第四話


 ウィルが去った後の浄円寺邸は静まり返っていた。

 篤久と謠子の二人だけでいるときは、基本的にテレビやラジオもつけず、音楽もかけずにいるから、つまりは元来の静けさが戻ってきたわけなのだが、ウィル・シグル――ウィリアム・シーゲンターラーという男はいい歳をして動きも喋りも落ち着きがなく騒がしいからか、特にいなくなった後の静寂が際立つ。さながら金色の台風だ。

「はぁ」

 ダイニングテーブルの片付けの手伝いをしている謠子は、先程から何度も溜め息をついている。そういう年頃だということもあるのかもしれないが、彼女はそもそも他人、特に大人からとやかく言われるのを嫌がる。


 一人っ子だからワガママに育った――というのでは、ない。

 寧ろ彼女は、あまり手がかからない。


 僅か十歳という若さ、否、幼さで、大人と同等の力を持ったがゆえに、彼女はそれらしく振る舞おうとしている。

 しかし、二年が経過した今でも、周囲はそれをなかなか許してはくれない。

 キャプターという役職を得ても、大人顔負けの頭脳を持ち屈指の情報屋の代表という立場にいても、まだ義務教育も終わらぬ年頃の子どもなのだと、そういう扱いをしたがる。恐らくは、その容姿も要因となっている。黙ってじっとしていれば、人形のように愛らしい。大人は皆、〝浄円寺のお嬢様〟たる姿を謠子に求めているのだろう。


 篤久も、本当のところは、そうであってほしい、できるだけおとなしくしていてほしい、と密かに願ってはいる。

 何しろ二歳で両親を亡くし(実際、父親は生存しているが)、八歳で祖父母を亡くすという、子どもにしてはなかなかハードな道を歩んでいる。

 だからこそ、せめて謠子自身には穏やかで幸せな人生を送ってほしいと考えていたのに、この子は自らけわしいルートへと進み出てしまった。利発すぎるのも考え物だ。


「名字。どうする? 成人するまでまだちょっと時間あるけどさ。でもあいつもいつ捕まるかわかんねえから、そうのんびりしてる場合でもねえぞ」

 ホットプレートのコードをまとめながら問うと、謠子はシンクにある水を張った洗い桶に皿とフォークとコーヒーカップ、グラスをゆっくり入れながら、

「……僕が浄円寺姓になったら、シーゲンターラー家は絶えてしまうね」

 静かに応えた。ウィルの両親――謠子からみた父方の祖父母は、謠子が生まれる前に両方病没しているらしいと以前ウィルから聞いている。謠子のことだから、ちゃんと調べて確認したのだろう。

「あっちのお爺様とお婆様には、ちょっと申し訳ないな。こっちの家は、きみがいるからいいんだけどさ」

「俺結婚しねえっつってんじゃん。この家は俺らの代で終わり。全部お前が好きに使やいい」

「求められてるんだからすればいいじゃないか」

「やだよ」

 皿とグラスを洗い始めた謠子を、背後からぎゅうと抱き締める。

「もう家族が事故に巻き込まれて、とか、誰かに殺されて、とか。そういうの経験したくねえもん」

「僕と一緒にいたら、僕が先に死んでしまう可能性だってあるじゃないか。っていうか邪魔だよどいてよ」

「絶対守るし絶対俺のが先に死ぬし! つーかそんなんしなくていいそれは俺の仕事だお嬢様。さっさと部屋戻って仕事しろ仕事、報告書今週提出だろ」

 抱き締めていた手を離し、謠子から泡だらけのスポンジを奪って体全体を使いシンクの前から押し除けると、謠子も体当たりしてきた。

「もうやっちゃったよそんなの。手、洗わせて」

「おっ、さっすがー」

「……あっちのお爺様とお婆様のお墓参りも行きたいね。出国届、受理してもらえなさそうだけど」

 ギフテッド、しかもキャプターである謠子では、なかなか許可が下りないだろう。何しろ謠子の受け持っている仕事はキャプター内でも少し特殊で、現状謠子しか職員がいない。施設の外で暮らしているといっても自由度はさほど高くはない、寧ろ外部に居住しているからこそ向けられている目は厳しいのだ。

