第九話


  〈二日目、二十時〉


 最低限の荷物はまとめた。あとは、闇に紛れてここを抜け出すだけ。

 多和本磨皓は緊張していた。自分はまた、悪事を働こうとしている。本来いるべきエリュシオンに戻らないどころか、他所の家の子どもを連れて、行方をくらまそうとしている。

 世間的には許されることではないのだろう。しかし、「命を奪うわけではない」という言い訳が、罪悪感を僅かながらに和らげていた。どうせもう帰れない。どこに行ったって、どんな暮らしになったって構わない。ステラによく似たこの子の近くにいられるのなら。


 その、人形のような少女はというと、相変わらずソファーに座したままだった。よく何もせず飽きないものだ。


 と、


「もう、話すことはないの?」


 静かな、小さな声。台所にいた磨皓はどきりとして、ミネラルウォーターを注いでいたコップを取り落としそうになる。

「はなす、こと」

「きみが殺したのは川羽田さんだけじゃないだろう?」

 謠子はワンピースの裾を気にするでもなくソファーの上ではんを組み、その膝の上に頬杖をつくと、横目で磨皓を見た。

「言ったはずだよ。僕の武器をなめないでほしいって」

「……確かに、浄円寺データバンクの持つ情報量はすさまじい」

 しかし、エリュシオン内部のことまでは手が出せないはずだ。エリュシオンは国の管理する施設、片や浄円寺データバンクは屈指の情報屋として知られ、キャプターに協力しているとはいえ一般企業。やみにその中を覗こうとすれば罰せられる。

 磨皓の思考を読んだか、謠子の口角が歪むように上がった。

「そういえばまだ、ちゃんとした答えを聞いていないな。先の未成年ギフテッド逃走事件のとき、きみはどこで何をしていたの? 特戦部の人に聞いたけど、持ち場を離れていたんだってね?」

「……子どもが、……近くにいて……誘導を……」

「そう。逃走した未成年ギフテッドとキャプターが戦闘になった現場の近くに住んでいた、小学生の女子だ。名前は……みやじま。顔が少し川羽田さんに似ているね」


 じわり、じわり、皮が剥がされていく。寒気と汗が同時に出る。

 己の鼓動が、血の流れが、間近で聞こえるようで。


 思い出す。


『何でさっさと行かないの?』


 非難するような言葉。


 真っ赤なあたたかい飛沫、鉄に似たにおい。


「きみが持ち場を離れていた時間帯と、宮嶋愛里咲さんが行方不明になったとされる時間帯。これが重なっているのは、一体何の偶然だろうね?」


 深い緑の瞳に宿る眼光に射られ、磨皓は言葉を返すことができない。ぐるぐると過去のことが巡る。鼓動に合わせるように、呼吸が早くなる。


「もう少し、吐き出しやすくしてあげようか?」

 にい、と少女は嗤う。

「それより少し前に、きみはこの町に帰省しているね。外出届の記録が残っていたよ。理由は同窓会。……しかし不思議なことにね、きみが帰省した後で、この町でも何人か行方がわからなくなっているんだ」

「……祖父と両親は、外国に……昨日、言ったじゃないか」

 平常心を装い、震えないように声を出す。

 が、

「きみの身内の話は今はしていないよ」

 その一言に、思わず息を止める。謠子は構わず続ける。

「井戸。蓋の縁に何かが当たって擦れたような跡があった。二十年前に川羽田さんを隠したときのものにしては、そう古くない。きみは気付かなかった?」


 近くに聞こえていた心臓の音が消えた。

 静寂に、少女の声と、壁掛け時計の秒針の音のみが響く。


「きみの、同級生が三人。戸籍はそのままなのに存在は確認されていない。こういう辺鄙な場所なら〝神隠し”、なんて言ったりするのかな。……でもそうじゃないね。普通なら行方がわからなくなれば周りが騒ぎ出す。それなのに何年も放置したままだ。行方不明者の身内は、しかるべき機関に訴え出ることができないんじゃない? 同じ目に遭うのを――きみたち一家による報復を恐れて」

