炎妃竜と討伐士Ⅰ

 ファティア大陸の二大国家である帝国、そして連合国。

 二つの勢力の抗争は、魔物による侵攻を機に半永久的な休戦状態となった。

 休戦と銘打たれている以上、魔物による脅威の完全な排除が叶った際にはその戦火は再びこのファティア大陸の空を焼き尽くす事だろう。

 しかし、国家間の争いというのは常に上の立場にある者同士の対立構造が生み出しているものであり、その国に住まう一般層の人間にとっては敵味方の分別などは有って無いようなもの。現に、フリーランスの討伐士の中には元軍属の人間が大勢いるものの、先の戦争を持ち出して仲違いを起こす者はほとんど居ない。

 帝国からの荷馬車に乗った私が平然と連合国領に入って来れているのが良い証拠だろう。魔物という共通の敵を得た事で、皮肉にも人同士の長きに渡る戦いの歴史は一旦の終わりを迎えたと言えよう。

 帝国領から連合国領へ移ろう道中にある広い麦畑を横目に、小刻みな縦揺れに身を預けながら土の匂いに感じ入った。農村の出ではない私にとって、この土臭さが郷土を思い返させる働きはしないまでも、形容のし難い懐かしさにも似た感情を想起させられる。

 直近の生活を思い返すと、こうした穏やかな流れの時間を過ごすのは久しいことに気付かされる。地竜討伐戦、国境迎撃戦、飛竜討伐戦――いずれも高難度の激務ばかりを連続して請け負ってきた。無論、私自身が望んで受けた仕事である。

 地竜との戦闘で負った傷は未だ癒えず、馬車が揺れる度に僅かにだが響く。が、それももう慣れた感覚だ。身体のどこかに痛みを覚えない日はない。常に痛みを付きまとわせておけば新たな痛みや古い痛みにも鈍感になれる。


「おおっと……いったい何の騒ぎだ?」

「竜だよ、東の方に竜が出たんだ」

「竜? またか、最近は嫌に多いな」


 馬車が急停車し、その勢いでひっくり返らないように踏ん張っていたところ、外から馬車の主人と何者かの会話が聞こえて来た。他にも遠くの方からざわついた声が伝わってくる。

 馬車の窓枠に封を施す銀製の留め金を外して顔を出す。

 畑の合間を縫うような畦道の先に人だかりが出来ているのが見えた。少し距離が開いているのもあって詳細なことは掴めないが、人だかりを形成する集の格好を見るに、この近くで暮らす農家の人間で間違いないだろう。


「お客さん、すまないね。どうやら竜のやつが出ちまったそうで」

「聞こえていました。このまま進むのは難しいですか?」

「行けない事はないと思うんですが、出た方角が方角なだけに、おいそれと進むわけにはねぇ」


 目的地であるフラットの街へはここから東の森を抜けて行く必要がある。故に、竜の出た方向へ馬車を走らせる事となる。主人の立場を考えれば凡そ言えないだろうが、案じているのは私の身ではなく自分の方なのだろう。


「でしたら、森の近くまでで結構です」

「近くって……まさか、抜けるおつもりで?」

「どうしてもフラットへ行かなくてはなりませんので」


 前言は撤回しよう。主人が案じているのは自分だけではなかったようだ。最初からよく知りもしない相手の思考を決め付けて物を考えてしまうのが自身の悪癖であることは承知しているが、この手の人間の考えとなると極端に読めなくなる。

 心配そうな目を向けてくる主人に些かな気まずさを覚えつつ、私は馬車の席へと戻った。程なくして、馬車は再び小刻みに揺れ出した。



 善人という人種の行動理念はやはり理解に及ばない。

 別れ際に馬車の主人に手渡された塗り薬の収まるビンを眺め見ながら、過去に遭遇した理解不能な場面の数々を喚起したところ、盛大な溜め息が漏れた。


「優しさを理解するのが怖いの?」


 悪精が耳元で囁く。


「ええ、怖くて仕方がない。そんな物を理解し出す自分が」

「アンタだって人間っしょ? 同じ種族が抱く感情くらい理解できても不思議でも何でもないと思うけどね」


 払い除けたい衝動を堪え、森の中へと歩み出す。

 理解できない、ではなく、理解したくない。事実、悪精の言っている事は正しかった。理解している自分を見ないようにして、間に壁を作って遮断している。

 注意力が散漫とした今の状態で森の中を歩き進める事がどんなに危険であるか、十分に承知している。その上で構わない、と歩みを続けている。運良く死ねれば儲けもの、何も無かったとしてもそれはそれで手間が省けて結構。

