はこくりと頷く。

 篤久は、そっと口を塞いでいた手を離して、謠子を心配させないように、怖がらせないように、笑いかけた。


「さぁ、頑張って逃げるぞ」

「うん」




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