「報復、だなんて、そんな」


 笑いが浮かぶ。笑いたいわけでもないのに。

 それが見えたのか、謠子は僅かに目を細めた。


「曾祖父は先の大戦で唯一生きてこの町に帰った元軍人、祖父と父親は警察官。母親もいい家のお嬢さんだったらしいじゃないか。ここに来るときに通りかかった家の何軒か、きみの車を確認したらカーテンを閉めていた。多和本家はこの町の中では随分と力があるようだけど、まるで恐れられているようだ。……川羽田さんのことだけだったら、まだ揉み消すのにそう苦労しなかった。でも、川羽田さんのことがきみの仕業だときみの同級生三人に知られてしまい、きみの祖父か父親、あるいはその両方の指示で口を封じた。遺体はあの井戸の中。違う?」

「違う、ちがうぼくは、やってない」

「『やってない』。でも遺体があそこにあるにはあるんだね」

 謠子は目を逸らし、ひとつ、息をついた。

「きみが手を下したのでなければ、そっちを実行したのはきみの祖父と父親か。で、…………その祖父と父親、そして母親をきみが手にかけた、と」

「な、にを」

「蔵の中の白骨死体。身内のものの割に随分と雑に置いてあったね。刃物を使ったような切断面に見えるけど、ヒトの骨をほとんど欠けさせることなくきれいに切り刻むには、人間の力だけでは難しい。でもこの周辺にそんなことができる重機や施設はない。強化防弾ガラスさえヒビを入れずに切り裂くというきみのギフトによるもの、と考えるのが自然だろう」

「蔵に入ったのか⁉ 危ないから近付かないようにってっ、」

「あっはははははは!」

 謠子は声を上げて笑った。愉快そうだ。

「僕のようなのがセオリーじゃないか、多和本くん。……尤も、僕があそこを調べさせてもらったのは、きみに近付くなと言われる前のこと。聞いてないんじゃ、危ないなんてわからないよね?」

 磨皓に言われる前、朝七時ぐらいには謠子は居間のソファーにいた。つまり謠子が蔵を調べたのは、それより前、磨皓が就寝してから起きてくるまでの間ということになる。今の時期、日の出は遅い。月も出ていない闇夜の中、それこそ集落の誰もが完全に寝静まっている深夜に、たった一人であんなところに入るだなんて――大の大人でも、そんなことができるかどうか。頭が回るだけではない。この子はこの歳で、役職に見合った胆力と行動力をも持ち合わせているのか。


 ステラ。

 この子は。

 怖い。助けて。


 殺してしまおうか?

 否。

 殺してしまったら、守れない。

 彼女は守られて然るべきものじゃないか。


 それにこの子なら。


「あの蔵にあった骨は成人三人分。消えたきみの同級生も三人だけど、これまでの情報から推測するに、きみの祖父どのは死体なんて穢らわしいものを自宅の敷地内に置いておくような人間ではない。とすれば、きみ一人で一度に三人を殺してしまって、処理に困ってあんなところに放置したんだろう。床の血の染みがすごかったよ」


「仕方ないじゃないか!」


 振り下ろした手から落ちたコップが割れる。


 謠子も磨皓も、既に笑ってはいなかった。

 睨むように、互いを見つめる。


「川羽田さんが、あの子が、あんなこと言わなければ! 僕はちゃんとこの力を使えるようになりたかった! そうすればお爺ちゃんもお父さんも褒めてくれたはずなんだ! なのにお爺ちゃんもお父さんもあんなことして……正しいことをするんじゃなかったのか⁉ みんなを守るお巡りさんじゃなかったのか⁉ お母さんだって、泣いて見てるだけで止めようともしなかった! 何で止めないんだ⁉ 正しくないことをしているのにっ……何でっ……」


 多和本磨皓は泣いている。涙は出ていないが、泣いている。


「僕が悪かったのか⁉ どうして⁉ 全部僕のせいだと⁉ ギフトが出てすぐにエリュシオンに行けばよかった⁉ こんな、こんな不安定で危険な力を、ろくに扱いきれないままで⁉ そんなのお爺ちゃんが許してくれるわけがない、全部、全部ちゃんと、できなきゃっ……正しいことに、使えないじゃないかっ……僕はっ……」

「きみが身内からの重圧や能力に対する恐怖心に堪えていたことに関しては、多少同情の余地はある。でも、人を殺していい理由にはならない。きみには何度もチャンスがあったはずだ。ギフトが出てすぐに施設に行けば、ちゃんとした訓練を受けることができた。川羽田さんを殺した時点で自首すれば、早いうちに更生プログラムを受けて、運がよければキャプターにもなれた。……あくまで、運がよければ、だけどね」