 基本的に人よりも小さいか同じくらいか、という大きさの魔物は自ら進んで人を襲ってこようとはしない。連中は良くも悪くも本能的に動いている節がある。わざわざ自らで死のうとはしない。まして、私のように武装していれば尚の事。

 何事もないまま歩みを続けていると、少し開けた場所が見えて来た。と、同じくして不穏さがにじり寄って来るのを感じる。

 焼けた石に水をかけた際に聞こえる蒸発の音が断続的に耳へと届き、僅かに肌を湿らせる目には見えない程に薄い蒸気が漂う。揺らぐ水面の煌めきが目に届けられると確信する――竜だ。

 木の影に身を潜め、開けた先の中程度の広さをした湖畔を眺め見る。瞬間、特に意識せずとも目に留める程に鮮やかな朱色を捉えた。紅朱の鱗と鱗の合間から染み出す粘度の高い赤黒い液体が湖畔へと垂れる度にあの音が周囲へと響き、多量の蒸気を発している。

 地竜を見た後では霞んでしまうが、それでもその体は十分に巨躯。飛竜と並んで身体が小さいとされる炎竜だが、あの大きさと太さを誇った尾を全身で受けようものなら、容易く全身の骨を粉砕されてしまうのは明白。


「チャンスじゃない?」

「うるさい」

「まあ、させないけど?」

「黙ってて」

「こっわーい」


 剣の柄を掴んだまま目を閉じる。戦闘のイメージを頭で思い描く。

 自分の動き、相手の動き、周囲の動き。次に目を開けた時、それが開戦の合図。

 息を吸い、少し待つ。そして、吐く。

 始めようか――木の影から反転するように身を翻して走り出す。一直線に湖畔の方へと茂みを抜ける。

 陽の明るみへ出た私を炎竜が視認し、下げていた首を上げる。所作は遅く、しかし無駄はない。

 湖畔を横断して近付くのが最短だが、私は精霊使いではない。水面を歩くなどと言う芸当は出来やしない。湖畔の歪な楕円の輪郭を沿うようにして炎竜へ近付く。

 炎竜の迎撃態勢は整ったようで、口元から炎が漏れ出しているのが遠目から見ても分かった。広範囲へ放射するものか、それとも炎弾か。出たとこ勝負ではあるが、こちらも無策で飛び出した訳ではない。

 炎竜の首が伸び、頭が天へと向けられる。炎が喉をせり上がって来ている様子が喉の膨らみで把握できる。想定よりも距離は離れているが、特に問題ではない。

 円周上の膨らみを越え、後は一直線に走って向かうだけ、という位置関係になった次の瞬間、視界を炎が覆った。直撃するまでには少し距離があったはずだが、それでも顔全体が焼けるような凄まじい熱気に襲われる。

 走っていた足を止め、剣の柄を両手で握り直して構える。不意にこのまま炎に身を包ませれば死ねる、という考えが脳裏を過ったが、どこかから悪精の嘲笑が聞こえて来たような気がして、すぐにやめた。

 本来は防御の魔法ではない『瞬間の延長』を発動させ、炎の中へと再び駆け出す。炎の中を走り抜ける感覚というのは、中々に実感を持ち辛いものである。魔法によって熱ささえも感じ得なければ、尚の事だ。

 瞬間の延長の持続時間は、最大に引き延ばしてもせいぜい二、三秒が限度である。だが、それだけの時間を得られれば十分に助走がつけられる。次に踏み込んだ足で地面を蹴り、炎竜の方へ跳躍する。

 炎に包まれていた視界が開け、再び色彩に富んだ世界が広がる。次いで、炎竜の姿を捕捉する。炎の放射が終わる間際なのか、逆立った首元の鱗が頭の方へ向かって順に元に戻り出している。

 炎竜の前傾している首のちょうど真横で着地する形となった為、逆立っている鱗と鱗の境に刃を通しながら着地する。剣はすんなりと炎竜の皮膚を割き、切り口からは先の高温の液体とは別の粘度の低い液体が噴き出してくる。

 俗に『竜血』と謂われる物は純度の高い竜の血液を指し、心臓から生成されてすぐの血のことであり、竜の皮膚を割いて流れ出す血の全てを竜血と呼ぶわけではない。故に鮮度の高い竜の死体を解体してごく少量しか取れない。

 咆哮を上げる炎竜へ追撃を加えようと、着地と同時に剣を振り抜こうとした瞬間、そこに炎竜の巨躯は無かった。代わりに在ったのは、首元を手で押さえながら泣きじゃくる少女の姿だけだった。

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