「そうだな、一度くらいは行けたらいいな。喜久ちゃんも行けなかったし」


 いばらの道へと進んでしまった謠子を、できるだけ伸び伸びと生活させてやりたい、と篤久は思う。

 謠子が背負っているものは、本来なら自分が背負うべきものだった、だからこそ。


「あのね、伯父様」

 今度は謠子の方が篤久に抱き付いた。

「あの男の代わりにお墓に入ってる人も、ちゃんと帰してあげたいなって思うんだ。ずっと他所の家のお墓に入れられてるなんて、肩身が狭いよね?」

「そうだな、いずれはやんなきゃとは思ってたけど……ちゃんと鑑定し直して身元も調べないとなーって、謠ちゃん邪魔ー」

 言う程邪険にされないことを、この子はよく知っている。腰に回す手は離さない。

「お骨、けちゃってないかな」

「えっ、骨って融けんの⁉」

「融けるというか、分解されてしまうんだよ。骨壺に水が溜まってるだけならいいけど」

「マジかよじゃあ早めにやんなきゃじゃん、もう十年も経っちまってるぞ」

 自分のギフトの為と称しているが、勤勉な両親によく似た謠子もまた実に勤勉で、実にいろいろな知識をその小さな体に吸収している。日々驚かされるばかりだ。

「でも一旦入れたお骨取り出すって、業者さん必要だし怪しまれるよなぁ……」

「届出が必要だね」

「うわーめんどくせえ、ろっくんに相談しよ」

 洗い物を終えてシンクで手の水気を切ると、謠子は離れて呆れた。

「きみ六路木ろくろぎくんのこと何でも屋みたいに思ってない? うちの業務のことじゃないんだから専門外でしょ」

「だいじょーぶだよォ、あいつ自分のこと超優秀って言ってんだから上手く乗せれば何でも死ぬ気で調べてくれるよ。……ってなわけでェ~、今夜はろっくん誘って焼き肉食いに行こっか謠子お嬢様?」

 にや、と笑った顔を向けると、謠子の表情が緩んだ。

「それはいいけどこの話題で焼き肉ってどうなの」

「顔笑ってンぞ、嬉しそうだな肉食娘」



     ▼     ▼     ▼



 妹の喜久子とその夫ウィリアムが殺害されたとのしらせを受けたのは、十年前のある日の日中のことである。二人で出掛けて、そのまま二人共突然帰らぬ人となってしまった。

 喜久子は銃殺、ウィリアムは銃殺された後、更に身元の判別が難しくなる程に全身を焼かれているという実に凄惨な有様で、当時世間に衝撃を与えた。


 が、その事件内容の割には、浄円寺家の周辺は騒がしくはならなかった。


 「どんな相手であろうと条件を満たせば情報を売買する」という浄円寺データバンクの一貫した姿勢は、世間からみれば合理的でありながらも厄介なものなのだろう。ハイリスク・ハイリターンのギブアンドテイクという関係、大きな成果を得たいならば弱点をさらけ出さなければならない――できれば関わり合いになりたくない部類の家だ。しかしそのやり口が確実であるからこそ、浄円寺家が財を成しているのもまた事実である。


 二人の葬儀と、事件関係の対応をある程度終えると、すぐに落ち着いた。違うのは、喜久子とウィリアムがいないことだけ――なのだが、ここである問題が浮上する。


 二人がのこした、たった一人の娘・謠子は、まだ二歳だった。


 本来ならば祖父母が養育すべきなのだが、彼らは情報屋とキャプターを兼職している身で多忙、幼子の面倒を見ている暇はない。

 そこで篤久は自ら謠子の養育を申し出た。元々浄円寺夫妻と喜久子の仕事と生活のサポートに徹していたから時間的に余裕があったのと、謠子が生まれたときから一緒に暮らしていて懐かれているので、自分なら適任であると考えたのだ。

 とはいえ、謠子は父似の西欧寄りの外見、完全に日本人の容姿で全く似ていない篤久が連れ歩いていれば怪しまれる可能性は高い。

 そこで何か問題が起こった際にややこしくなることを避ける為、まず法的に保護者として認められるように未成年後見人になる手続きをとった。

 幸いにも謠子は、見てくれの割にやんちゃだった母親とは違い、目を離すとどこかへ行ってしまうようなことはなく(これは謠子が篤久にべったりだったところが大きい)、好き嫌いもほぼないというあまり手のかからない子ではあったが、それでもそれなりに育児には苦戦した。