 謠子は立ち上がり、真っ直ぐ、磨皓を見据える。

「きみも、きみの母親と同じだ。正しくないことをしていると知りながら、そこから目を逸らして何もしなかった。そうやってズルズルと引き摺って隠し続けて、罪を重ねて。そんなきみが正義を語るの? 笑わせるんじゃないよ」

 目に宿る光と共に、語気が強くなる。


 姿は全く似ていない。が、そこに凜と立つその姿に重なるのは、あの人形ではなく――常に強くあろうと己を律していた浄円寺叶恵。同時に、昼間見た彼女の祖父に似た目を思い出すと、背筋がぞくりとした。


 この子は確かに、あの二人の血を継いでいる。


「昨日のきみの問いに答えよう。何故僕がキャプターになったのか? 正義の味方をるつもりはない、僕個人の目的の為さ。正義なんてクソくらえ、邪魔をする奴は全力で潰す。……きみもそうだよ、多和本磨皓」

 謠子は、また、嗤った。

「きみが何を嘆いてどれだけ罪を重ねようと、僕の知ったことじゃあない。でもきみという存在は目障りだし、何より僕は人殺しっていうものが大嫌いなんだよね。きみがしでかしてくれていたのは本当に、丁度よかった」


 右手を差し出すように掲げる。

 その掌の上、何もないはずの空間が、歪むのが見える。歪んだ何かは徐々に形を成し、そこに現れた紐のついた紙の筒のようなものを、白く小さな手が掴む。いつの間に取り出したのか、左手には使い捨てライターが握られていた――否、この子がこんなものを持ち歩くはずがない。これも、まさか。


 彼女の能力、ギフト『具現化』。

 知識と想像力をもって、〝無〟から物質を創造する能力。


 しかし同時に二つの物を作り出すだなんて――


「タイムアップにはちょっと早いけど、まぁいいか。平田くんも待ちくたびれてるだろうし、僕も飽きた。終わりにしよう」

「ま、さか、貴女は、」


 最初からこうするつもりで。

 キャプターを辞めさせようとする自分を逆に追いやり排除する為に、くだらない〝賭け〟を持ち掛けたのか。


 顔色ひとつ変えることなく、導火線に着火する。磨皓はそれを断ち切ろうと狙いを定めた。が、その前に謠子は火の着いた爆発しそうな何かを磨皓のいる方へ向けて投げ付けた。

「ひ、ィッ⁉」

 慌てて逃げようと駆け出す。しかし謠子は動かない。磨皓は叫んだ。

「逃げろ、何してるんだっ!」

「きみの指図は受けない」



 多和本家の台所と居間は、爆音と煙と炎に包まれた。






 目が覚める。障子の向こうは明るい。一体どのくらい眠っていたのか。

 枕元には、ふんわりとした生地のあたたかそうなガウンが畳んで置いてあった。障子の外側は、祖父母が亡くなる前に行ったリフォームの際に防音と断熱に優れたペアガラスに変えられたが、それでも空調のない冬の和室は寒い。布団からスムーズに出られるようにという気遣いなのだろう。

 起き上がると、夜着越しに空気の冷たさを感じた。ガウンを羽織り、隣の仏間へ続く襖を開ける。壁に掛けてある古い振り子時計の針は、十時を少し回っていた。そのまま仏壇の前に座り、線香に火をともして手を合わせる。


 と、背後に気配を感じた。


「おっはよー謠子様ァ、よく眠れたかぃ」

 声に振り返ることなく、膝の上に手を置いて仏壇を見つめたまま、

「ごめんなさい」

 小さく、呟くように言う。溜め息が聞こえた。

「何ィ? 聞っこえねえなァ~?」

「……ごめんなさい」

 少し、間を置いて。

「謠子。立て。こっち向け」


 静かな声、きっと怒っているのだ。


 昨夜は平田と合流してからすぐに、多和本磨皓捕獲作戦チームのリーダーだった戸谷誠の「大変だっただろうから帰っていいよ」という言葉に甘えて帰路につき、帰宅したらすぐに風呂に入れられ、布団に寝かし付けられた。車の中でも帰宅してからも平田が何も訊こうとしてこなかったのは、謠子が丸一日以上も危険な人物と二人きりでいて、ギフトを二回、しかも同時に使ったことで心身共に疲労していたことを理解していたからだ。そして謠子も、彼のその気遣いをわかっていた。


