第三話
「下手クソか!」
ホットプレートの上に流された生地は、円を描くどころか歪みに歪んだ謎の形になった。篤久渾身の突っ込みにウィルはあははと愉快そうに笑う。
「仕方ない、こんなこともう十年以上はやってないからね。やっぱりこういうのはきみの方が上手だなアーサー」
「いやお前無駄にお玉動かすからこんななるんじゃん、物理得意ならわかるじゃん」
「違うよアーサー、パンケーキはね、愛の形だ」
「おめェの愛情歪んでんのかよ」
「きみとウタコに対する有り余る想いだ、広がってしまうものさ」
生地の入ったボウルとお
「お前さぁ、……何? もうちょっと、何かさ……頭、上手に使えねえわけ?」
「いい質問だ。だが残念ながらそれは僕にもわからない。その謎が解けるのには時間を要する。恐らくは、そうだな、僕ときみがおじいちゃんになる頃には多少はわかるんじゃないかな?」
「頑張れよ博士号持ち」
「そんなの過去の幻さ」
いい歳した三十過ぎの男二人が
謠子は、実父であるウィルを嫌っている。
理由は三つ。
十年前に死んだはずなのに、実は生きていたのを何故か隠していたこと。
そして、謠子の嫌悪する人殺しを「仕事」と割り切り、結果アビューザーとなっていること。
そのくせ、たまに現れてはキャプターである謠子に助力し、父親面をする。
写真が手元に残っていたこともあり、最後に顔を合わせていたのが物心つかない頃ではあるものの、当時の記憶など全くなくても再会したときにはすぐに父親だとわかったのだという。しかも、以前自身が絡んだ事件に関与したアビューザーから情報を得ていたそうで、事実が判明したときもたいした衝撃ではなかったようだ。
篤久は、謠子よりもほんの少し早くウィルと再会を果たしていた為、謠子に対して少々後ろめたい気持ちがある。
話せなかったのだ。
彼女にとっての父親が生きていたというのにそれを告げられなかったのは、やはりウィルがよからぬことをしている人間だったということが大きい。しかも謠子はキャプター、アビューザーは捕獲対象である。巧妙に姿を隠していたのか、素顔を含む多くの情報は不明とされているが、身体的特徴や起こしたと
しかしながら、彼は自分たちの前ではそんな実態はおくびにも出さない。どころか、篤久の親友で義弟、そして謠子の父〝ウィリアム・シーゲンターラー〟の姿しか見せない。篤久は、約九年ぶりにウィルに会った際に何か事情があったようなことは本人からうっすらと聞いてはいるものの、それすらも未だに謠子に話せないでいる。そのせいで謠子もウィルのことを胡散臭がるのはわかっているのだが。
「そうだ、ウタコ、きみの身の安全についての話をすると言ったね」
輝くような笑顔を娘に向ける。明るい茶がかったブロンドに、謠子のそれよりも鮮やかな色の緑の瞳。まるでそういう宝飾品のような存在だ。とても人を殺めるような男とは思えない。
当の謠子は心底嫌そうに顔を顰めるだけで返事はしなかったが、ウィルは構わずに続けた。
「ウタコ。シーゲンターラーの名を捨てなさい」
突然の衝撃発言に、
「はぁ⁉」
篤久と謠子の声が重なった。ウィルは手を叩きながらおかしそうに笑う。
「あっはっはっは、すごい、すごい! 同じ
「親はおめェだろバカ野郎!」
▼ ▼ ▼
ウィル――ウィリアムは、幼い頃からとても人懐こかった。
篤久がウィルと初めて出会ったのは十歳になって少し経った頃である。屋敷の門前で道に迷ったとおろおろしていたところを、丁度学校から一緒に帰ってきた喜久子と共にわかるところまで送っていったのがきっかけとなり、交流するようになった。
ウィルが当初から片言ながらに日本語を話せていたこともあって、兄妹と打ち解けるまでさほど時間はかからなかった。
特に喜久子とは気が合ったようで、しかも二人共篤久に対して好意をぶちまけてくるタイプであった為、篤久はよく二人に振り回されていた。とはいえ、ウィルも喜久子も優れた頭脳の持ち主で勉学を好む傾向にあったので、共に遊びながら共に学ぶという実に理想的な環境が自然と整い、お陰で学習塾等に行かなくても学校での成績は上位の方をキープできたという利点もあった。二人の娘である謠子を見ていると二人の血を感じる。謠子も勉強が大好きだ。
親交を深めていくうちに、ウィルは自分がギフト能力を持っていることを兄妹に明かした。
ギフト『分解』。
手に触れた生物以外のほとんどのものをバラバラにする能力。
一方だけが明かすのではフェアでないと、篤久も彼に自身の持つ力を教えた。
秘密を共有した二人の距離は更に縮まり、また一方で、喜久子も別の意味で親密になっていった。
そして喜久子が高校を卒業する頃に、ウィルに呼び出された篤久は、こう打ち明けられたのである。
「どうしよう、キクコに『家族になろう』って言われちゃった! そしたらきみも、きみたちの父さんも母さんも家族になってしまう! こんな
幼い頃に両親を亡くし、兄妹の家は留守がちでもちゃんと両親がいて羨ましいとよく言っていた彼の、その困ったような、嬉しそうな、そして泣きそうな顔といったら。
他の誰でもなく自分にいの一番に報告しに来たであろう親友に、大笑いしながら歓迎と祝福の言葉を掛けた瞬間抱き付かれて泣かれたのはいい思い出である。
そのときは、本当に幸せそうだったのだ。
△ △ △
