炎妃竜と討伐士Ⅱ
呆気に取られて息を呑む、という経験をしたのはだいぶ久し振りだった。
剣を握る手から力が抜け出し、重みで自然と腕が下がる。自由落下で地面に切っ先が埋まると、その衝撃で我に返る。
「女、の子……」
思考が行き着いた答えに首を振ってそれを否定する。在り得ない。否、在り得て良い訳がない。瞬間前まで私の横に居たのは紛れもなく竜だった。それが一瞬にして少女に変わるなど、在り得ない。
両の目から大粒の涙を流し続ける少女の首からは、涙と同様に赤い血が流れ出し続ける。何が起こったのか、事の真相を掴むためにも今は呆けている場合ではない。完全に停止しかけていた思考が寸でのところで活動を再開してくれた。
「止血するから手を退けてっ」
駆け寄る動きと並行して服の裾を千切り取る。
手の届く距離にまで至ると、ビクッ、と少女は身を強張らせて恐怖心に満ちた目でこちらを見る。僅かに見え隠れする敵愾心の残滓が、この少女が先程まで相対していた炎竜である事を否応なしに訴えかけてくる。
困惑が思考の領域を埋め尽くそうと働くが、敢えて気を急く事でそれを追い出す。
「謝罪なら後で幾らでもする。だから、お願いだから手当をさせて」
迫真とも称えられよう焦燥感に溢れる自分の声が耳へと返ってくる。自分事であるにも関わらず、それが演技なのか本心であるのかを判別できない。しかしそれは、真に焦っている為とも考えられるが、今はどちらでも良いこと。
少しの間を挟み、少女の血に塗れた手が首元を離れる。想像したよりも傷口は浅いようではあるが、場所が場所なだけに早急且つ的確な処置が求められる。とは言え、戦場仕込みの応急手当の術しか知識のない私に出来ることには限りがある。
「嫌に精霊使いが恋しい日だ、まったく」
ふと、旧友の精霊使いの顔が脳裏に浮かぶ。彼女が居れば先の戦闘も、今のこの困窮した状況も幾分かはマシになっていた事だろう。リンシアは自分が思う以上に優秀な精霊使いだ。足りない物があるとすれば、自分を信じること――文字通りの自信だけだ。
少女の首に当てがった布が真っ赤に変色し切り、押さえる手に湿気が染み始めて来た。このままでは不味い。少女に布を自身で押さえるように指示し、両手に自由が戻ると同時に少女を両手で抱え持つ。
「な、なにをするっ?!」
可愛らしい悲鳴を上げる少女。両手に掛かる重みも見た目の通り。
やはりこの少女が竜であるとは到底に信じ難い。目の前で起こった事実だというのに、私の頭は未だそれを完全に受け入れようとはしていないようだ。
「これ以上の危害を加えるつもりはないよ。だから、暴れないで」
未だ何か物言いたげな表情を見せるが、それっきり少女は大人しさを保ってくれた。私に対しての怯えか、信頼か、恐らくは前者であろうが、別に構わない。それで言うことを聞いてくれるのであれば何でもいい。
なるべく揺らさないよう、それでいて迅速に少女を魔導式の可変バッグを置いた木陰へと運ぶ。
物珍しそうな少女の視線を浴びながらバッグを漁り、応急手当の道具が一式揃った木箱を取り出す。定住先の無い方浪人にとって、こうした道具は武具にも勝る必需品である。
一通りの処置を済ませ、最後に包帯を巻いたところでようやく一息吐けた。
「これでよし……本格的な治療はフラットの街に着いてからだね」
「……あり、がとう」
俯きがちに礼を告げてくる少女。最初に交わして以来、まともに目を合わせようとはしてくれない。
「礼には及ばないよ……そもそも、その傷を付けたのは私だから」
気まずい沈黙が流れる。
ここまでの一連の行動が必死だったのもあり、根本的な疑問を完全に失念していた私は、思わずその疑問を口にしていた。
「あなたは、さっきの炎竜なの?」
余計に場の空気を重々しくしてしまうだけの問いか、と私が後悔するよりも先に、意外にも少女は頷いて肯定の意を示してくれた。
「これで確定しちゃったねぇ」
横で嬉しそうにする悪精への文句を呑み込む。
「エンキリュウ……みんな、わたしのことをそう呼んでた」
エンキリュウ。初めて耳にする言葉だが、魔物同士での呼び名だろうか。
しかし、人の姿に成れる魔物など今まで聞いた試しがない。人の似姿を模倣する類いの魔物の報告はあったが、目の前の少女は人間そのもの。第一もともとの姿は竜だ。竜が人の姿に成るなど、前例が在ったのであれば大陸全土にその話が広まるはず。
「あなたのように人の姿に成れる竜って、他にいるの?」
「わからない……でも、わたしは普通じゃない。だから、みんなとは居られなかった」
少女が自身の身の上を語った際、一瞬だけ喉が詰まる思いをした。
普通じゃない。居られなかった。この手の言葉を聞くと、今でも深い水底に沈んだような、圧迫感を伴う息苦しさに襲われる。
「似た者同士だね」
まとわりつくような、不快極まりない囁き声が鼓膜を
背筋を伝う悪寒に全身の毛が逆立つのに合わせ、視線が上がる――と、昔によく見かけた目をする少女が視界に映り込む。昔、水面に映っていた自分と同じ目。起きている間、ずっと地獄が続いていた頃の自分の目だ。
永劫に続く地獄であれば今も尚、潰えること無く続いている。されど、抗い生きる術は心得た。幾許か気が晴れる、とその程度ではあるが。
「問題の……その、根本的な解決にはなってないとは思うんだけど。良ければ一緒に、来る?」
放って措けなかった、ではない。あの頃の自分がどうして欲しかったのか、を考えた結果の言葉。リンシアがしてくれた様に、今度は私が手を差し伸べる。
「わたし、竜なんだよ?」
「でも、今は人でしょう。討伐士は魔物を討伐するのが役目で、人は殺さない。そういう決まりで、それが私の流儀なの」
随分な理屈。自分で言っていて呆れた。
でも何となく、善人という種の気持ちが分かった気がする。心の奥の方に温かさを感じる。心をこの温もりに包まれながら生きられたのなら、きっと幸せなのだろう。そんな気がする。
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