 言われた通りに立ち上がり、ゆっくり振り向く。


 襟元を開けて着る白いワイシャツに黒いネクタイ、ベスト、スラックス、そして靴下。


 以前はこんなではなかった、すっかり見慣れてしまった姿。


 謠子は直視できずに、目を伏せて、思わずもう一度、口にした。

「ごめんなさい、さま、私、」

 それに応えるでもなく、平田はもう一度、溜め息をつくと、手を振り上げる。叩かれる――謠子は覚悟して目を閉じた。


 が、


「二度とすんなバカ」


 そのままその手は謠子の頬に添えられ、むにむにと揉んだ後、強く抱き締めてきた。


 きっと自分が考えていた以上に、彼には心配をかけてしまっていたのだ。申し訳なさと、ほんの少しの嬉しさに、謠子は胸が苦しくなった。自身もぎゅっ、と力一杯しがみつくと、丸一日以上離れていたときの記憶が蘇り、今になって手が震えた。

「……伯父様」

「伯父様言うなっつってんだろ、折角だいぶ慣れてきたのに」

「伯父様、ごめんなさい、伯父様」

「うん、もういいよ、わかったから」

「ほんとはね、怖かったの」

「…………うん」

「すごく、怖かった」


 消え入るように、小さく、泣きそうな声。

 いつもの偽名ではなく、本来の呼び方を使った。本音なのだろう。


 それでも謠子は泣かないことを、平田――浄円寺篤久は知っていた。


 こういうとき、泣けば少しは楽になるのかもしれない。しかし、謠子はきっと、それを禁じることを己に課している。その気持ちを尊重し、「泣いていい」と言おうとはしなかった。


 今は、一緒に堪えればいい。


「わかってるよ、よく頑張った。……でもほんと、二度とこんなことするなよ。俺も今回ばかりは滅茶苦茶寿命縮まったぞ」

「やだ、死なないで、死んじゃダメ」

「だったら無茶しないでちょーだい。いいな?」

「はい」


 二人はそのまま、しばらく抱き合っていた。

 助かった。無事でよかった。

 一晩明けて、その安堵感を、共に噛み締めていた。


「……あのね、平田くん」

 落ち着いたのか、呼び方が戻った。見上げる表情も、いつもの小生意気な口ばかり叩く謠子お嬢様に戻っている。多和本磨皓に切られて不揃いになってしまっている金茶色の髪をくしゃくしゃ撫でながら、

「なぁに、謠子様」

 平田も返事をする。

「多和本磨皓も何も知らなかったよ、お爺様とお婆様が死んだときのこと。直前まで部下だったから、何か知ってると思ったのにな」

「そっか。…………って、おい、まさかお前、わざわざそれ調べる為に多和本にちょっかいかけたんじゃ」

 平田の腕から抜け出して、踊るようにターンしながら謠子は仏間を出る。白いワンピース型の夜着とガウンの裾が、優雅にふわりと舞った。

「依頼された浄円寺データバンクの仕事、同僚の不祥事の処理、邪魔者の始末。そんなの全部、〝ついで〟に決まってるじゃないか。僕の目的は、お爺様とお婆様の死んだ理由と犯人を突き止めることと、楽園エリュシオンなんて名ばかりのあの施設を潰すこと。それ以外には興味はない、知ってるでしょ」

「ついで、じゃねえよ! そんな厄介なのいっぺんにやろうとすんな、だからあんな危ねえ目に」

「ねぇ平田くん、お腹空いたよ。一昨日のお昼から何も食べてないの、何かない? あと今夜ビーフシチューがいいな。お肉いっぱい入れてね!」


 あぁ、ダメだ、このガキ全く聞く耳持ちゃしねえ。キャプターに就任して、やっと、もうすぐ、まだ一年だというのに、既にこの暴れっぷり。深いことこの上ない溜め息が出る。


「前に約束したよね、ワガママ全部聞いてくれるって」


 にっこりと笑うその顔は、前のお嬢様――妹のに、よく似ている。まるで全てのことが――己に降りかかる身の危険すらも――遊びであるかのような表情。本当に、憎らしい程に愛らしい。


「めっちゃェの作ってやんよ!」


 平田の半ば自棄やけな返答に、謠子は、


「期待してるよ、平田くん」


 人形のような顔で、悪魔のように微笑んだ。




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