ホットプレートのど真ん中に鎮座する歪んだパンケーキをターナーでひっくり返し、篤久は友人に言う。
「お前は、それでいいわけ? 家族がいなくなるんだぞ」
ウィルは下唇を噛んで頬を膨らました。わかりやすい。
「嫌なんじゃねえか」
「嫌だよ。嫌だけど、こうするしかない。万が一──まぁないと思うけど! 僕が捕まったときに本名が知られて、ウタコの名前が出てきてしまえば不都合だろう? いつまでもシーゲンターラーを名乗っていたら、関係を疑われる」
「だったら」
ようやく謠子がウィルに目を向ける。
「人殺しなんて、やめればいいのに」
わかっていて、わざと言っている。それはウィルにも伝わったようだった。自嘲するように、少し、笑う。
「一度罪を犯してしまえば、それはもう二度と消えることはない」
「…………」
「今のきみよりも幼い頃から、僕は〝悪い人間〟として生きてきた。ブラックウェルのときのように、たまにお願いされて手伝ったりすることもあるけど、本来なら捕まれば良くて無期か懲役数百年、最悪死刑は
「きみの指図は受けない」
不機嫌に目を逸らすものの、席を立とうとはしない。おやつは食べたいらしい。謠子は運動量は少ないが、その分頭を使ってエネルギー消費しているのかよく食べる。焼き上がったいびつなパンケーキをターナーで適当に切り分けて皿にとり、ケーキシロップを回しかけたうちの一つを謠子に差し出すと、更に嫌そうな顔をした。
「それは食べたくない」
「ワガママ言うな。俺が買ってきた粉と牛乳と卵を俺が混ぜたのをウィリーが流して俺が返して俺が切って俺がシロップかけたやつだ、大丈夫、大体俺が作ってる」
いまいち納得いかない顔ではあるが素直に皿を受け取る謠子を見て、ウィルは口を尖らせた。
「嫌われたものだな」
「そらそうだろよ、しょうがねえなお前のせいだ。……まぁ、そうだな。ウィリーの言うことも一理ある。謠子の改姓は考えといた方がいいかもな」
次の生地をプレートに流す。今度はきれいな円を描いて広がる。見ながら、おぉ、とウィルが感心した声を上げた。
「
「お前ほんといちいちうるせえなウィリアム」
「ねえねえアーサー、ウタコはきみの養子にできないものかな?」
もう一枚分、生地を流す。これも形がよい。
「無理だよ、俺結婚してねえしする気ねえもん。日本は未成年は夫婦じゃないと養子にできませーん。……でも確か、両親死んだ子どもは成人するまでにどっちかの姓選べるんじゃなかったかなぁ……」
「ふぅん、じゃあ大丈夫だな。……しかしアツヒサ、何故きみは妻をとらない? ヨリコじゃなくてもいい人はいただろうに」
篤久は手に持っていたお玉杓子をくるりと方向転換させると、そのプラスチック製の柄の先でウィルの前髪の分け目をぬって額の真ん中を正確に突いた。
「アゥヂッ⁉」
「ヨリちゃん云々は関係ねえよおめェがちゃんと父親してりゃアこんなことになってねえんだよ」
「僕のせいにするな、きみが何かと詰めが甘いからじゃないか」
「大体おめェのせいだよこれでも結納まではいったんだからな相手ヨリちゃんじゃねえけど」
「ユイノウ? とは」
「あ~、……An engagement.」
「オゥ。それは知らなかった」
そんなやりとりの中、未だに機嫌の直らない謠子は黙々とパンケーキを食べていたが、皿にある分を食べきってコーヒーを一口飲むと、また頬杖をついて外方を向き、
「でも先々週
ぽそっと小さく一言放った。篤久はぎょっとし、ウィルはワォ、と歓声を上げる。
「うたっ、おまっ……何で今こいつの前でそれ言う⁉」
よりによってうるさい奴に知られた――案の定、
「スズネ⁉ タケビシ⁉ あの子か! そうか、そうか成程な!」
ウィリアムは一人で盛り上がる。自分のことではないのに嬉しそうだ。
「アツヒサ、おめでとう! お祝いは何がいいかな⁉ 式に出られないのは惜しいけど精一杯の祝福を」
「だァから俺は結婚する気ねえっつってんだろうが勝手にご成婚させんな‼ 謠子お前わざと言ったな⁉」
「知らない」
目を合わせようとしない謠子はコーヒーを啜る──ああ、怒っている。きっと彼女の大嫌いな彼女の父親を屋敷に連れ込み、あまつさえ仲良く談笑等してしまっている、この状況そのものがよくないのだ。篤久は大きな溜め息をつく。
何故だろうか、自分など比較にならないくらいに過酷な目に遭っているはずなのに、この親子はそれぞれ意外と伸び伸び元気に生きている、ように見える。
何故だろうか、この親子よりもたいぶんましな人生を送っているはずなのに、自分には何かと厄が降り掛かってきている、気がする。
「も~、謠ちゃんごめんて~、でもちゃんと真面目な話だったじゃんか~」
「知らない、伯父様大っ嫌い」
「ちょっ……! ウィリー、お前それ食ったらさっさと帰れ!」
「えぇ⁉ ひどいよアーサー! 僕お昼食べてないんだよ⁉」
「知らねえよお前がここにいると俺が謠子に嫌われンだよ!」
厄――なのだろうか。そうは思いたくはないのだが。
確かに、総合的に見れば不幸な親友のせい、なのかもしれない。
それでも、その不幸な親友に託された娘は、
「……あと二枚までなら、食べていってもいいよ」
いつも散々自分を振り回してはくれるが、こんなにも愛しい。
そう、自分は今、この子の為に生きている。
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