 自分の子というわけではない。

 しかし、嫌だと思ったことは一度もない。


 確かに謠子の後見人になったのは二十五になる前、世間的にみれば、学生気分が完全には抜けきれずにまだまだ遊んだりもしたい年頃。

 しかし篤久は、友人関係はそれなりに広くはあるものの、特に遊び歩きたいとは思っていなかったし、何より姪の謠子と一緒にいる時間は、忙しないながらも彼女の成長を見ているのが楽しかった。幼い頃の記憶を失っていることや、妹夫妻がいなくなってしまったことをあまり考えずに過ごすことができて、精神的に楽になれた。

 姪は好奇心が強く、教えれば面白いくらいに吸収していくので、してやりたい・やらせてやりたいことがどんどん出てきた。仕事の合間をぬっては、できるだけ彼女の相手をするようになった。


 一部の記憶がない不安定な自分を支えてくれたのは、喜久子だった。

 引っ掻き回して気をまぎらわせてくれたのは、ウィリアムだった。


 それは篤久にとって、「救い」となった。

 そんな妹と親友が宝だと言った、二人にそっくりなこの子を、ちゃんと育て上げようと篤久は決意した。



 この子がいるから、生きていける。


 害する者は敵である。



     △     △     △



「珍しく仕事かと思ってたのに何で墓とか骨とかのことなのしかも肉焼いてるときにさぁ」

「ほら言われた」

 謠子が苦笑する。正面の席に座る薄手のニットにパーカーを羽織った男・六路木ちかうは篤久の高校の頃の同級生で、一見そうは見えないが浄円寺データバンクの顧問弁護士――ということに一応なってはいるものの、実際その仕事はほとんどない。六路木が出る間もなく、篤久や謠子が自身でしてしまうからである。それでも一応そういう立場として置かれているのは、法的な力がどうしても必要なときに、という場合の保険の意味合いが大きい。普段は同様に弁護士をしている父親と兄の事務所で手伝いをしているらしい。

「ろっくんならそういうの詳しいかなーって思ってたんだけどォ~……そうでもない?」

 焼き網の上の肉を裏返しながら篤久が言うと、六路木は、

「んぬっ?」

 ジョッキのビールを半分程まで一気に飲み、

「そんなことないね! 俺超優秀だし⁉」

 ふんぞり返った。

「だよねぇ~! さ~っすがろっく~ん!」

「ですよぉ~! イェー!」

 二人はお互い両手で指差し、先をちょんと接触させて歓声を上げる。篤久は知っている。この六路木誓という男、頼めば自分に出来ることならば大体何でもやろうとしてくれる。人がいいのだ。

「改葬だよね、確か手続きそんな難しくなかったはず。あっつんもお嬢も忙しいっしょ、最近暇だし、代わりにやっとこうか」

 先程見せた学生のような盛り上がりが嘘のように、急に落ち着く。六路木は明るいがいつも騒がしいわけではなく、根は意外と真面目なのである。だから他人から頼られるし、自身もそういうことが向いているのだと知っている。高校生だった頃は学級委員を務めていた。

「ありがった~い! じゃあお願いしちゃお。ちゃんと別料金払うからね」

「オッケー、そんじゃ今度委任状書いてちょうだいね。……あーよかった、やることできて。最近ダディが『ちゃんと貰ってる分働け』ってうるさくってさ、働けつったって肝心の仕事がないっての」

「ろっくんはうちのおまもりみたいなもんだからな、仕事ねえのは平和な証拠さ。って俺が言ってたって小父さんに言っときな、客がそれでいいっつってんだから問題ねえよ、ちゃんと金も払ってるんだし。……ってか、暇なの? 小父さんも兄ちゃんも?」

「なんかさ、最近法廷ものドラマ多いじゃん? その影響かも。ネット相談とかそういう活動してる奴も前より増えてるし、そういうのに限って結構イケメン多いし、客流れてんじゃないかな。うちも兄ちゃん看板にしてやればいいのに」

「いやそこはろっくんが看板やるべきじゃん? 兄ちゃん既婚者だろ」

「悪名高い浄円寺データバンクの顧問が看板とか逆に客逃げるって」

「そんな悪いことやってないもん!」

「嘘つけやってるだろ! この誓様の目は誤魔化ごまかせないぞ! ……あっ、お嬢お嬢、冷麺食べない? 辛いのイケるよなキムチ倍で半分こしよ、取り皿もらって」

 いいよ、と応える謠子は、焼き上がった肉を食べる箸を止めない。

「確か六路木くんちサイトも地味だったよね。平田くん作り直してあげなよ」

「えぇ~、無理だよ俺デザインとかそういうの全然かじってねえもん。丸村さんに連絡してみれば? 去年フリーになったっつって正月に滅っ茶苦茶オシャレな年賀状きたぜ」

 六路木が切れ長の目を見開いた。

「うっそあいつ独立したの⁉ 年賀状⁉ きてないんだけど!」

「元彼にはそうそう送んねえだろ~」

「いやいやいや去年はきてたんだよ……あ、去年婆ちゃん死んだからかなぁ、葬式来てくれたもんなぁ」

「何、ろっくん丸村さんとヨリ戻すの」

「うちの婆ちゃんと侑奈ゆうな、同じヨガ教室行っててさ。たまに帰りに一緒にお茶してくるぐらい仲良くて。入院してるときもお見舞いよく来てくれたんだよなー。……ちょ、焦げる焦げる、この辺食べなよあっつん、ほらお嬢も食べておっきくなれなれ!」

 六路木誓は人がいい。おごられている身でありながら、網の上の焼けた肉をどんどん篤久と謠子の取り皿に乗せていく。

「……それは、ヨリが戻るやつなんじゃ?」

 少し考えてから、篤久が恐る恐る口にすると、六路木は嬉しそうな顔になった。

「そうかなー。……あ、そうだあっつん。元カノちゃんのお母さん、押し掛けたりしてないよね?」

「え」

 思わぬ話題に、箸を下ろす。謠子も怪訝な顔で、肉を焼こうとしていたトングを置いた。

「何かあったの?」

以来、ずっと入院してるっつったじゃん? 親父から聞いたんだけど、今年に入ってから退院して、旦那さんが逃げるみたいにしてとうとう離婚したらしくてさ。禁止命令ももう解けちゃってるし、大丈夫かなって」

「六路木くん何でそれ早く言わないの⁉」

 立ち上がった謠子の小さな手がテーブルを力一杯叩くと、一瞬皿とグラスが浮いてガチャンと音を立てた。六路木は二十二も歳下の少女に恐れをなしてジョッキを両手で持ち顔の前で構える。

「そうだったねごめん! でも特に連絡とかなかったしちょっと安心しちゃっててっ!」

「何かあってからじゃ遅いでしょ! 心構えがあるかないかでも全然違うんだよ⁉ わかってるの⁉」

「うーたちゃん、どうどう、どうどう」

 篤久は謠子を座らせ、落ち着かせる為に肩を強く抱いた。

「大丈夫だよ。大丈夫だから」

「だって、おじ」

「シ」

 謠子の唇に、人差し指の先を押し当てる。

「それはお外じゃ言っちゃダメなやつですぞお嬢様。誰が聞いてるかわかんねンだから」

 謠子は言葉を返すでもなく、顔を顰めた。いきどおってはいるが落ち着きは取り戻したようだ。

 ひとつ、嘆息して、肩をぽんぽんと軽く叩いてから解放すると、六路木が申し訳なさそうに俯く。

「ほんと、ごめん……」

「気にすんな、今知れただけでも充分だよ、ありがとな。……うっわ謠子お前口拭けよあぶらとタレすっげえぞ」

「あっつん、元カノちゃんの方は……大丈夫、かな……?」

 おしぼりで指を拭いながら、思い出す。


 全て焼き尽くす激しい炎のようだった女。


「……うん。施設に何かない限りは、多分。だよね、謠子様」

 不機嫌そうな表情のままの謠子はメニュー表を開いた。

「一度逃走して再度収監されたアビューザーについては、警備が前より厳重になる。そう簡単には出てこられないさ……絶対に、とは断言できないから、油断は禁物だけどね」



 もし、万が一、次に会ったら。


 そのときは、確実に。



「平田くん顔怖い」

 はっとして隣の謠子を見ると、にや、と笑われた。

「ああ、いつものことだったね」

「しっつれいなガキだなおめェ」

「ねえ、特上カルビと特上ロースもう一皿」

「いいよ頼めよ好きなだけ! ろっくんの冷麺もな!」



 この子を守る為ならば、どれだけ手が汚れようとも。




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